29話 嵐の孤児院と、抜け殻の幼女
「では、クズノハ様。少しの間だけですよ。……決して、一人で外に出てはいけませんからね」
ヴィンセント神父の声は、どこか言い聞かせるような、あるいは自分自身を納得させるような響きを帯びていた。
手を引かれて辿り着いたのは、教会に併設された孤児院だ。石造りの質素な建物の扉を開けた瞬間、子供たちの制御不能な熱気が、廊下まで津波のように溢れ出してきた。
神父がシスターと短く言葉を交わす間、クズノハは一歩、また一歩と、そのカオスの只中へと足を踏み入れる。
彼女は視線をきょろきょろと動かした後、部屋の隅を捉えていた。
騒ぎから最も遠く、背後に壁があり、かつ日差しが十分に入り込む場所。彼女はそこまで辿り着くと、ふすーと言う鼻息と共にスカートの裾を整えて、ちょこんと腰を下ろした。
膝の上には、先ほどから肌身離さず抱えている植物図鑑。
明日の薬草採取を、ただのお遊びではなく効率の良い資金稼ぎへと変える為のツール。
クズノハの小さな指が、図鑑の表紙にかかった。その瞳は、外界の騒音をシャットアウトし、文字の羅列へとダイブする準備を整えている。
だが、ページがめくられるその寸前。
彼女の視界に、複数の影が落ちた。
「……あ! 新しい子だ!」
「お耳、ぴんってしてるよ!」
「かわいい! ねぇ、なにしてるの?」
気がつけば、クズノハの周囲には、自分よりも頭一つ、あるいは二つ分ほど大きな子供たちが、壁のように立ち塞がっていた。
クズノハの耳が、苛立ちを示すようにピクリと震えた。 彼女は膝の上の図鑑を一度強く握りしめ、それから、ゆっくりと立ち上がった。
無言のまま、周囲を取り囲む子供たちを見上げる。
その視線は鋭く、冷淡だ。彼女にとって、この時間は情報収集に充てるべきリソースであり、無意味な交流は望むものではなかった。
一歩、子供たちが踏み込んでくる。
クズノハは決断した。このままでは図鑑をもぎ取られ、貴重な時間が失われる。
彼女は大きく息を吸い込み、図鑑を収納。そして次の瞬間、両手を真上に向かって勢いよく突き出した。
小さな掌を最大限に開き、精一杯背筋を伸ばし、己の存在を大きく見せようとする渾身の威嚇。
これ以上近づけば容赦はしない──動物的な本能に基づいた、彼女なりの拒絶のポーズだった。
子供たちが、一瞬、呆然と固まる。
クズノハは内心で頷いた。これで、自分のパーソナルスペースは確保された、と。
「…………あ!!」
一番近くにいた少年が、顔をパッと輝かせて叫んだ。
「捕まえてごらんだ! 鬼ごっこだよ!!」
「わぁ、遊ぼう遊ぼう!」
「こっちだよー!」
クズノハの威嚇は、刹那の間に追いかけっこの開始合図へと書き換えられてしまった。
一斉にわらわらと駆け寄ってくる子供たち。
「……っ!?」
声にならない驚愕が、クズノハの瞳に走る。
彼女が逃げようとする動きすら、逃げる役としての名演技にしか見えない。
「まてまてー!」「つかまえたー!」と、四方八方から伸びてくる手。
一人に袖を引かれれば、もう一人が背中から抱きついてくる。抵抗しようと丸まれば、それが隠れんぼのポーズだと誤解され、さらに上から子供たちが重なり合ってくる。
クズノハは、理論や合理性が一切通用しない子供の論理という荒波の中で、図鑑を開くことすら叶わないまま、荒れ狂うカオスの中に呑み込まれていった。
そして夕暮れ時……。カレンが孤児院の扉を叩いたとき、そこには奇妙な光景が広がっていた。
遊び疲れ、シスターに促されて雑魚寝を始めた子供たちの中心で、クズノハも疲れ果てたかのように倒れ込んでいた。
髪はボサボサに乱れ、服の裾には泥がつき、耳には誰のものか分からないよだれの跡──おそらくは、はしゃぎすぎた他の子のものだろう──までついている。魂が抜けたかのような虚無を映す瞳。力なく横たわる尻尾。力なく少し開いた小さな口。そこには生気というものを感じさせられなかった。
逃げ出すことは叶わなかったのであろうが、必死の抵抗の後は見て取れた。
「……あらら。これは、相当激しく遊んでもらったみたいだね」
カレンは苦笑しながら歩み寄り、クズノハの顔を覗き込んだ。
クズノハは焦点の定まらない目で、じーっとカレンを見つめている。その表情からは何も読み取れないが、彼女はカレンの方に助けを求めるかのように手を伸ばした。
「お疲れ様、クズノハちゃん。よっぽど楽しかったんだね。あんなに両手を上げてはしゃいでたって、シスターから聞いたよ?」
カレンが抱き上げようと手を伸ばすと、クズノハは力なく、ふんっ、と鼻息を吐いた。
結局、彼女は一文字も図鑑を読むことはなかった。
本来なら明日までに頭に叩き込んでおくはずだった、薬草と毒草の判別法、薬草の生息域、気をつけるべき毒草の種類……。そのすべてが、子供たちの「まてまてー!」という喚声にかき消されてしまった。
「はいはい、分かったから……お疲れ様。明日は元気に薬草摘みに行こうね。さあ、宿に帰ってご飯にしよう」
カレンにひょいと担がれたクズノハは、力なく揺られながら、夕焼けに染まる街並みを眺めていた……。




