3話 完璧な設計図
ホワイトアウトした視界の中で、佐藤は「法の感触」を確かめていた。
それは彼が二十年、現実世界の肉体を呪いながら構築し続けた物理演算の集大成だ。指先に触れる仮想の空気は、彼がプログラムした通りの粘度と抵抗を持って流れている。
佐藤の目前には、この世界を構成する膨大な「生命の種」がリストとなって漂っている。
人間、エルフ、ドワーフといった王道から、緑の肌のゴブリン、鱗を持つサハギン、果てはリビングアーマーのような無機物までが百種以上も並んでいる。
それら一つひとつの皮膚の質感や関節の可動域に宿る自身の仕事の成果を確認し、佐藤は満足げに頷いた。
「ようやく、ここまできた」
彼は膨大なリストをスクロールする手間さえ惜しみ、検索窓に『狐』とだけ入力する。 ヒットしたのは、たったの1件。
『――検索結果:1件。当該箇所を展開します』
瞬時に表示された検索結果。UIはプレイヤーの利便性を優先し、『種族:獣人』という親カテゴリを自動的にスキップした。画面には即座に、下位分類である『狐』の詳細エディット画面が展開され、そこには確かに『狐』の一文字があった。画面には【人形態】と【獣形態】、二つのエディットタブが並んでいた。
佐藤はそれを見て、口角を上げた。
「なるほど。フィクション通り『化ける』機能も実装されているわけか。……だが、俺にそれは不要だ」
彼は「人型」を、狐が人間に擬態する際の一時的な予備データだと断じた。狐になりたい彼にとって、それはゴミ同然の項目だ。彼は迷わず【獣形態】のタブを選択し、自身が開発時に使い慣れた四足歩行の狐モデルを眼前に呼び出した。
なお、彼はカテゴリ階層を確認するプロパティを開きさえすればそこに『Parent: Demi-Human』と記されていたことに気づく由もなかった。20年待った理想の姿が目の前にあるという期待による視野狭窄が、彼の疑う知性を完全に沈黙させていたのだ。
ここから、偏執的な「美」への追究が始まった。彼は性別選択で、あえてメスを選び取った。
「このしなやかな骨格と毛並みこそが、俺の追い求める野生の姿だ」
彼にとって性別とは、物理シミュレーターとしての「毛の質感」を至高の領域へ高めるための最適設定に過ぎなかった。
彼のエディットは、もはや芸術だった。
パラメータのスライダーをミリ単位で動かし、骨格の黄金比……四足歩行に最適化されたしなやかな骨格へと構造を組み替える。獲物を狩るための理想的な重心位置へと追い込んでいく。月光を浴びて銀色に輝くはずの毛並みの反射率、急旋回を可能にする尾の関節一つ一つへのトルク。 彼の技術によりシステムが許容する極限の数値を叩き出すことで、彼の視界に孤高の白銀狐が顕現したのだ。
造形を終えた彼は、次に初期能力値の割り振りに着手した
「狐に小細工はいらない。知力や精神力など最低限でいい。必要なのは、獲物を瞬時に仕留める瞬発力と、雪原を生き抜くための耐久力だ!」
彼は全初期ポイントを【敏捷(AGI)】と【耐久(VIT)】、そして微量の【筋力(STR)】へと割り振り、魔法の才能を示す数値は見る影もなく削られ、代わりに身体能力の数値は初期レベルとしては高水準なものとなった。
次に、彼は「狐の定義」をシステムに刻み込んでいく。 【夜目】【磁気感知】【病気耐性】【穴掘り】【環境適応:寒冷】【強健な足腰】。純粋な野生を網羅しようとすれば、スキル専用のリソースは即座に底を突いた。 野生の狐が持つべき膨大な生存スキルを網羅するため、狐として不要である「人間としての機能」を質に入れスキルポイントへと変換した。
【失語】:人間語の発声を廃棄。
『警告:永続的状態異常「沈黙」が付与。魔法スキルの詠唱、および他者との意思疎通が困難になります。よろしいでしょうか?』
【無貌】:感情による表情変化を廃棄。
『警告:表情が固定。他者によるステータス異常の視覚的把握が困難になります。よろしいでしょうか?』
「言葉も、愛想も……狐には不要だ」
佐藤は得られたポイントをすべて【野生の直感】や【隠密】。【噛みつき】【不意打ち】といったスキルの習得に注ぎ込んだ。
そして、最後の手続き。 年齢設定の欄に、彼は迷わず『3』と打ち込んだ。 彼にとって「3歳」とは、狐の骨格が完成し、最も強靭で美しい成獣へと至る頂点の数字だった。
『警告:選択した年齢により、容姿の変更とステータスに補正がかかります。よろしいですか?』
「全盛期への最適化だ。問題ない!」
彼は『はい』を選択した。
『警告:容姿に大幅な変更が適用されました。確認を推奨いたします』
画面の端で明滅するその文字を、彼は視界の隅に追いやり、冷笑した。
「確認するまでもない。俺の理論に、システムが追いついただけの話だッ!」
『【重要】キャラクターネームが設定されておりません。このまま確定すると自動で名前を付与しますがよろしいでしょうか?』
野生の狐に名前など必要ない。彼は全く気に留めなかった。
『【重要】スタート地点の雪原への変更。近辺に店舗などの施設が少ないため、推奨されませんがよろしいでしょうか?』
彼にとってその警告は、まるでこれからの生活への祝福のように聞こえた。
画面上のプレビューは、高彩度な街のアイコンが消え、彼が愛した無機質な純白へと塗り潰される。騒がしい色とりどりのノイズが消え、ようやく世界が静まったのだ。
『【重要】確定後、現実時間の「1年間」はキャラクターの再作成が不可能となります。本当によろしいですか?』
二十年という月日が、彼の指を震わせた。
この先に待っているのは、夢にまで見た白銀の毛皮と、誰にも干渉されない孤高の野生。一秒でも早くその肉体になりたいという飢餓感が、彼の冷静な知性を完全に焼き切っていた。規約の重みなど、この渇望の前では羽毛よりも軽い。
「クハハッ……さらばだ、人間ッ!」
彼は、自ら作り上げた「完璧な地獄」の確定ボタンを、力強く叩き込んだ。
佐藤の意識は、歓喜と共に深淵へとダイブした。




