44話 紫の花と、白銀の尾
教会の朝は、高い窓から差し込む光と、石造りの建物特有のひんやりとした空気で始まった。
朝食を終えると、クズノハは教会の入り口でテレーズを仰ぎ見て、外を指差した。ハルが不在の間も、午前中のお使いを止めるつもりはないらしい。神父の許可を得ると、彼女は一人で教会の外へとトコトコと歩み出していった。
数時間後。クズノハは昼食の時間に合わせて、何事もなかったかのように教会へ戻ってきた。
ベルナデッタやガラムたちの元へ、滞りなく届け物を済ませてきたのだろう。その表情には一片の疲労も見られない。テレーズが差し出した昼食を淡々と平らげると、彼女は再び虚空から図鑑を取り出した。
てしてし。
叩かれているのは、昨日までハルに見せていたものとは別の、村の周辺でも見られる薬草のページだ。クズノハは図鑑を叩いては、開かれた教会の扉の向こう、新緑の林の方向を指さす。午前中の業務を終え、いよいよ自身の目的へと移行しようとする明確な意思表示に見えた。
「……ハルさんみたいに、薬草を採りに行きたいの?」
テレーズが声をかけると、クズノハの耳がぴくりと跳ねる。
テレーズは神父の方を振り返る。神父は村人との対話を終え、穏やかに頷いた。
「シスター、午後は少し、村の周りを歩いてきてはどうですか。クズノハ様も、じっとしているのは退屈でしょう」
「ふふ・・・午前中もしっかり頑張ったようですし、少しお散歩に行きましょうか」
許可が出た瞬間、クズノハの耳がぴくりと跳ねる。彼女は図鑑を虚空へと格納すると、自分からテレーズの方へ歩み寄り、その指先をぎゅっと握った。
クズノハは神父からおやつのクッキーを受け取った後、村を囲む柵を抜け、二人は平原を進んでいく。クズノハはテレーズに手を引かれながら、先日ハルと一緒に歩いた範囲をなぞるように進み、その足取りは次第に林の方へと向かっていく。そしてその境界をわずかに越え林の入り口へと足を踏み入れていった。
春の陽光は明るく、頭上の若葉を透かして柔らかな緑の影を地面に落としている。地面には名もなき草花が絨毯のように広がっており、クズノハは時折テレーズから離れて立ち止まっては地面を凝視した。
テレーズは「あまり遠くへ行ってはいけませんよ」と声をかけるが、クズノハは迷いのない足取りで、木漏れ日が複雑に落ちる一角へと突き進んでいく。
ある樹の根元に差し掛かった時、クズノハの動きが止まった。
そこには、周囲の雑草とは明らかに異なる、深い紫色をした小さな花が咲いていた。
クズノハは膝をつき、図鑑を再び取り出す。
挿絵と実物を交互に見つめるその瞳が、僅かに見開かれた。尻尾が不規則に、左右へと激しくばさばさと揺れ始める。
彼女は短い指で、その紫色の花を慎重に掘り起こし始めた。
「クズノハ様……?」
テレーズは、その様子を怪訝そうに見守っていた。
普段の淡々とした作業のような動きとは違う。少しずつ土を避けるたびに耳がぴくぴくと震え、鼻息が荒くなる。その挙動は、まるで見知らぬ宝物を見つけてしまった子供特有の、落ち着きのない興奮に見えた。
クズノハは、掘り起こした紫色の花を泥を払うのももどかしく虚空へと収めた。その一連の動作の間、彼女の尻尾はなおも落ち着きなく左右に揺れ続けている。
「……何か良いものが見つかったのでしょうか?」
テレーズの問いかけに、クズノハは答えず、ただ満足げに鼻をふすふすと鳴らしていた。それからというもの、彼女は林の奥へ行こうとするのを止め、見つけた場所の周辺を何度も往復し、取りこぼしがないか地面を這うようにして確認し続けた。
傾き始めた午後の日差しが、林の影を長く伸ばしていく。
テレーズが何度目かの帰還を促すと、クズノハは最後に一度だけ紫の花があった場所を振り返り、ようやくテレーズの手を握り返した。
帰り道の足取りは、行きのそれよりもどこか浮き足立っているように見えた。
時折、思い出したように神父からもらったクッキーを口に運ぶが、そのサクサクという咀嚼のリズムさえいつもより速い。村の柵を潜り抜ける際も、クズノハの視線は林の方ではなく、カレンが営む雑貨屋がある方向へと固定されていた。
教会に戻った頃には、既に夕刻の鐘が鳴り響いていた。
クズノハはすぐにでも雑貨屋へ向かおうとしたが、テレーズは「カレンさんの店は、この時間はお片付けで忙しいですからね。明日、一緒に行きましょう」と彼女の頭を優しく撫で、そのまま夕食の席へと促した。
その日の夕食時、クズノハの様子はどこか落ち着かなかった。
スプーンを動かしながらも、視線は手元ではなく、空中のウィンドウに向けられている。時折、空をなぞるように指先を動かしては、何かを確認しているかのようであった。
寝る前、テレーズに案内された寝室でも、その挙動は続いた。
クズノハは布団の上に図鑑を広げ、枕元に置いた図鑑の挿絵と、インベントリから一瞬だけ実体化させては消す紫の花を、穴が空くほど見比べていた。
「クズノハ様……もう寝る時間ですよ?」
テレーズの声に、クズノハは弾かれたように花を消し、布団を被る。
だが、暗がりの中でテレーズが観測したのは、布団が微かに盛り上がり、中でクズノハがゴソゴソと動いている気配だった。静かな部屋の中に、カサカサと図鑑のページを捲る音が忍びやかに響く。
テレーズは、あの子が宝物を手に入れて興奮し、明日を待ちきれずにソワソワしている……そんな、ごく普通の子供らしい姿を見ているような気がして、少しだけ口元を綻ばせた。
その布団の下で、クズノハの銀色の尻尾が、闇の中で何度も、何度も規則正しいリズムを刻んで揺れ動き、夜は更けていった……。




