25話 銀のメトロノームと石畳の誘惑
馬車を降りた瞬間、クズノハは石畳の上にぽてりとしゃがみ込んだ。
小さな人差し指を伸ばし、石の継ぎ目を丹念になぞる。それから、何を思ったか靴の先で地面をとん、とんと小刻みに叩き、耳を澄ますように首を傾げた。
「ほら、行くわよ。置いてくわよ!」
カレンが焦れったそうに手を引くと、クズノハは無表情のまま立ち上がり、よちよちと歩き出した。
三歳児の頼りない足取りに合わせて、腰の後ろの大きな銀色の尻尾がふぁさ、ふぁさと左右に揺れる。
右、左。正確なリズムで、ふっくらとした毛並みがふりふりと動く。
少女は街をきょろきょろと見渡し、時折思い出したかのようにカレンを見つめてとことこと歩いている。街への興味を隠せないその背中からは、好奇心に満ち溢れた銀色のメトロノームが突き出していた。
「あらあらまぁまぁ……」
「なんて綺麗な髪の子。お人形さんみたいね」
道ゆく人々が頬を緩ませ、振り返る。
クズノハはそれらの視線を一切無視し、とてとてとカレンの背中を追い続けた。
たどり着いた宿屋の扉を開けるなり、カレンが叫ぶ。
「マーサさん、頼みがあるの!」
カウンターから顔を出した恰幅のいい女主人、マーサの視線が、カレンの足元でふりふりと揺れる銀色に吸い寄せられた。
クズノハは、マーサと目が合った刹那、カレンのスカートの裏へ音もなく滑り込んだ。
布地の隙間から、チラリと片目だけを出して相手をじっと見つめる。
その間も、背後では銀色の尻尾がぷるんと一度大きく跳ね、それからゆっくりと優雅な弧を描き続けていた。
「……なんて可愛らしい子! 大丈夫よカレン、私がしっかり見ててあげる!」
マーサが身を乗り出して手を伸ばすが、クズノハはその指先が触れる直前に、さらに深くカレンの背後へ隠れた。
二階の部屋に入るなり、カレンは空間に手をかざした。
出現した半透明の板を、彼女は厳しい表情で睨みつけ、指先で弾くように操作していく。
クズノハは、その様子を少し離れた椅子に座って眺めていた。
短い足をぷらぷらと揺らしながらビスケットをかじり、瞬きもせず、カレンが虚空をなぞる指先の軌跡を、首をかしげながら追い続ける。カレンが「狼の毛皮、三十枚……」と呟くと、クズノハの耳がぴくりと反応した。
作業を終えたカレンが、自分の頬を叩き、クズノハに向き直る。
「いい、クズノハちゃん。アンタはここでお留守番。私は仕事に行ってくるわ。いいわね?」
カレンが人差し指を立てて念を押すと、クズノハは感情の抜け落ちた瞳を向け、横へとスライドした。
………ぷいっ
カレンはため息を一つ吐き、足早に部屋の出口へ向かった。
だが、カレンがドアノブに手をかけた瞬間。
一切の物音を立てず、背後に気配が立った。
振り返ると、いつの間にか移動していたクズノハがそこにいた。
彼女は無言のまま、カレンのスカートの裾を、小さな指でぎゅっと握りしめている。
「……っ、ダメだってば。お仕事なの」
カレンが手を剥がそうとするが、クズノハは剥がされてもすぐに掴み直す。
両手で裾を掴み、小さな体全体で踏ん張る。見上げる瞳はどこまでも静かだが、その指先は諦める事なく布地を噛んでいた。
気合を入れたほっぺたは、心なしか少し膨れていた。
「……ちょ、ちょっと、離しなさいってば! 時間がないのよ!」
カレンが焦りを見せても、クズノハは離さない。
カレンが右へ動けば、同じ角度で移動し、左へ動けば、また裾を掴んだまま回り込む。
その奇妙な攻防に、カレンが先に毒気を抜かれたように肩を落とした。
「……分かったわよ! 連れて行けばいいんでしょ!」
カレンが投げ出すように言うと、クズノハは満足したのか、ふすーっと鼻息を吐いて裾を握る力を緩めた。
そして、カレンが扉を開けるのを待つ間、銀色の尻尾がぴくりと、一度だけ短く、嬉しそうに弾んだ。
宿を出たカレンの大きな溜息が、石畳に吸い込まれていく。
「いい、クズノハちゃん。商会に入ったら絶対に私の後ろにいること。勝手にどこかへ行ったら、本当に置いていくからね!」
カレンの必死な言葉に、クズノハはすんっと鼻を鳴らした。その視線は、立ち並ぶ建物の看板や、行き交う荷馬車の積荷を素早く見定めていた。
たどり着いたのは、街でも有数の規模を誇る商会だった。
重厚な石造りのエントランスをくぐると、人の熱気と羊皮紙の匂いが混じり合う独特の空気が漂っている。カレンが受付で商談の予約を確認している間、クズノハはカレンの足元で、くるくると頭を回すように周囲を観察していた。
「カレン様、奥の応接室へどうぞ。担当が参ります」
案内された部屋には、ふかふかのソファと、重厚な机があった。カレンが席に着くなり、半透明の板を展開する。彼女の意識が数字の羅列に完全に同期したのを、クズノハは見逃さなかった。
クズノハは音もなくソファから滑り降りた。
カレンが商談相手の入室を待って書類を読み込んでいる隙に、彼女は開いたままの扉から廊下へと、こそこそとことこと滑り出す。
三歳児の頼りない歩行は、左右に小さく重心を揺らす。それを補正するように、腰の後ろの銀色の尻尾がふぁさ、ふぁさと大きく規則正しく振られ始めた。本人は一切の無表情で、目的の棚へと最短距離を維持している。
だが、その背後で揺れる銀色の自己主張が激しい物体は、薄暗い商会の廊下において、あまりにも鮮烈に動体を主張していた。
関係者以外立ち入り禁止の木札を無視し、クズノハは重いカーテンの隙間にその小さな体を滑り込ませ、倉庫エリアへと侵入する。
そこには、村では見ることのない大量の物資が積まれていた。彼女は一歩ごとに足を止め、棚の最下段にある木箱の刻印をじっと見つめ、次に積み上げられた麻袋の質感を確認していく。
手を出すことはしない。ただ、一定の距離を保ったまま、角度を変えて対象をじっと見つめ続ける。
珍しい薬草の香りが漂う一角で、クズノハが古い羊皮紙の束に目を留めた、その時だった。
「……あらまぁ……なんて可愛い迷子さん」
背後で、回避不能な巨大な質量が動く気配がした。
振り返るよりも早く、脇の下に柔らかな、しかし逃れられない力が食い込む。
「だーめよ、お嬢ちゃん。こんなところに一人で入っちゃ」
身体がふわりと宙に浮く。
恰幅の良い倉庫番のおばちゃんに抱きかかえられ、クズノハは即座に全身の力を抜き去った。まるで、糸の切れた人形のように、手足をだらりと垂らす。
されるがままにぶらーんと揺れる。
その瞬間、動きを止めた慣性で、銀色の尻尾がおばちゃんの腕の上でぷるんっと一度大きく弾んだ。
「おやおや、お腹が空いたの? それともかくれんぼ? 可愛いお尻をふりふりさせて、こんな奥まで来ちゃって……」
おばちゃんの言葉は、クズノハの耳には届いていないようだった。
抱えられたままの彼女の視線は、おばちゃんの肩越しに、先程見つけた羊皮紙の束の奥へと向けられている。そこには、古びた木箱が一つ。その側面には、見慣れた文字で「獣人区画:特別配送」と刻印されていた。
「……あ、あ、あああぁぁぁ!!」
商談を終え、応接室から血相を変えて飛び出してきたカレンが、その光景を見て絶叫した。
おばちゃんに「めっ! でしょ」と優しく指を振られながら、耳を伏せて尻尾を力なく揺らしているクズノハ。
「カレンさん、お連れのお嬢さんは、随分と好奇心旺盛なようですねぇ」
商会の担当者が微笑ましく目を細める横で、カレンは真っ赤な顔をして、崩れ落ちるように頭を抱えたのだった。




