21話 銀の隠密、夜の別れ
深い夜の底、村は重い静寂に沈んでいた。家の中ではハルの規則正しい寝息が部屋の隅々にまで満ちていた。小さな影は、そのリズムの揺らぎを耳朶で捉えながら、ゆっくりと布団を押し上げた。
小さな影は振り返り、じっくりと老婆の顔を観察する。まるで、何かを確かめるように。または、何かを記憶に刻むかのように……。
影はやがて老婆に背を向けると、自身の存在を古い木造家屋の一部であるかのように周囲の風景へと沈み込ませ、ゆっくりと一歩、また一歩と階段を降りていく。音もなく玄関へとたどり着くその足取りは、もはや環境の一部でしかなかった。
冬の寒さが戻りしとしとと降り続く雪は、音もなくあらゆる色彩を塗り潰し、境界線を曖昧に変えていた。その静止した世界の中で、ハルの家の玄関扉が、まるで生き物が息をつくような緩やかさで、数ミリずつ外側へと開かれた。
隙間から滑り出るようにして現れたのは、小さな銀色の影だ。
影は、雪が薄く積もった床板を踏みしめ、音を立てずに地面へと降り立った。
膝下まで届く夜の冷気が、小さな体を包み込む。影はそのまま数歩、馬車の方へと歩を進めたが、そこで不意に足を止めた。
ゆっくりと時間をかけて、影は振り返った。
闇の中に輪郭を失いかけているハルの家。昨日まで自分を包んでいた、唯一の居場所。
影はその家を、あるいはハルが眠っているであろう暗い窓を、瞬きもせずにじっと見つめ続けた。
雪が銀の髪にひとひら、またひとひらと落ち、小さな結晶を刻んでいく。
影は無言のまま、数秒、あるいは数十秒、その場に立ち尽くしていた。やがて、理由を求めるようにこてんと小さく首を傾げると、それ以上は立ち止まることなく、背を向けてカレンの馬車へと歩き出した。
しかし、その尻尾の揺れには、心なしか少し元気が無かった。
雪の上に刻まれた小さな足跡は、刻一刻と降り積もる白によって、端からその輪郭をぼやかされていく。
カレンの馬車の後方。
居住性を重視して整えられた荷台の縁は、幼い影の胸の高さにまで達していた。
影は、馬車を覆う幌の隙間に小さな手をかけると、爪を立てるようにして上半身をぐいと持ち上げた。
まずは頭を、次に肩を。潜り込むようにして荷台の奥へ突っ込むが、そこから先が進まない。
ふんすっ!
力強く鼻息が漏れる。重力に取り残された下半身が、宙で必死にぱたぱたと泳ぎ始めた。
短い足が何度か空を蹴り、その勢いに合わせて、太い銀色の尻尾もまた激しく左右に振られる。踏ん張りどころを見つけようと、尻尾はピンと上に向かって突っ張り、再びバランスを取るために大きくうねった。
やがて、爪先がようやく荷台の床を捉えた。
影はもぞもぞと、芋虫のような不格好な動きで暗がりの奥へと這い進んでいく。
あらかじめ目をつけていた毛布の山。誰でも使えるように幾重にも重なった布地の隙間へと、影は吸い込まれるようにして完全に姿を消した。
直後、荷台の中から雪を払う小さな摩擦音が、衣擦れの音に混じってわずかに響いた。
それもすぐに止み、後に残されたのは、降り続く雪が立てる無音の音だけだった。
影が歩いてきたはずの小さな轍は、朝の光が村を照らすよりもずっと早く、清らかな雪の層によって完全に塗りつぶされ、そこには最初から誰もいなかったかのような、無垢な白だけが広がっていた。
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馬車が村を出てから、ゆうに六時間は経過していた。 村の境界にある小高い山を、喘ぐ馬を叱咤しながらようやく一つ越え、街道は今、深い森の縁をなぞる平坦な道へと入り込んでいる。太陽は既に頂点を過ぎ、西へと傾き始めていた。
御者台に座るカレンは、難所を越えた安堵から小さくあくびを噛み殺し、手綱を握り直す。
「……んー、やっぱり少し冷えてきたわね」
辺境の春は気まぐれだ。日差しは明るくとも、風にはまだ冬の名残のような鋭い冷気が混じっている。山越えでかいた汗が急激に引き、露出している肩や背中が余計に寒く感じられた。
「ちょっと一枚、羽織りましょうかね」
カレンは一度馬を止め、御者台から居住スペースへと身体を滑り込ませた。
ガランとした荷台の中央には、使い込まれた木枠のソファが鎮座している。カレンはソファの座面に膝をつくと、背もたれと馬車の外壁との間にできた、わずかな隙間に手を突っ込んだ。
そこには、まだまだ肌寒くなるので店から持ってきて押し込んでおいた、羊毛毛布が何枚か眠っているはずだった。
「……よいしょ。……あら? 引っかかってる?」
隙間に指をかけ、思い切り毛布を上へ引き上げる。
ズレ落ちるようにして出てきた重い毛布。しかし、その毛布の端に、小さな、白い指がしがみついているのをカレンの目は捉えた。
毛布が完全に引き抜かれた瞬間、ソファの裏の狭い隙間から、まるで隠されていた宝箱が開いたかのように、銀色の髪がさらりとこぼれ落ちた。
「え……?」
カレンの動きが止まる。
カレンが手にした毛布のすぐ下、ソファの影から、自分をじっと見つめ返すクズノハの瞳。
それは、どれほど目を凝らしても、どれほど思考を巡らせても、そこにいるはずのない現実だった。
「っ、なによこれ――ッ!!」
捲り上げられた毛布の下から現れたのは、銀色の、艶やかな毛並みを持つ太い尻尾。
そして、身体をこれ以上ないほど小さく丸め、膝を抱えるようにしてうずくまっていた、一人の幼子だ。
クズノハは、剥ぎ取られた毛布の隙間から、観念したようにゆっくりと顔を上げた。
その銀色の双眸が、驚愕で固まったカレンの視線と、至近距離で真っ向からぶつかる。
「……ク、クズノハ、ちゃん……?」
カレンの声が震える。
目の前にいるのは、昨夜、雑貨屋のカウンターで見つめていたあの毛布の山の中に、文字通り潜り込んでしまったらしい銀髪の少女だった。
「なんで……なんでアンタが、ここにいるのよぉぉぉぉ!!!」
カレンの絶叫が、静かな街道に虚しく響き渡る。
振り返れば、今しがた越えてきた山が壁のように背後にそびえ立っている。今からあの山を登り返して戻れば、村に着くのは深夜。明日の納品は絶望的になる。
呆然と立ち尽くすカレンの前で、クズノハはただ静かに、その小さな首をこてんと傾けて見せたのだった。




