30話 春の日差しと穏やかなピクニック
宿に戻ったクズノハは、植物図鑑を開くことさえせず、糸が切れたように眠りに落ちていた……。
翌朝、街の門に集合した彼女は、昨日の抜け殻のような姿が嘘だったかのように、気合の入った鼻息を漏らしていた。
ふんす……っ、ふんす……っ!
その小さな手には、いつでも読めるように肌身離さず持っている植物図鑑。
彼女は門が開くのを待つ間、何度も図鑑の表紙をなで、何度も背筋を伸ばしては、門の先にある草原をじっと見据えた。その瞳には並々ならぬ決意が宿っている……が、傍から見れば、どう考えてもピクニックが楽しみで仕方のない幼児にしか見えない。
門の出入りをする人々は、そんな姿に温かい視線をおくっていた。
「おはよう、クズノハちゃん。今日は一段と張り切っているね」
カレンが微笑みながら声をかけると、クズノハは短くふすっと鼻息を一つ。
ヴィンセント神父も、クズノハが小さな拳を握りしめているのを見て、目を細めた。
「昨日は大変だったみたいですね。その分、今日を楽しみにしていたのでしょう? さあ、行きましょうか」
重厚な門が開き、その先には柔らかな陽光を浴びた草原が広がっていた。
門を抜けた瞬間、クズノハは迷わず足元へ視線を落とす。そして、きょろきょろと周囲を見渡していた。
一歩、二歩と進んでは、膝を折って図鑑を開く。
図鑑に描かれた挿絵と、目の前の地面に生えている草を、首が折れそうなほど交互に見つめる。
そしてふすふすと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、形状を精査し、納得がいけば指先で丁寧に摘み取る。
ふんふん……ふすっ
風が草原を走る音と、白銀の幼子の鼻息が混ざる。
カレンと神父は、「暖かくなってきましたね」「そうですね、絶好の休日です」と、穏やかな会話を楽しみながら、クズノハの歩調に合わせてゆっくりと歩を進めている。
大人が空を見上げ、季節の移ろいを感じているその足元で、クズノハは一人、図鑑という名のツールを片手に、草原を黙々とかつ凄まじい執念で凝視し続けていた。
すると、ふとクズノハの耳がピクリと跳ねた。
視線の先、背丈の低い草むらが、不自然な揺れを見せている。
クズノハは即座に指先の動きを止め、重心を低く落とした。膝をついたまま、植物図鑑を胸元で固く握りしめている。
がさり
姿を現したのは、一匹の野うさぎだった。
クズノハの瞳が、スッと細められる。うさぎを凝視しし、耳を立てて尻尾は膨らみ、じりじりと回り込むように足を動かす。
更には、ふー、ふーと鋭く短い呼吸を繰り返し、重心を低くして今すぐにでも飛びかかりそうにしていた。
「あら、クズノハちゃん。あそこにうさぎさんがいるわよー」
「おや、本当ですね……。あんなにじっと見つめて、一緒に遊びたいのでしょうか?」
背後から飛んでくる、のんびりした声。
カレンは、クズノハの真剣な眼差しを遊び相手を見つけたという純粋な視線と解釈し、微笑みながらひょいとうさぎの方へ歩み寄った。
「こらこら、うさぎさん。今日は薬草摘みのお仕事中だから、邪魔しちゃダメよ?」
カレンが軽く手を叩いてしっしっと声を出すと、うさぎは数回鼻を動かした後、あっさりと草むらの奥へと消えていった。
クズノハはその場に固まったまま、カレンの顔をじっと見たあと、うさぎが去った方向をじっと見つめていた。
「あはは、ごめんね? また今度、ゆっくり遊んでもらおうね」
カレンに頭を撫でられ、クズノハはふしゅーっと、肺に残っていた緊張を全て吐き出した。
彼女は一瞬だけ、カレンの手元と自分の小さな掌を見比べた後、何事もなかったかのように地面の草へと視線を戻す。
その小さな手は、次の薬草の根元を、先ほどよりも少しだけ正確に、そして力強く掴んでいた。
歩き続ける一行の耳に、やがて涼やかな水音が届き始めた。
草原を二分するように流れる川だ。冬の終わりの雪解け水を含んだその流れは、普段よりも嵩が増し、ごうごうと白く泡立ちながら勢いよく下流へと奔っている。
クズノハは、川岸から数メートル手前でぴたりと足を止めた。
脇に抱えた図鑑を抱え直し、激しい水流や、飛沫に濡れて脆くなった土の様子をじっと見つめている。彼女にとって、その激流は決して近づいてはならない危険な境界線に見えているようだった。
だが、同行する大人たちの歩みに躊躇いはない。
「おーい、クズノハちゃん! こっちで手を洗って、お昼にしましょう」
カレンが屈託のない笑顔で手招きする。彼女は増水した川の縁まで軽々と歩み寄ると、危なげなくしゃがみ込んで水を掬った。
クズノハは数秒の沈黙の後、慎重に地面を確かめながら一歩、また一歩と、足場の確かな場所を選んで水辺へ近づいていく。
ふー……っ
小さな吐息をつき、指先をほんの少しだけ冷たい水に浸して汚れを落とすと、彼女は脱兎のごとく川べりから飛び退いた。その徹底した用心深さも、大人たちの目には、水の冷たさに驚いている可愛らしい仕草にしか映っていなかった。
川から少し離れた、陽当たりの良い柔らかな草地。
そこにカレンが手際よく敷物を広げる。
「さあ、お楽しみのサンドイッチだよー」
差し出されたのは、厚切りのパンに新鮮な野菜と肉が挟まれた手作りの品だ。
クズノハはそれを両手で受け取ると、まずは周囲の茂みに不審な影がないかをじろりと見渡し、安全を確かめてから、小さなおちょぼ口でもぐもぐと咀嚼を開始した。
分厚いサンドイッチは小さな口には入りづらく、はみ出た具材が彼女の白い手を汚す。しかし、そのような事は何も気にせず、そのまま食べ続けていた。
雪解け水が運ぶ冷たい風の中、温かな日差しを浴びながらのランチタイム。
カレンと神父が「美味しいですね」「本当に」と談笑する傍らで、クズノハはパンを頬張りながらも、視線だけは近くの茂みに生える珍しい植物を、油断なく探し続けていた。
やがて陽が傾き、草原が黄金色に染まる頃……。一行は再び街の門をくぐっていた。
クズノハのメニュー画面には、図鑑と首っ引きで選び抜いた状態の良い薬草が、いくつかインベントリに格納されている。
保護者に手を引かれ、辿り着いたギルドのカウンター。
クズノハは背伸びをして、渾身の成果を職員の前に差し出した。実体化した薬草の数々を前に、査定の結果、渡されたのは数枚の銀貨。
普段のお小遣いとは比較にならない大金である。
クズノハは無表情ながらも、ふすっ、と鼻の穴を膨らませて胸を張る。昨日の屈辱を払拭する確かな手応え。
だが、その直後だった。
「はい、こっちもお願いね。ついでに拾ってきた分」
カレンが隣の窓口で、無造作に大きな革袋を置いた。
中から出てきたのは、クズノハが喉から手が出るほど欲していた希少な薬草の数々や、道中で神父がついでに処理した魔物の素材。
職員が読み上げる査定額は、クズノハが手にした銀貨が霞むほどの、重みのある金貨の響きだった。
「いやあ……今日はいい気分転換になったわー……。宿代も浮いたし、たまにはこういうのも良いわね」
「そうですね、私もお土産代を確保できて良かったです。私は職務上、あまりこういう事での稼ぎは望ましくは無いのですが……クズノハ様も、あんなに一生懸命遊んで、お金までもらえて良かったですね」
カレンに頭を撫でられ、クズノハは手の中の銀貨と、カレンの懐に収まった金貨を交互に見つめた。
ふしゅー……
彼女は本日何度目かになる、深いため息を吐き出す。 小さな手で一日かけて積み上げた成果は、圧倒的な知識の差……同じところを探しても、大人ののんびりとした息抜きついでに遠く及んでいない。
担ぎ上げられ、力なく垂れ下がる尻尾。カレンの肩越しに遠ざかるギルドの建物を眺めるその瞳は、何処か虚ろな光を宿していた……。




