41話 夜の祈祷所にて
深夜の教会には、微かな蜜蝋の匂いと、春の夜特有の湿った冷気が漂っていた。
祭壇の脇で、神父とシスターは街から持ち帰ったばかりの典礼用の書類を静かに整理していた。パピルスが擦れる乾いた音だけが、高い天井へと吸い込まれていく。
ひと段落つき、シスターが手を止めた。揺れる灯火に照らされた彼女の横顔には、昼間の広場から引きずっている、拭いきれない困惑の影が落ちていた。
「……神父様。一つ、よろしいでしょうか」
神父は眼鏡を外すと、それを手元の柔らかい布でゆっくりと拭き始めた。レンズ越しではない、少し頼りなげで、けれど慈愛に満ちた瞳がシスターに向けられる。
「ええ、何でしょう。シスター……どうしましたか?」
「クズノハ様の……。あの子のことなのですが」
シスターは言葉を選び、慎重に紡ぎ出した。あの子を嫌っているわけではない、けれど、どうしても自分の中の常識が、彼女を捉える際にきしむような音を立てる。
「今日、広場で皆様をお迎えした際のことです。他の子供たちは皆、神父様の笑顔や、鞄から出てくるお菓子に夢中でした。……ですが、あの子だけは違いました」
シスターは、クズノハのあの視線を思い出していた。
「あの子は、神父様が街から何を持ち帰ったのか……いえ、それすらも通り越して、神父様の足元や馬車の荷台の隙間を、じっと見つめていたのです。まるでお菓子や玩具よりも、そこにあるものが重要だと思っているような……」
シスターは一度言葉を切り、自らの腕をさすった。
「うまく言えないのですが、あの子を見ていると、時折……自分が人ではなく、ただの物として検品されているような、そんな妙な居心地の悪さを感じるのです。三歳児らしい無邪気さや、再会の喜びといったものが、あの子の瞳にはない気がして……」
神父は、シスターのその率直な言葉を否定することなく、静かに聞いていた。
彼は知っている。あの子がかつて、どれほど凄惨な……言葉や表情を奪われるほどの地獄を潜り抜けてきたかを。だが、その秘密はむやみに明かすことはできない。
「シスター……いえ、テレーズ。あなたが感じるその違和感は、きっと間違ったものではありませんよ。私にも、あの子が時折、私たちが決して見ることのできない、遠い場所にあるものを見ているように見えることがあります」
「……ヴィンセント様も、そうお感じに?」
「ええ。ですが、それはあの子なりの誠実さなのだと、私は信じています。あの子がハルさんに贈ったあのブローチを、あなたもご覧になったでしょう?」
神父は、昼間のハルの幸福そうな顔を思い出し、目を細めた。
「あの子は、我々のように言葉で愛を語ることはありません。けれど、あの小さな体で必死に働き、対価を得て、誰かのために最良の形を差し出そうとする。……その過程がどれほど事務的で、どれほど無機質に見えたとしても、その底にあるのは、尊い真心なのです」
シスターは、神父の言葉を反芻するように俯いた。
神父がクズノハに見出しているのは、ある種の聖性に近いものだ。けれど、シスターが感じているのは、もっと根源的な、生命としての異質さだった。
「神父様が仰ることは、理屈ではわかります。……ですが、私は、やはり……」
「構いませんよ、シスター」
神父は、彼女の迷いを包み込むように微笑んだ。
「あなたが何を感じ、どう思うかは、あなたの自由です。あの子を可哀想な子と見る必要も、特別な子と崇める必要もありません。……ただ、あなたはあなたの考えで、明日あの子が来たとき、あの子がどう働いているかを、その目で確かめてみてください」
神父は立ち上がり、静かにランプの芯を下げた。
「答えは、あなたの中にしかないのですから。無理に私と同じ色で、あの子を見る必要はないのですよ」
「……はい。……そのように、努めます」
シスターは、闇に溶けゆく祭壇の前で、深々と一礼した。
自分の感覚を否定されず、尊重されたことに、彼女は安堵を覚えた。同時に、明日また教会へやってくるであろう、あの白銀の空白のような幼子と、どう向き合うべきか。
彼女は、月明かりが差し込む石床の上で、自分の心の物差しをもう一度、確かめるように握りしめていた。




