43話 留守番の契約
村の周辺に雪解けの泥濘もなくなってきた頃。朝の爽やかな空気が、芽吹いたばかりの草木の匂いが風に乗って運ばれてくる。
ハルの家の食卓では、いつもより早く朝食が片付けられ、ベルナデッタが早々に土間へと顔を出していた。
「ハルさん、準備はいいかい? 今のうちに行かないと、目当ての場所まで日が暮れちまうよ」
「ええ、分かっていますよ。……クズノハちゃん、よく聞いてねぇ」
ハルは腰を落とし、真剣なまなざしでクズノハと視線を合わせた。
これから三日間、雪解け直後にしか採れない薬草を求めて、少し離れた山まで遠征すること。その間、クズノハは教会で預かってもらうこと。ハルが言い終える前に、クズノハの耳がぴんと垂直に立った。
クズノハは無言のまま、虚空から一冊の植物図鑑を取り出した。
パタン、と使い込まれた表紙を開き、あるページを小さな指先でてしてしと叩く。それはハルがこれから採りに行く予定の、希少な薬草の挿絵だった。
「おや、自分も手伝えるって言いたいのかい?」
ハルが苦笑する。クズノハは一度だけ、深く首を縦に振った。
さらに図鑑を捲り、背伸びをしながら自分の小さな体でも他に採取可能な薬草のページを次々と提示しようとする。その指先の動きは、普段の淡々とした所作に比べて、どこか急いているようにも見えた。
「だめですよ。今の時期の山はぬかるんでいるし、一晩中歩くこともありますからねぇ……。クズノハちゃんは、村でお留守番。これはお約束だからねぇ?」
ハルの言葉は穏やかだったが、そこには守るべき存在を案じる、断固とした拒絶があった。
クズノハは図鑑を叩く手を止め、一拍の沈黙を置く。
ハルがその頭を優しく撫でると、クズノハは視線を少し逸らし、納得を示すように、すんっ短く鼻を鳴らした。
昼前、二人は教会の門を潜った。
どうやら教会の広場では、ヴィンセント司祭が数人の村人に囲まれているようだ。作付けに伴う水利の調整や、春祭りの役割分担についての相談らしい。
「おや、ハルさん。今から出発ですか」
「ええ。神父様、お忙しいところ申し訳ないのですが、この子をお願いできますかねぇ?」
「もちろんです。シスター、クズノハ様をお願いできますか?」
神父に呼ばれ、近くで聖具の磨き物をしていたテレーズが歩み寄ってきた。
ハルは自らの収納から、数日分の食料の足しにと干し肉やエールを取り出してテレーズに手渡す。シスターは受け取り一礼すると、食料品は光と共に虚空へと消えていった。
「クズノハちゃん。神父様とシスターの言うことを、よく聞くのですよ?」
ハルが最後にもう一度だけクズノハの頭を撫でる。
クズノハはその手の感触をじっと受け止め、それからテレーズの隣へと歩を進めた。
そして、ハルの方を変わらぬ表情でじっと見つめていたのだった。
その後、村の出口までクズノハはテレーズに手を引かれて歩いた。村の境界線……村を囲む柵の出入り口で、ハルとベルナデッタの姿が春の陽光に縁取られていた。
二人は身軽な装いのまま、慣れた足取りで村の外へと踏み出していく。ハルは最後に一度だけ足を止め、振り返って穏やかに手を振った。
クズノハはテレーズに手を引かれたまま、その場に直立しながら小さく手を振り、遠ざかる二人の背中を見つめ続けていた。
三歳児の頼りない輪郭が、午後の強い日差しの中に静止している。彼女は泣くことも、ハルの裾を求めて駆け寄ることもせず、ただ二人の姿が遠ざかっていくのを、その瞳を固定していた。
視界の中の二人が十分な小ささになったことを確認したかのように、クズノハはくるりと踵を返す。
今度はクズノハの方がテレーズの手を微かに引き、その顔を見上げる。歩みだしたその足取りには、見送った直後の余韻や揺らぎは見られず、ただ次の目的地へと向かう確かさだけがあった。
(……本当に、不思議な子)
テレーズは、自身の歩調を乱さぬ幼子の横顔に、奇妙な感心を覚えていた。
教会に戻ると、ヴィンセント司祭はまだ村人たちとの相談の渦中にあった。
テレーズが祭壇の脇にある小さな木の椅子を指差し、「そこに座って待っていてくださいね」とクズノハに促すと、クズノハは素直に従い、ちょこんと腰を下ろした。それから虚空から一冊の植物図鑑を取り出す。
礼拝堂の静謐な空気の中に、カサリ、と紙を捲る音だけが響く。
テレーズが祭壇の拭き掃除を再開すると、クズノハもまた、自身の膝の上で作業を開始した。
捲られるページは、先ほどハルに提示した希少な薬草ではない。彼女の指先が止まったのは、この村のすぐ外、林の入り口付近に自生しているはずの、より一般的な薬草の数々だった。
てしてし。
小さな指先が、挿絵の細部を繰り返し叩く。
クズノハは時折、図鑑から顔を上げ、開かれた窓の向こうに広がる新緑の森をじっと見つめていた。
図鑑の絵と実際の地形の輪郭を照合し、何らかの情報を更新しているかのような、静かな集中がそこにはあった。
日が傾き、ステンドグラスを通した七色の光が石畳を這う頃になっても、クズノハはその場から動かなかった。
夕食を済ませ、テレーズに案内された寝床に入った後も、彼女の手元には図鑑があった。
「クズノハ様、もう寝ましょうね」
テレーズが枕元のランプを小さく絞る。
薄暗い部屋の中、クズノハは布団から這い出した小さな指で、図鑑の特定のページを何度も、何度もてしてしと叩いていた。
シスターの視線に気づくと、クズノハは一度だけその瞳をテレーズに向け、それからすんっと短く鼻を鳴らして、ようやく図鑑を枕元に置いた。
閉じられた瞳の裏側で、明日の計画が着々と構築されているかのような。五月の夜の静寂の中で、銀色の尻尾が布団の端から一度だけ、規則正しいリズムでゆらりと揺れていた。




