47話 夏の訪れと、白銀の異変
本格的な夏を前に、村を包む空気には雪解けの湿った土の匂いが消え、代わりに乾いた草と、名もなき野花が放つ濃密な香気が風に混じる。
ハルは朝早くから窓を開け放ち、少しでも涼しい風を家の中に呼び込もうと立ち働いていた。いつもなら、この時間はクズノハが二階から降りる音や、お使いの準備を催促する鼻息が聞こえてくるはずなのだが、今朝はどうも様子が違った。
階段の方から、とて……とて……と、どこか心許ない足取りが聞こえてくる。
現れたクズノハは、いつものような覇気がなく、ふらふらとした足取りで食卓の椅子まで辿り着く。そして、よじ登るのにも一苦労といった様子でふすっと小さな鼻息を漏らした。
ようやく椅子に腰掛けたかと思えば、そのまま食卓にぺしょんと突っ伏して、動かなくなってしまったのである。
「おや、クズノハちゃん。どうしたんだい、まだ眠いのかい?」
ハルが台所から声をかけながら近寄ると、クズノハは力なく顔を上げた。
普段は輝くような白銀の瞳がどこか虚ろで、いつもはぴんと立っている獣耳も、心なしか横に寝てしまっている。それでも、彼女は思い出したように立ち上がると、よろりと玄関の方へ一歩を踏み出した。
「ふすーっ……ふすーっ……」
荒い鼻息を漏らし、必死にお仕事へ行こうとするその背中。だが、その足元は今にも崩れ落ちそうに覚束ない。
「いけないよ。今日はもうおよし、クズノハちゃん」
ハルは慌てて駆け寄り、その小さな身体をひょいと抱き上げた。
腕の中に伝わってくる体温が、驚くほどに熱い。日差しの強さに当てられたのか、それとも悪い風邪でも引いたのか。
ハルに抱き上げられたクズノハは、いつもなら少しは抵抗して足をバタつかせるはずが、今日は糸の切れた人形のように、だらりとハルの腕に身を任せていた。
「まあ、なんて熱だい! 顔も真っ赤じゃないか!」
ハルは気が気ではなかった。この半年、すっかりこの家の一員として馴染んでいたクズノハだが、獣人という存在についてはハルには分からないことだらけだ。ただ、この小さな命を預かっているという責任感と、孫を想うような慈しみだけが、老婆の胸を突き動かした。
ハルはクズノハを寝台に運び、手早く服を緩めた。
クズノハは苦しげに瞳を閉じ、自慢の白銀の尻尾を重たそうに横たえている。
「今、冷たいお水を持ってくるからね。待っておいで」
ハルは急いで井戸へと向かい、水を汲んだ。冷たい水で濡らした布を用意し、クズノハの額や首筋、そして熱を持って膨らんでいるように見える尻尾を、丁寧に、優しく拭っていく。
冷たい布が肌に触れるたび、クズノハは「ふすーっ……」と小さく吐息を漏らし、安堵したように僅かに身体の力を抜いた。
「大丈夫かい……?お水は飲めるかい……?」
ハルは絞った布をクズノハの身体に当てながら、その火照りが少しでも引くことを祈るように、何度も何度も看病を続けた。
言葉の言えない幼子を看るというのは、いつだって暗闇を歩くような不安が伴う。ハルは、クズノハの浅い呼吸に合わせて、自分もまた祈るような心地でその傍らに寄り添い続けていた。
昼を過ぎても、クズノハの火照りは一向に引く気配がなかった。
ハルは何度も水を替え、絞った布でその小さな体を拭い続けていた。少しでも熱を逃がしてやりたい……その一心で、ハルは重たそうに横たわっている白銀の尻尾に手をかけ、付け根から先の方へと、濡れた布を滑らせる。その時だった。
「……あ……」
ハルの指先が、言いようのない違和感を捉えた。
布を引いた拍子に、抵抗もなくごそっという手応えが伝わってきたのだ。
恐る恐る布を掲げたハルの視界に、驚くほど大量の銀色の毛が、まるで綿雪を固めたような塊となって絡みついていた。
「どうして……。そんな……」
老婆の血の気が、一気に引いていく。
慌てて尻尾に触れれば、撫でるそばから銀色の毛が束になって零れ落ち、シーツの上に散らばっていく。指を入れれば、いくらでも抜ける。
昨日まであんなに美しく、ふさふさと輝いていた自慢の尻尾が、自分の手の中で崩れていく。
「クズノハちゃん! ああ、神様、どうして……!」
ハルの指先が、恐怖で目に見えて震え始めた。
重い病か、あるいは恐ろしい呪いか。言葉を持たないこの子の身に、何が起きているのか。
ハルは震える足で部屋を飛び出し、たまたま通りかかった村の子供を捕まえると、「お願いだ、神父様を呼んできておくれ!」と、悲鳴に近い声を上げた。
それからの時間は、ハルにとって永遠のような、暗い絶望の淵を歩く心地だった。
やがて息を切らして駆けつけたヴィンセント神父は、寝台の惨状と、泣き出しそうな顔でクズノハを抱えるハルの姿に、静かに
表情を引き締めた。
「ハルさん、落ち着いて。私が見ましょう」
神父は慎重に、しかし手際よくクズノハの尻尾の根元に指を差し入れた。
ハルはそれを、最悪の宣告を待つような心地で見つめていた。もし、このままこの子が衰弱して、毛が全て抜け落ち、消えてしまったら。そんな想像が、老婆の心を掻き乱す。
「……ふむ」
神父がふっと、肩の力を抜いた。そして、絶望に震えるハルの顔を、穏やかな、どこか困ったような目で見つめた。
「ハルさん。……見てごらんなさい。この、抜けた跡のところを」
神父がクズノハの尻尾の毛を掻き分ける。
そこには、これまでのような長く厚い毛ではなく、瑞々しい輝きを放つ、短く整った新しい毛が、びっしりと地面の芝生のように生え揃っていた。
「……え?」
「これは病気ではありません。……獣人特有の、衣替えですよ。役目を終えた冬の毛を、夏の熱を逃がすために、こうして一気に脱ぎ捨てるのです」
ハルは呆然と立ち尽くした。
衣替え。その言葉が、頭の中で何度も反芻される。
「そんな……。じゃあ、病気じゃあ、ないのかい? この子は、死んだりしないのかい?」
「ええ、死にませんとも。むしろ、この余分な毛が抜けてしまえば、熱も自然と引くでしょう」
神父が去った後、静まり返った部屋の中で、ハルはへなへなと床に腰を抜かした。
安堵が、涙となってこみ上げてくる。
「……驚かせるんじゃないよ、本当に……。肝が、潰れるかと思ったじゃないか……」
ハルは乱暴に目元を拭うと、棚から古い木櫛を取り出した。
まだ少し火照っているクズノハを優しく抱き寄せ、その大きな尻尾にゆっくりと櫛を通す。
梳くたびに、部屋の中に白銀の綿雪が舞い踊る。
ごそり、ごそりと取れる冬の残骸を丁寧に、慈しむように取り除いていく。
一掻きごとに、クズノハの呼吸が楽になり、その表情から苦悶の色が消えていくのが分かった。
夕暮れ時。
部屋の隅には山のような銀色の毛が積み上がり、クズノハの尻尾は、驚くほどスリムで涼しげな姿に変わっていた。
熱が引いたクズノハは起き上がると、いつものようにふすっ!と元気よく鼻を鳴らした。そして軽やかな足取りで、夕飯の支度を始めたハルの裾を、これ以上ないほど軽快になった尻尾でゆらゆらと叩いた。
「今日はもう、お仕事はお休みだよ。さあ、元気になったなら、美味しいスープをお食べ」
ハルは一回り細くなった、けれど力強く動くその尻尾を愛おしく眺めながら、初夏の穏やかな夜風を迎え入れた。
「クズノハちゃん、この毛は捨てずにとっておこうね。よく洗って乾かしたら、一緒に何かを作るとしましょうねぇ?」
クズノハは自分の抜け毛の山と、ハルの顔を交互に見つめた。彼女は少しだけ考え込むような仕草を見せた後、ゆらりと軽くなった尻尾を一度だけ大きく振り、満足げにふすっと短く鼻を鳴らし、首を縦に振った。
窓の外では、夏の訪れを告げる虫の音が、静かに響き始めていた……。




