23話 暴風雨の荷台
「……なんで、アンタが、ここにいるのよぉぉぉぉぉ!!!」
街道の静寂を切り裂いたカレンの絶叫は、深い森に吸い込まれ、力なく霧散した。
カレンは馬車の床に膝をついたまま、目の前の光景を拒絶するように両手で顔を覆った。指の隙間から、もう一度だけ確認する。夢であれ、見間違いであれ、幻覚であれと願いながら。
だが、現実は残酷だった。
めくられた毛布の影から、銀色の艶やかな髪がさらりとこぼれている。ソファの狭い隙間に、身体をこれ以上ないほど小さく丸めて収まっていたのは、間違いなく、村でハルお婆さんが大切にしていた、あのクズノハだった。
「……ハッ、ハルさん……ハルさん、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
カレンはクズノハを叱るよりも先に、天を仰いで見えぬハルへ向かって許しを請うた。
脳裏に浮かぶのは、今この瞬間、血相を変えて村中を走り回っているであろうハルの姿だ。
あのお婆ちゃん、今頃きっと腰を抜かして泣いている。朝起きて空っぽのベッドを見つけた時の絶望を想像しただけで、カレンの胸が雑巾のように絞られた。
「どうしよう、どうしよう……っ! 誘拐犯だなんて思われないでしょうけど、そんなことよりハルさんが、ハルさんが心配で死んじゃうわよ……!」
カレンはふらふらと立ち上がり、荷台から飛び降りた。
一度外の冷たい空気を吸って頭を冷やそうとしたが、現実はさらに冷たかった。
太陽は既に頂点を過ぎ、西へと傾き始めている。昼下がりとはいえ、辺境の春の日は短い。
「……戻る? 今から……?」
背後を振り返れば、先ほど越えてきたばかりの小高い山が、白く霞んで見えた。
物理的に戻れない距離ではない。だが、朝からの雪道走行で馬は既に疲弊している。今から引き返してクズノハを送り届け、そこから再び街を目指すとなれば、同じ道を三度も通ることになる。
「ダメだわ。今から戻ってハルさんにアンタを返して、また街に向かうなんて……そんなことしたら、馬は潰れるし、納期が……明朝のギルドへの納品にも間に合わない」
その言葉に、少女の耳がピクリと動いた。
「そんなの……私の『信用』が、全部おしまいよ」
カレンは力なく呟き、荷台の縁に額を押し付けた。雪が溶け始め、道は最悪のコンディションになりつつある。カレンは馬車を降りて車輪を拳でポカポカと叩き、やり場のない憤りと無力感をぶつけた。これまでの苦労が、この小さな密航者一人によって水の泡になる。その絶望が、乾いた笑いとなってカレンの唇から漏れる。
「……ハルさん。ごめんなさい……。私、あの子を返すことより、自分の商売を取っちゃうわ。なんて薄情な女なのかしらね、私は……っ」
信用の失墜か、それともハルさんへの不義理か。天秤にかけることすらおぞましい選択肢が、カレンの中で前進へと傾く。
カレンが泥濘んだ地面を見つめて肩を震わせていた、その時だった。
背後で、衣擦れとは違う、空気が震えるような微かな音がした。
意を決して再び荷台へ戻ると、クズノハはソファの上にちょこんと座り直していた。観念したのか、あるいは最初から隠れるのを止めたのか、その銀色の双眸は「で、どうするの?」とでも言いたげに、真っ直ぐにカレンを見つめている。
「アンタ、どうやって入ったのよ。いつからそこにいたの」
問い詰めるカレンの視線が、ソファの背もたれと壁の間の、あまりに不自然な隙間に止まる。
よく見れば毛布が乱れ、クッションが不自然に押し潰されている。そこにある確かな格闘の跡を見た瞬間、カレンの脳裏に、夜の闇の中で必死に潜り込もうとするクズノハの姿が、鮮明な映像として浮かび上がった。
(……ああ、分かったわ。昨日の夜、私が寝てる間に潜り込んだのね。あんな小さな身体で、一生懸命にお尻を振って、短い足をバタつかせて……『ふんすっ、ふんすっ』って鼻息荒くして、強引に押し入ったのね。絶対そうよ。目に浮かぶわよ、もう……!)
想像の中のクズノハがあまりに必死で、そして不格好だったことが、カレンの怒りの火を中途半端に湿らせた。
「……ハルさん。この子、こんなにお淑やかそうな顔して、やってることは強盗に近いわよ。なんでこんな無茶ができるのよ、この子は……っ!」
カレンは再び頭を抱えた。本当にこの選択でいいのかと。自分の運命を、そして今頃絶望の淵にいるハルの心痛を想い、彼女の膝はガクガクと震えていた。
「……ダメだわ、やっぱり戻れない」
カレンは力なく呟き、荷台の床板にがっくりと腰を下ろした。
すでに、この状況ではどうしようもなかった。
「アンタ、分かっててやったの? 私が引き返せなくなるまで、じっと隠れてたんでしょ……」
ソファの上を見ると、クズノハがそっと目線をそらせた。
そのあまりに無垢な表情。しかし、なんとなくばつが悪そうに少女は虚空に小さな白い手を伸ばした。指先が空気を撫でた瞬間、半透明のシステムウィンドウが薄く発光し、彼女の膝の上に昨日買ったばかりのビスケットの袋が現れた。。
「……ちょっと、アンタ……それ、昨日の……」
クズノハはビスケットを袋から一つ摘んでかじると、カレンの方へ袋の開け口を差し出した。
彼女なりに悪いと思っているのであろう。お詫びの印だということだけはカレンにも伝わった。
「……っ。なによ、慰めてるつもり? 運賃代わりにもらうわよ、これくらいじゃ足りないんだからね!」
カレンはビスケットを一気に数枚掴み、やけくそ気味に口に放り込んだ。
サクサクとした甘い食感。昨日自分の店で売ったものなのに、今はなぜか酷くしょっぱい。
そして、この態度。これは間違いなく突発的な迷い込みではない。
クズノハは、ハルお婆さんの目を盗み、必要なものを着々とストックし、決行の時を虎視眈々と待っていたのだ。
その周到さに、カレンは商人としての敗北感を味わった。
「はぁ……可愛くないわぁ……。もっとこう、勢いだけで飛び出しちゃって『お腹空いたよー』って泣きつくのが子供じゃないの? なにその完璧な自給自足……」
カレンは再びがっくりと肩を落とした。
ハルお婆さんへの申し訳なさが、また胸を締め付ける。
(ハルさん、ごめんなさい……。この子、私が思ってたよりずっと確信犯だわ。あのお婆ちゃん、今頃きっと自分を責めてるわよね。あの子が何も持たずに、着の身着のままで雪の中に飛び出したと思って、震えてるわよね……!)
カレンは意を決して、クズノハに向き直った。
「いい、クズノハちゃん。よーく聞きなさい。……街に着いたら、アンタは真っ先に神父様に預けるわ。私は私の仕事があるんだから、それまでは大人しくしてること。いいわね、これは運送責任者としての命令よ!」
クズノハは、ビスケットを齧る手を止め、じっとカレンを見つめた。
しばしの沈黙の後。彼女はインベントリからもう一袋、未開封のビスケットを取り出すと、それをカレンの膝の上にぽすんと置いた。
追い打ちの賃料か、あるいは「ガタガタ言わずに早く出しなさい」という無言の催促か。
「……っ。ああ、もう!出発するわよ!」
カレンはひったくるようにビスケットの袋を奪うと、それをインベントリへと放り込んだ。
「……ハルさん。この子、ちゃんと自分でお菓子を分けられるくらい、良い子に育って……いるはずです。だから、だからどうか、今は泣かないで待っててください……っ」
カレンは独り言を吐き出し、乱暴に手綱を握り直した。
一人の商人の悲痛な祈りと、一人の幼子の静かな野望を乗せて、馬車は泥濘を蹴り、街へとひた走るのだった。




