40話 馬車の帰還と春の夕暮れ
馬車が完全に停止し、御者が勢いよくブレーキをかける。その反動で車体が一度だけ大きく揺れた。
真っ先に駆け寄ったシスターが、恭しく扉を開ける。
「神父様、お帰りなさいませ! ご無事で何よりです」
シスターの弾んだ声に応えるように、馬車から一人の男が降り立った。ヴィンセント神父である。彼は旅の疲れを見せることなく、まずはシスターに向けて穏やかに微笑むと、広場に集まった村人たち一人一人にゆっくりと視線を巡らせた。
「ただいま戻りました。皆さんも、お変わりないようで安心しましたよ」
神父がそう口にすると、待っていた村の子供たちが、まるで示し合わせたかのように馬車の周りへと群がった。
「神父様、街はどうだった?」「お土産あるー?」
騒がしく袖を引く子供たちに、神父は困ったように、しかし慈愛に満ちた手つきで自らの鞄を探った。
「こらこら、順番ですよ。……はい、街で見つけた飴です。喧嘩をしないようにみんなで分けなさい」
神父が小さな色とりどりの飴を取り出すと、子供たちは歓声を上げてそれを受け取っていく。シスターはその様子を隣で見守っていたが、ふと視線を横にずらした時、ハルの隣に立つクズノハの姿を捉えた。
クズノハは、他の子供たちのように駆け寄ることも、飴に手を伸ばす仕草も見せない。馬車の到着から神父が降り、飴を配るまでの一連の光景を、一歩引いた位置から静かに見つめ続けている。その瞳には、歓迎の色も無関心も浮かんでいない。ただ、目前で起きた事象をそのまま映し出しているような、平坦な静謐さが湛えられていた。
シスターの視線が、クズノハのその動かぬ瞳と、周囲の喧騒との間を何度か往復した。
その子供らしくない静けさに一瞬だけ瞬きをし、それから少し不思議そうに首を傾げた。喜びもせず、かといって不機嫌でもない。ただそこに在るだけの小さな姿は、喧騒の中にぽっかりと空いた空白のようでもあった。
やがて、飴を配り終えた神父が顔を上げ、クズノハの方へと歩み寄った。
神父はクズノハの数歩手前で一度姿勢を正すと、先ほどまでの子供たちに向けるものとは異なる、深く静かな眼差しを彼女へと向けた。
「クズノハ様……。お待たせいたしました。ハルさんと一緒にお迎えに来てくださったのですね」
神父はクズノハの前に膝をつき、彼女と同じ視線の高さまで腰を落とした。
ハルが「お帰りなさい、神父様」と朗らかに挨拶する傍らで、神父はそっと、クズノハの白銀の頭に掌を置いた。
クズノハは、その掌の重みを拒むことなく、ただじっと撫でられるままにしていた。
彼女の視線は神父の肩越し、馬車の荷台に積み込まれた資材の束や、街の刻印が押された箱の山を、上から下へと一定の速度でなぞっている。
ハルと神父が交わす言葉の応酬。子供たちの笑い声。頭頂部を覆う手の温度。
クズノハはそれらすべてを等しく受け止めるように、白銀の尻尾を一度だけ、ふぁさり、と揺らした。
神父は撫でていた手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「ハルさん、留守の間ありがとうございました。クズノハ様も、私と別れてからの二、三日、変わりはありませんでしたか?」
「ええ、おかげさまで。……神父様も、街での残りのお仕事、お疲れ様でしたね」
ハルが穏やかに笑い、深々と頭を下げた。その拍子に、彼女の質素な服の胸元で、鈍い銀色の光が春の日差しを跳ね返した。街の古道具屋の隅で、クズノハがなけなしの銀貨を並べて手に入れた、あのブローチである。
神父の視線が、一瞬だけそのブローチに釘付けになった。
あの日、街の雑貨屋でクズノハがこれを選び取った際、神父の目にはそれが彼女自身への土産であるかのように映っていた。だが今、それはハルの胸で、その指先に大切に触れられながら輝いている。
神父は一度だけ瞬きをすると、深く、何かに納得したかのように優しく目を細めた。
「ハルさん。そのブローチ、とてもよくお似合いですよ。ふふ……あの子が選ぶものは、やはり間違いがないですね」
「ふふ、ありがとうございます。……一生の宝物ですよ」
ハルが愛おしそうに胸元に手を添える。その隣で、クズノハの白銀の尻尾が、一度だけふぁさっと地面を叩いた。
彼女は無表情のまま神父の靴の汚れを眺めていたが、ハルの微笑みに視線を向けた際、その硬い背中の強張りが、ほんの僅かに解けたようにも見えた。
神父の背後で、シスターはそのやり取りを静かに眺めていた。
神父がクズノハに向ける、保護を超えた特異な敬意。そして、老婆の胸で誇らしげに光る、安価な銀の細工。
シスターはクズノハの感情の読めない横顔と、ハルの幸福そうな笑顔を交互に見比べ、やはり不思議そうに小さく首を傾げた。その瞳には、納得よりも先に、埋めきれない違和感が残っているようであった。
「さて、そろそろ教会に戻りましょう。ハルさん、クズノハ様。……また、日常が始まりますね」
神父の言葉に、クズノハの白銀の尻尾が一度だけ、肯定を示すようにふぁさりと揺れた。
ハルに促され、一定のリズムを刻んで左右にふりふりと振れる尻尾を、神父とシスターは夕暮れの光の中で、その足音が遠のくまで見送っていた。
すみません!申し訳ないのですけど、ちょっとキツイので、隔日更新に切り替えます。
ずっと毎日更新の人は凄いなー……




