自業自得の理
視界を埋め尽くしていたホワイトアウトが晴れ、佐藤の意識はかつてないほど鮮明な「現実」へと着地した。
肌を刺す冷気、結晶が光を乱反射させる雪原の輝き。眼前に降り積もる雪は、彼がプログラムした通りの絶妙な粘度を持って固まる。
(……完璧だ。これこそが俺の求めていた世界、俺の作った法が支配する楽園だ)
佐藤は満足感に浸りながら、雪原を駆けるべく力強く地を蹴った。
――次の瞬間。視界が激しく上下し、彼は顔面から冷たい雪の中に突っ込んでいた。
(……え?)
おかしい。二十年間シミュレートし続けた四足歩行の重心バランスが、全く噛み合わない。焦る佐藤の視界に、信じがたいノイズが飛び込んできた。
視界の端に揺れる、雅な和装の袖。
雪を掴んでいるのは、白銀の毛皮に覆われた前足ではなく、白く柔らかな人間の幼児の手だった。
「――っ!?」
声にならない悲鳴が漏れる。佐藤は混乱し、己の体を検分した。
そこにいたのは、自身がこだわった美しい尻尾を持ち、彼が作り上げた毛皮を反映したかのような最高級の絹を纏った、狐の耳をもつ銀髪の幼い少女だった。
(バカな、何かの間違いだ。俺は『獣形態』を選択した。あの完璧な狐のモデルを……!)
佐藤は震える手でメニュー画面を呼び出す。エンジニアとしての習慣が、パニックよりも先に「原因の特定」を彼に急がせた。
表示されたステータスを、彼は食い入るように凝視する。
名前:クズノハ 種族:獣人(Parent: Demi-Human/Sub: 狐) 形態:人間形態 年齢:3歳
血の気が引く音がした。
親カテゴリ『獣人』。あの時、検索の利便性に負けてスキップした階層に、この世界の残酷なルールが隠されていた。
このゲームにおける獣人は、まず人間形態として生を受け、後に獣へと至る種族だったのだ。
(……落ち着け。まだだ、まだ「詰み」じゃない)
佐藤は荒い吐息を飲み込み、思考を加速させた。彼は開発者の一人だ。システムの構造から逆算すれば、必ず回避策はある。
(獣形態のデータを作った以上、そこへ移行する『変身』のコマンドが必ず存在するはずだ。仕様さえ分かれば、今すぐにでも狐になれる)
微かな希望を胸に、彼はヘルプを開いた。検索窓に『獣人の変身方法』と入力する。
瞬時に返ってきた回答を、彼は上から順に、祈るような心地で読み進めた。
『【獣人の変身条件】 獣人族が本来の姿を取り戻すには、獣化スキルを使用する必要があります』
彼は一息ついた。狐になるための道はまだ閉ざされていない。すぐにそのスキルを身につければ良い。そう思考を切り替えた。
そして、心を落ち着けた彼は検索窓に『獣化スキル』と入力し、ヘルプへと問いかけた。
『【獣化スキルの取得条件】 以下のいずれかの条件を満たす必要があります。
1.キャラクター作成時の初期スキル選択
2.魔法の素養(知力・精神力一定以上)を有した状態での、他者(師匠・親)による教授
3.専用のスキルブックの閲覧』
読み進める佐藤の背筋に、雪原の寒さとは質の違う、凍り付くような震えが走った。
1:初期スキル選択。……彼はすべてのポイントを「狐としての野生」に注ぎ込み、その選択肢は既に失われていた。
2:他者による教授。……彼は効率のために【失語】を選び、助けを求める言葉を捨てた。魔法の素養も、肉体スペックのために削りカスにしてある。
3:スキルブック。……3歳の幼児が一人で、身動きが取りづらいこの着物姿で、人里へ辿り着き、金を稼いで本を買う?
(……あ、あぁ……)
理解してしまった。
「最短距離で狐になる」ために削ぎ落とした、言葉、表情、知性、そして人間としての素養。
それら無駄だと断じて切り捨てたものこそが、狐へと至る唯一の門を開くための鍵だったのだ。
彼は自ら、門を内側から施錠し、鍵を奈落へ投げ捨てた。
完璧だった。彼のキャラメイキングは、論理的に、あまりにも完璧に狐から最も遠い存在を完成させていた。
足元が崩れる感覚がする。最高級の物理演算で描かれた和装の重みが、絶望の深さを象徴するようにクズノハを地面へと押しつける。
言葉も出ず、表情も動かないまま、銀髪の幼女は雪原の中に倒れ伏した。
自分が作り上げた「物理法則」という名の、絶対に逃れられない牢獄の中で……。




