狐の初陣
視界は白く、静寂が耳を刺し、幾ばくかの時間が経過したころ。
気持ちを落ち着けたクズノハは雪原で起き上がり、衣服についていた雪を払っていた。【環境適応:寒冷】のおかげで凍えはしない。だが、その余裕が、皮肉にも己の無様さを克明に自覚させていた。
【野生の直感】が、背後の震動を捉える。
(……何かが、来る)
佐藤は凍えそうな指先に力を込め、拳を握りしめた。ゆっくりと首を動かして背後を仰ぎ見る。そこにいたのは、一匹の、か弱い仔うさぎだった。
(……獲物だ。飢えを凌ぐための、最初の糧)
彼女は視界で仔うさぎを見据え、じりじりと距離を詰めた。
だが、数歩。ただ数歩踏み込んだだけで、スタミナゲージが無慈悲に削られていく。
(……重い。)
【強健な足腰】の補正すら、和装と尻尾の重みと、幼児の短すぎる歩幅。雪原の積雪という物理的な絶望には届かない。一歩雪を踏みしめるごとに負荷が肉体を焼き、心肺を圧迫する。
(だが、一撃で終わる……!)
クズノハは地を蹴った。
だが、その瞬間、自身が設計した物理演算が牙を剥く。
深すぎる雪と、和装の裾。絡みつく正解の物理が彼女の重心を容赦なく奪った。渾身の拳は仔うさぎの毛並みを掠めることすらできず、クズノハは無様に雪へと突っ伏した。
(何だと……?)
追い打ちをかけるように、仔兎の必死なキックが腹部にめり込む。
和装と【耐久】に阻まれ、実ダメージこそない。だが、転がる彼女の上に仔うさぎが乗り、無力な捕食者を足蹴にする。
腕を振り回すも仔うさぎは彼女の手が届かないところに移動し、またキックを打ち込んでくる。
お互いに全力を尽くしている。それなのに、眼前の光景は、ただの虚しい泥仕合だった。
もがき、暴れ、必死に手を伸ばす。そのすべての挙動が、残されたわずかなスタミナを無慈悲に奪っていった。
やがて、極限まで削ったスタミナが底を突く。
クズノハは泥と雪に塗れて大の字になった。すぐ隣では、同じく力尽きた仔うさぎが荒い息をついている。
その時。音もなく雪を割って、大きな影が現れた。
親うさぎだ。親うさぎは、警戒する様子もなく佐藤の傍らまで歩み寄ると、迷いのない動作で、仔うさぎの首元を咥え上げた。
佐藤は、雪に頬を押しつけたまま、必死に視線だけを上げた。
(……見ろ。ここに、お前の仔を狩ろうとした狐がいる。……殺せ。野生として、正しく俺を、殺せ……!)
だが、そのとき。
去り際、親うさぎの赤い瞳が、一度だけ彼女を捉えた。
チラリと投げかけられた、一瞬の一瞥。
そこには、敵意も、恐怖も感じなかった。
ただ、そこにあるものを眺めただけ。
親うさぎは、そのまま何事もなかったかのように、雪原の彼方へと消えていった。
後に残されたのは、重い着物に動きを封じられ、取り残された銀髪の迷子が一人。
誰からも捕食者と認められず、ただ世界に取り残された異物として放置されたことを悟り、佐藤は動かない表情の裏側で、狂おしいほどの孤独に震えた。




