32話 ガタゴト揺れる総括
黎明の空が、濃い紺色から淡い紫へと溶け始める頃。
街の巨大な石門の前で、一台の馬車が静かにその車輪を軋ませていた。
「それでは、道中お気をつけて。私も二、三日中には村へ戻りますから」
見送りに立ったヴィンセント神父が、穏やかに微笑みながら手を振る。
カレンが「ええ、村で待ってるわね!」と快活に答えた。
それに対し、神父は微笑みながら「また村で会いましょうね」と名残惜しそうにクズノハの頭を撫でた。
クズノハは神父が撫で終わるまで無表情のまま神父を見つめ続け、そしてカレンに促されるまま馬車のステップを上った。
カレンは手綱を引き、早朝の澄んだ空気の中で馬車がゆっくりと石畳を叩き始める。
蹄が刻む心地よいリズムとともに、徐々に街の門が遠ざかっていく。
そして、クズノハは遠ざかる神父の姿を出入り口から見つめ、一つ、ぺこりとお辞儀を返していた。
用事が済んだクズノハは、柔らかなソファの隅にちょこんと収まる。
街の門が視界から消え、周囲が街道の静寂に包まれる。
御者席のカレンの気配を感じつつも、客席に一人残された形となったクズノハは、静かに脳内で思考を展開した。
今回の街遠征で得た最大の情報資産――それは、目標としていた『獣化』のスキルブックに関する価格調査の結果だ。
(『獣化の書』……市場価格……物価から換算すると、日本円にすれば、一万から一万五千円といったところか)
クズノハは小さく鼻を鳴らした。
三歳児の小遣いで手が届く額ではないが、かといって、手が届かない絶望的な数字でもない。大人が少し奮発すれば買える程度の、アイテムとしては極めて現実的な設定。
(全く買えない値段ではない。だが、今の自分の稼ぎでは、あまりにスパンが長すぎる)
次に、街の居住区に関する情報を精査する。
商会での情報と昨日の移動中に得た観測データから、街の内部には人間の居住区と明確に区分けされている、獣人が居住する区画が存在することが判明している。
(物理的な距離は近い。だが、侵入コストとリスクが釣り合わない。保護者同伴なしでの潜入は、即座に迷子としてデバフを受ける可能性が高い上、会話が出来ないために筆談によるしかないという、コミュニケーション不全も予測される……)
師事による習得ルートは、現時点では非効率と断定。
クズノハは、メインチャートをスキルブックの購入に一本化することを決定した。
(よって、次なるフェーズの主目的は『資金稼ぎ』にシフトする)
ガタゴトと揺れる馬車の窓から、流れていく空の景色を眺める。
村でのお使い一回あたりの単価と、街での薬草納品の単価を比較する。街での労働は確かに実入りが良いが、滞在コストがかかる。
最も効率的なのは、村でリスクの低い素材をストックし、今回のようにカレンたちの移動に便乗して一括納品する供給ラインの確立だ。
思考は極めて論理的かつ、冷徹。
だが、その思考が村に戻ってからの日常に及んだ瞬間、クズノハの眉間にわずかな皺が寄った。
(……最大の問題は、資金繰りではない)
クズノハは膝の上に置いた鞄を、そっと引き寄せた。
彼女が思考を進める中でも馬車は一定のリズムで街道を進み、周囲の景色は街の喧騒から、次第にのどかな草原と林へと移り変わっていく。
御者席のカレンが時折馬に掛ける声が遠くに聞こえる車内で、クズノハの脳内デバッグは、より深刻なボトルネックの解析へと移行していた。
(反省点:単独行動時の索敵能力、及び生存率が著しく低いこと)
脳裏に蘇るのは、昨日のピクニックのワンシーンだ。
草むらが揺れ、野うさぎが姿を現したあの瞬間。自分は重心を落とし、警戒度を最大に引き上げた。だが、背後の大人たちはそれを「小動物を珍しがっている」と解釈し、無防備に微笑んでいた。
(……もし、あれが野うさぎではなく、アクティブな敵対個体である魔物だったとしたら?)
クズノハは、自分の小さな、産毛の生えた掌を見つめた。
リーチも短く、筋力も低い。装備品も皆無。逃げようとしても逃げ切れるかは不明。
大人が同行している状況では安全に見えた草原も、自分一人の視点に切り替えた途端、そこは一歩ごとに即死判定が潜むデスエリアへと変貌する。
(敵に気付かれる前に気付くことができない。気付いたとしても、迎撃の手段がない。……現状、単独でのフィールドワークは詰んでいる)
特に、孤児院の子供たちにすら、もみくちゃにされるほどの脆弱な肉体。もしも不慮の事故が発生すれば、今の自分にはリカバリーの術がない。
(情報収集も困難。街での手伝いも、効率は悪くないが継続性に欠ける。そして何より、教会で労働に従事しようとすれば、高確率で孤児院という名の『制御不能な障害』へと送還されるリスクが伴う)
昨日の孤児院での体験は、クズノハにとってある種のトラウマというよりは、論理的な意味での「演算不能な障害」として記録されていた。あのような予測不能な動きをする群体にリソースを割くのは、今の自分にはコストが大きすぎる。
(やはり、現時点での最善策は、村という名の安全な環境での地道な作業だ)
村に戻れば、ハルお婆さんとベルナデッタの手伝いというデイリークエストが待っている。
お使いの合間に近場での薬草採取をルーチン化し、薬草の識別の精度を上げる。そして何より、今回露呈した知識の欠落を補うために、あの植物図鑑を完全に解析しなければならない。
(……だが、そのためには、まず解決しなければならないエラーがある)
クズノハは、膝の上の鞄にそっと手を添えた。
中に入っているのは、昨日雑貨屋で購入した、あの質素な銀のブローチ。
今回の街遠征は、ハルお婆さんに対しては事実上の無断外出だ。家出同然の行為であり、生活基盤を支える重要人物との信頼関係に、致命的なクラッシュを引き起こしている可能性が高い。
(不義理は、後のリソース確保に支障をきたす。……非常に、気まずい)
気まずいという、論理では解決できないはずの、しかし抗いがたい不快なアラートが胸の内で鳴り響く。
クズノハはソファのクッションに深く沈み込み、小さく身を縮めた。
クズノハは周囲の目を盗むように、インベントリの中から小さな小箱を取り出した。
指先で蓋を押し上げると、車内に差し込む朝の光を受けて、質素な銀のブローチが鈍く輝く。宝石のような煌びやかさはないが、丁寧に彫り込まれた野の花は、どこかハルお婆さんの無骨ながらも温かな手を連想させた。
(……この世界の通貨価値と、現在の自己資産。そして今後の関係維持コストを天秤にかければ、この『投資』は決して高くはないはずだ)
そう自分に言い聞かせながら、彼女は再びブローチの細部を検品するように見つめる。
無断で村を離れ、街という未知の領域へ足を踏み入れた自分。ハルお婆さんからすれば、それは管理下にあるはずの幼児の失踪に他ならない。戻った瞬間に待っているのは、厳格な説教か、あるいは深い落胆か。
どちらも論理的な思考を阻害するノイズだ。このブローチが、そのノイズを中和するパッチとして機能してくれることを、クズノハは切に願っていた。
(……いや。機能させなければならない。生活基盤の崩壊は、資金稼ぎの効率を著しく低下させる)
自分自身への言い訳のような独白。しかし、ブローチを見つめる彼女の瞳には、打算だけではない、名付けようのない感情の揺らぎが僅かに混じっていた。
ガタゴトとハプニングもなく進む帰路。穏やかな春の日差しを浴びる平原。雪解けが進む山道。やがて馬車の速度が落ち、街道の先に見覚えのある風景が広がり始める。
村を囲む柵、そして見慣れた門。
目的地への到着を告げるシステムの通知音など聞こえはしないが、クズノハの心拍数は、数値化すれば数パーセント上昇しているはずだった。
「クズノハちゃん、見て! もうすぐお家だよ」
御者席からカレンが明るい声を上げる。
クズノハは一つ、深く、重い溜息を吐き出す。
(帰還、及び事後処理フェーズへ移行。……予測される不確定要素は多いが、やるしかない)
クズノハはソファから降り、出入り口の側に立つ。
村の空気は街よりも少し冷たく、しかしどこか懐かしい。彼女はぎゅっと自分の小さな掌を握りしめ、これから対面するであろう「最大のエラー」――ハルお婆さんの顔を思い浮かべながら、覚悟を決めた。




