36話 春の陽だまりと、解ける銀髪
石畳を黄金色に染めていた夕陽が山の端に隠れ、村の輪郭が深い藍色に溶け込み始める頃。
クズノハとハルは、ようやく住み慣れた我が家の扉を押し開けた。
「ふう……。やっぱり、家が一番だねぇ」
ハルが安堵の吐息を漏らしながら、土間に荷物を置く。クズノハもその隣で、お使いを終えた心地よい疲労感に身を任せ、ふん、と短く鼻息を鳴らした。
だが、クズノハの頭を見たハルの動きが、ふと止まった。
「……あらあら。クズノハちゃん、その頭はどうしたんだい?」
困ったような、それでいてどこか可笑しそうな声が上がった。ハルが屈み込んで覗き込んだ先――クズノハの白銀の髪の右側には、不自然に固まった黒ずんだ脂汚れが付着していた。別れ際にジョバンニが、あの大きな無造作な手でわしゃわしゃと撫で回した際の名残である。
「そういえば、ジョバンニさんに構われてたからねぇ? あの人は手が汚れてること、すぐ忘れちゃうんだから……まあ、可愛がってくれたんだろうけどさ」
ハルは呆れたように肩をすくめ、クズノハの髪にそっと指を通した。ジョバンニが獲物の皮を剥いだばかりの指先でつけた、獣の脂と煤の匂い。
普通の子供であれば汚れを嫌がって泣き出しそうな場面だが、クズノハは至って平然としていた。彼女にとってそれは単なる洗浄を要する付着物に過ぎない。しかし、ハルが改めて自分の頭を撫で直し、優しく汚れを解そうとする指先の感触には、抗いがたい心地よさを感じているようだった。
「よし、今夜はまず、この髪を綺麗に洗ってしまおうね。ジョバンニさんのお土産がついたままじゃ、シチューも美味しくないだろう?」
ハルが手際よく鉄鍋に水を張り、暖炉の火を強めると、やがてシュンシュンと湯気が立ち上り始めた。室内が柔らかな湿り気に包まれていく。
湯気を立てるお湯を桶に移し、ハルはクズノハの隣に腰を下ろした。
クズノハは指示に従い、大人しく目を閉じて身を委ねる。温かいお湯が頭皮を伝うたび、夜の寒さに縮こまっていた毛細血管が解き放たれていく。ハルの指先が、石鹸の泡とともに白銀の髪の隙間へと滑り込んだ。
「街は、どうだった? 向こうでもカレンさんは、ちゃんとご飯を食べてたかい?」
ハルの問いかけに、クズノハは言葉の代わりに短い相槌を返す。
街の喧騒、カレンの疲れ。外の世界に溢れていた鋭く冷たい情報は、今、耳に届くパチャパチャという水の音と、ハルの穏やかな声によって塗り替えられていった。
ジョバンニが付けた脂汚れは、ハルの手によってゆっくりと、しかし確実に取り除かれていく。
「そうかい、カレンさんも元気そうだったなら良かった。……はい、お目目を開けちゃダメだよ。もう一度流すからね」
クズノハはハルの手の動きに合わせて、白銀の耳をぴこりと動かした。
お湯とともに流れ落ちていくのは、物理的な汚れだけではない。シスターの視線から受けた重圧も、ジョバンニから受けた説教の鋭さも、すべてが温かな湯気の中へと溶け、消えていくようであった。
やがて、洗い髪を厚手のタオルで包み込まれたクズノハは、暖炉の前の特等席へと運ばれた。
静かな室内に、パチパチとはぜる薪の音が心地よく響く。ハルはクズノハを自身の膝の間に座らせると、新しい乾いたタオルを使い、慈しむような手つきでその頭を包み込んだ。
「よしよし、これでもう真っ白に戻ったよ。あとは風邪を引かないように、しっかり乾かそうね」
タオルの上から、ハルの手が優しくリズミカルに頭を叩く。
クズノハはされるがままになりながら、暖炉の火を見つめていた。オレンジ色の炎が網膜の上でゆらゆらと踊り、体内の熱量がじわりと上がっていく。その充足感の中で、彼女はふと思い出したようにインベントリへアクセスした。
取り出したのは、カレンの店で貰った色とりどりの飴玉の袋だ。
クズノハは無造作に袋に手を突っ込むと、最初につまみ上げた一粒を迷わず口に放り込んだ。街の市場を彷彿とさせる、鋭い甘みが広がる。
次いで、彼女は再び袋の中を探り、指先に当たった次の一粒を、背後で髪を拭いているハルの手元へ放るように差し出した。
「おや、私のかい? 気が利くねぇ、クズノハちゃん。ふふ……ああ、甘くて美味しいね」
振り返りもせずに出されたその手を、ハルは当然のように受け取った。
クズノハはハルの返事を聞くと、満足げにふんと鼻を鳴らし、再び暖炉の火に視線を戻した。飴を転がす甘い香りが、薪が燃える匂いと混じり合い、部屋の空気をいっそう密度の濃いものに変えていった。
髪が半乾きになった頃、ハルは「さあ、冷めないうちに夕飯にしようね」と、火にかけていた鍋をテーブルへ運んだ。
今夜の献立は、たっぷりの根菜と干し肉をミルクで煮込んだ、ハル特製のシチューだ。
クズノハは自分の席に座ると、差し出されたスプーンを無言で受け取った。立ち上る湯気が鼻先をくすぐり、夜の冷気を完全に追い出していく。一口運べば、とろりとした滋味が身体の芯まで染み渡る。
「たくさんお食べ。今日は本当によく頑張ったんだから」
ハルの優しい眼差しに見守られながら、クズノハは淡々と、しかし確実な速度でシチューを口に運ぶ。
この家だけの温かな味。一皿を綺麗に空にする頃には、クズノハの頬はうっすらと赤らみ、その瞳には今日一番の安らぎが宿っていた。
食後、再び暖炉の前でブラシが通されると、白銀の髪が一筋ずつ、丁寧に解きほぐされていく。
ジョバンニが残した汚れの跡は、もうどこにもない。ブラシが通るたび、クズノハの髪は春の月光を閉じ込めたような輝きを取り戻し、ふわふわとした柔らかな質感でハルの指先を撫でた。
ハルの体温と、暖炉の熱。そしてシチューで満たされたお腹。
重なる心地よさに、クズノハの意識はゆっくりと、深い場所へと沈み始める。彼女の鋭い演算機能は今は眠りにつき、ただ暖かいという原始的な感覚だけがログを埋めていく。ハルに身を預け、船を漕ぎ始めたクズノハの白銀の尻尾は、今はもう揺れることもなく、ハルの膝の上で静かに横たわっていた。
窓の外では、夜の闇が村を深く包み込んでいた。
まだ残る冬の名残の雪解け水が、道端の溝を勢いよく流れていく音が、遠く微かに聞こえる。
暗い森の奥では、ジョバンニがまだ獲物の残滓を片付けているかもしれない。教会の尖塔の下では、シスターが未だ消えぬ戦慄を祈りで鎮めているかもしれない。
けれど、この小さな家の中だけは、外の世界のあらゆる喧騒や拒絶から切り離されていた。
暖炉の火が静かに小さくなり、ハルの穏やかな鼻歌が止まる頃。
真っ白に洗い上げられたクズノハは、世界で一番安全な場所で、泥のような深い眠りへと落ちていった。




