33話 帰還と誠意のパッチ
「みんなー!ちゃんと仕入れてきたわよー!」
カレンの明るい帰宅報告が春の空気に吸い込まれ、庭先にしんと静寂が降りる。
ハルは、手に持っていた古い革袋の手入れを止め、ゆっくりと、本当にゆっくりとこちらへ向き直った。
その視線はカレンでもベルナデッタでもなく、ただ一点、カレンの影に隠れるように立っているクズノハだけを捉えていた。
クズノハは、老婆の射抜くような視線を真っ向から受け、硬直していた。その瞳は細かく揺れ、まるで逃げ場のない窮地に立たされた小動物のように、ハルの微かな表情の変化を必死に追っている。
無断での遠征。それも、夜中に抜け出して馬車に密航する。それはこの村での穏やかな生活において、決して許されない身勝手な振る舞いだった。
ハルの唇が、わずかに震えている。
何かを言おうとして言葉が喉に詰まっているような、そんな痛々しい沈黙。クズノハはその重圧に耐えかねたように、ふいと視線を逸らし、耳を力なく垂らした。
クズノハは意を決したように、カレンのスカートを掴んでいた手を離した。
彼女が空中で指先をわずかに動かした瞬間、その掌に一つの小さな木箱が音もなく現れる。
クズノハは短い両手を精一杯伸ばし、大切そうにその箱を老婆の前へと突き出した。
ハルの視線が、クズノハの顔からその小さな箱へと移動する。
お婆さんの反応を待つクズノハの体は、小さく強張っていた。その表情は相変わらず無機質に近いものではあったが、必死に差し出された両手は、街での薬草採取や慣れない移動のせいでわずかに汚れ、小さな擦り傷がいくつもついていた。
その傷だらけの手を見つめた瞬間、ハルの瞳が大きく揺れた。
そしてハルは、込み上げる感情を抑えるようにして、震える手でその箱を受け取った。
ハルは、掠れた指先でそっとを押し上げた。――刹那、銀のブローチが春の日差しを反射し、老婆の掌で静かに輝く。
「こんな……こんなもののために、あんたはッ!」
落ちたのは、雷のような怒号だった。
普段は穏やかなハルの目は怒りで見開かれ、その瞳からは、激昂に耐えかねた熱い涙がボロボロと溢れ出していた。怒鳴りつけているはずの口元は、情けなさと恐怖で激しく歪んでいる。
「どれだけ心配したと思ってるんだい! 夜中に布団が空っぽだったのを見た時、私たちが……私が、どんな思いで……ッ!」
お婆さんの手が、クズノハの小さな肩を掴んだ。加減を忘れた老婆の指先が食い込み、クズノハの身体が激しく揺れる。
ハルの顔は怒りで真っ赤になりながらも、その頬を絶え間なく涙が伝い、顎の先からクズノハの頬へと零れ落ちた。
クズノハは、ハルの顔を凝視したまま石のように硬直していた。攻撃的な怒号と、悲痛な涙。その矛盾した反応を目の当たりにし、彼女の瞳はただ当惑に揺れ、何を返すべきか判断できずに固まっている。
やがて肩を掴んでいた力がふっと抜け、クズノハの視界が真っ暗になった。
彼女の小さな身体が、老婆の腕の中へ、壊れ物を扱うような力強さで引き寄せられたからだ。
「…………っ、ああ、もう……! 本当に、本当によく無事で……帰ってきてくれたねぇ……っ」
耳元で聞こえるのは、もう怒号ではなく、掠れた祈りのような声だった。
老婆の乾いた服の匂いと、微かな薬草の香り。そして、自分を包み込む腕から伝わる、驚くほどの熱量と激しい震え。
クズノハはお婆さんの肩越しに、同じく目元を拭うベルナデッタと、帽子を脱いで静かに頭を下げるカレンの姿を見た。
自分を叱り飛ばす激しさと、自分を抱きしめる温かさ。クズノハはその矛盾の正体を図るように、ただ静かにお婆さんの熱を受け止めていた。その白銀の尻尾は動きを止め、初めて触れる家族という存在の重みを、肌で記憶しているようだった。
やがて陽が傾き、村が穏やかな夕闇に包まれる頃。
ハルの家の食卓には、数日ぶりに二つの食器が並んでいた。ベルナデッタは、クズノハの無事な姿を何度も確かめ、涙を拭いながら「明日また、顔を見に来るわね」と自分の家へ帰っていった。
家の中に、静寂が戻る。
ハルの胸元には、クズノハから手渡された銀のブローチが、ランプの火に照らされて静かに輝いていた。
ハルはスープを口に運ぶことも忘れ、何度も、何度も、その小さな銀の細工を震える指先でなぞっている。
「……クズノハちゃん。スープ、温かいうちにお食べ」
ハルの声は、昼間の怒鳴り声が嘘のように、いつもの穏やかな響きに戻っていた。
クズノハは無言で頷き、スプーンを握る。ふぅー、ふぅー、と規則正しい呼気が銀色の前髪を揺らす。だが、椅子の下で床を叩く尻尾のリズムは、どこかぎこちなく、迷いを含んでいるようだった。
ハルは、目の前で静かに食事を摂る幼子の姿を、ただじっと見つめていた。
何も言わない。何も語らない。けれど、この小さな体で、あんなに遠い街まで行き、この贈り物を持って帰ってきた。
「……もう、あんな無茶はいけないよ。あんたに何かあったら、私はこのブローチを見るたびに、自分を責めて生きなきゃならなくなる」
ハルは立ち上がり、クズノハの傍へ寄ると、その銀色の頭をゆっくりと撫でた。
クズノハは一瞬だけ耳をパタリと伏せ、じっとその温もりを受け止める。
「これからは、どこへ行くにも私もついていく事にするよ。……明日は一緒に、庭の整理でもしようかねぇ」
クズノハは、頭に置かれた手の重みを感じながら、無言で一度だけ深く首肯した。
食後、自室の屋根裏部屋に戻ったクズノハは、机の上の植物図鑑を開いた。
ページをめくる指先には、まだ微かに街での擦り傷が残っている。
彼女は、ハルの胸元で光っていた銀色の輝きを思い出し、それから自分の掌を見つめた。
銀貨五枚。街での労働。そして、今も残るハルの手の熱。
クズノハは、それらの重さを天秤にかけるように何度か掌を握り、開き、最後には深く首を傾げた。
やがてクズノハは静かに瞳を閉じ、消えない熱の余韻を抱えたまま、深い眠りへと落ちていった。




