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狐狂いのVRMMO  作者: かきのたね
三章 春の訪れ

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22話 銀の残り香、老婆の祈り

 寒村の朝は、あまりに静かすぎた。

 いつもなら、隣の寝床から衣擦れの音や、クズノハの小さな、本当に小さな寝息が聞こえてくるはずだった。冬の名残を孕んだ冷たい空気が、窓の隙間から忍び込み、ハルの鼻先を撫でる。


「……クズノハちゃん、朝だよ。もう起きないと、冷えるよ」


 返事はない。ハルが寝室の扉を開けると、そこにあるのは、もぬけの殻となった空白だけだった。

 慌てて布団に手を差し入れる。そこには、まだあの子がそこにいたことを証明する、消え入りそうな微かな体温――「余熱」だけが残されていた。


「クズノハちゃん!? どこだい、どこにいるんだい!」


 朝の光がようやく霧を透かし始めた村に、ハルの悲痛な叫びが響き渡る。彼女は泥濘に足を取られながら、一心不乱に外へと飛び出した。

 あの銀色の細い髪が、寒風に晒されているかもしれない。泥の海に沈んでいるかもしれない。その恐怖が、ハルの老いた心臓を激しく打ち据える。


「あら、ハルさん? そんなに慌てて、どうしたの?」

「クズノハちゃんを見なかったかい! 白銀の髪の、あの子だよ!」


 井戸端に集まっていた女たちが、ハルの形相に息を呑んだ。

 村は一瞬にして騒がしくなった。ハルがこれほどまでに取り乱すことなど、かつてなかったからだ。

 助けに応じて、村が動き出す。


「納屋の中にはいないよ!」

「教会の裏も探したけれど、小さな足跡一つありゃしない!」


 井戸端、納屋、教会の隅々まで。村人たちが総出で捜索を開始したが、誰一人として、その銀色の影を見つけた者はいなかった。


「……門番さん! 門はどうだったんだい!」


ハルは、村を囲む柵の出入り口へと辿り着いた。夜警を務めていた男が、困惑した顔でハルを迎え入れる。


「……ハルさん。俺は夜明けまでここにいた。だが、子供が通り抜けるなんてことは一度もなかったよ。……門を開けたのは一度だけだ。カレンの馬車を通すために……な」


 男の言葉に、ハルは凍りついたように動けなくなった。

 カレンの馬車。

 昨夜、クズノハがじっと見つめていた、あの幌。


(まさか、あの子……あんなにじっと馬車を見ていたのは……)


 胸の鼓動が早まる。だが、もし思い過ごしで、あの子が別の場所から外へ迷い出していたら。ハルは震える足で、狩人――ジョバンニの元へ走った。

 この村には、馬車が通る立派な正門のほかに、狩人たちが森へ向かう際に使う裏の境界や、子供が潜り込めるような柵の綻びがいくつか存在していた。


 ハルは泥濘に足を取られながら、村の出口へと走り続けた。そこには、新雪の積もった境界を検分し、戻ってきたばかりのジョバンニの姿があった。


「……ハルさん。あんたが心配している場所は全部見てきた。あの子が以前、俺のあとを追ってきた時に使った裏の細道も、柵の切れ目もだ」


 狩人は吐き出す息を白く染め、重々しく首を振った。


「あっちには、新雪が真っさらなまま積もってる。ネズミ一匹通った跡もありゃしない。……もしあの子が自分の足で村の外へ出たなら、雪の上に必ず跡が残るはずなんだ。だが、どこにも、そんな跡はなかった。雪が降りしきる中で出ていったのなら話は別だが、それにしても、この新雪を歩けば俺の目は誤魔化せねぇよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ハルの中で霧が晴れるように「答え」が繋がった。

 ジョバンニの眼を以てしても、雪の上に足跡がない。それはあの子が歩いていないという、何よりの証明だ。

 門番の証言。ジョバンニの断言。そしてクズノハの昨日の執着。

 パズルの最後のピースが、カチリとはまった。


「……やっぱり、あの子、地面を歩いてなんかないんだね」


 呟くハルに、ジョバンニは無言で頷き、街道の入り口を指差した。


「ああ。ここだけは雪が踏み固められてる。見てみな」


 そこには、新雪を力強く押し潰し、街へと向かってどこまでも伸びる二筋の深いわだちがあった。


「正門の夜警も、子供が歩いて通る姿は見ていないと言っている。……歩いた跡がなく、門も通っていない。それなら、答えは一つだ。ハルさん、あの子は泥を嫌っていた。冷たい雪の中を、一人で何処までも歩いていくような子じゃないだろう?」


 ハルは、泥と雪にまみれた轍を、愛おしそうに撫でた。

 もう、馬車は山を越えただろう。老いた自分の足では、逆立ちしても追いつけない。

 だが、絶望はなかった。街へ行けば、あの神父様がいる。そして、情に厚いカレンがいる。


「やっぱり……あの子はカレンの荷台に、隠れたんだね……なんて無茶を。まだ、あんなに小さいのに。神父様に会いたい一心で……。カレン……あの子を、頼んだよ。冷えないように、毛布をかけてやっておくれ。……神父様、あの子が着いたら、どうか、抱きしめてやってください……」


 ハルは、遠く霞む山の向こうを、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。

 やがて老婆は、いつか銀色の少女が普段のように扉を開けて帰ってくるその日のために、自分にできる唯一のこと――この帰るべき温かな場所を守り続けるために。

 震える足で、しかし一歩ずつ、静まり返った我が家へと歩き出した。

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