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狐狂いのVRMMO  作者: かきのたね
三章 春の訪れ

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19話 銀の雫と春の泥

 春の訪れは、この寒村に過酷な泥の海をもたらしていた。雪解け水が土を執拗に噛み砕き、道という道が粘り気のある深い泥濘ぬかるみへと変貌している。


「あらあら、クズノハちゃん。そんなに急いじゃ危ないわよ」


 ハルお婆さんが玄関先で、じっと外の様子を伺うクズノハに声をかけた。村の入り口で鳴り響いた鐘の音――それは冬の終わりを告げる、街から帰ってきた馬車の到着であった。


 クズノハは、決して自分から泥の海へ飛び出そうとはしなかった。小さな眉を微かに寄せ、路面の含水率と粘土質を測るかのような視線で足元を一度だけ走らせると、無言でハルの方へ向き直った。そして、ハルの指先を、壊れ物を扱うような慎重さでぎゅっと握りしめる。


「お外が見たいのかい? 賢い子だねぇ。泥んこになるのが嫌なんだね」


 ハルは、自分を頼り切っているようなその小さな手の感触に、言いようのない愛おしさを感じた。ハルの手をつかみ、片方の耳をぴこぴこと動かしながら並んで歩くその姿は、ハルの目にはお婆ちゃんの手を離したくない、健気な孫のように映っていた。


 広場に到着すると、そこには既に多くの村人が集まっていた。人だかりの向こうから、教会の紋章が刻まれた立派な馬車が、泥を跳ね上げながら静止する。


 馬車の扉が開くと、冬の間、街の教会へ派遣されていたシスターが、眩しそうに春の光の中へ降り立った。


「神父様、ただいま戻りました……っ」


 再会の挨拶をしかけたシスターの言葉が、不自然に途切れた。彼女の視線は、群衆の最前列で、ハルの服の裾を掴んで佇む一人の幼女に釘付けになったのだ。


 雪の結晶をそのまま閉じ込めたような、透き通った白銀の髪。 そして、何よりも異様だったのは、その瞳だった。


 シスターは息を呑んだ。その幼子の瞳には、幼少期特有の好奇心や揺らぎが一切存在しなかった。ただ鏡のように平坦で、周囲の風景とシスター自身の姿を淡々と映し出している。視線はシスターの目ではなく、彼女の装備、所持品、そして表情筋の微細な動きを一つ一つ確認するかのように固定されていた。


 ふさふさの尻尾の毛が風になびき、可愛らしい耳が小刻みに動く。春らしくなった素朴な服に美しい容貌。そんな可愛らしい幼子の瞳については、深淵のような、あるいは死んだ魚のような、底知れない冷徹な虚無を宿しているように見えた。


「……神父様。その、あの子は……?」


 シスターは思わず、自らの胸元で十字を切った。彼女が感じたのは、美しさへの感嘆よりも、生命としてのゆらぎが欠落した存在への本能的な畏怖だった。


 少女はシスターの動作を確認すると、即座に現在の位置から、すぐ近くの老婆――ハルの背後へと隠れようとしていた。


 クズノハがハルの後ろへ隠れようと動いた瞬間、近くにあるハルの衣服へピントが合わせられたことで、瞳に物理的な光が戻った。ハルの袖をぎゅっと掴み、その陰から片目だけでシスターを伺う動作。


 シスターの目には、それが先程の無機質な視線を打ち消すような、至極まっとうな人見知りの少女の怯えに見えた。

 シスターは、屈んで少女に目線を合わせて話しかけた。


「驚かせてしまいましたね、小さなお嬢さん。怖がらせるつもりはなかったのです。ごめんなさいね?」


 シスターは警戒心を隠し、一瞬で大人としての対応をとる。だが、彼女の心臓の鼓動はまだ速いままであった。今、目の前でハルの袖を掴んでいる愛らしい少女と、先程まで自分を観測していたあの冷徹な人形のような瞳の持ち主。その落差が、あまりにも滑らかすぎて――まるで、人を人として見ていないような、説明のつかない寒気が、春の陽気の中で彼女の背中を撫でていた。


「……あらあら、本当にごめんなさいね。そんなに怖がらせるつもりはなかったの……」


 シスターは困ったように眉を下げ、自らの胸元で握りしめていた十字架からゆっくりと手を離した。先ほどまで背筋を撫でていた説明のつかない戦慄を、慣れない長旅による気の迷いとして処理するように、一度深く呼吸を整える。


 ハルは、背後に隠れたクズノハの頭を愛おしそうになで、シスターへと朗らかに笑いかけた。


「気にしないでおくれ、シスター。この子は少しばかり……そう、少し前に怖い思いをしたことがあるだけなんだよ……。ほら、クズノハちゃん。シスターにご挨拶だよ」


 クズノハは、ハルの服の裾をぎゅっと握ったままハルの陰からわずかに体をはみ出させ、シスターの顔をまっすぐに見つめた。

 その顔は、人形のように無表情なままである。口は固く結ばれ、視線はシスターの目をみつめたまま、ぴくりとも動かない。

 だが、その強張ったようにも見える沈黙と、ハルの服を握りしめて離さない小さな指先は、シスターの目には、言葉にできないほどの激しい人見知りと、警戒しながら懸命に恐怖に耐える健気な少女の姿として映った。


「ええ、いいのよ、無理をしなくて。じゃあね?」


 シスターは相好を崩し、クズノハを刺激しないよう、そっと離れた位置から微笑みを投げかけた。彼女が村人たちと再会の喜びを分かち合う輪の中へ入っていく間も、クズノハは一度も顔を上げず、ただじっとその場に佇んでいた。


 やがて、人だかりが馬車から離れ始めると、クズノハはハルの手を引き、促されるようにして馬車の側へと歩み寄った。


 クズノハは教会の馬車の周囲を、無言のまま一定の速度で歩いた。

 表情一つ変えず、ただ黒い穴のような瞳で車輪の泥を、あるいは分厚い幌の継ぎ目をじっと見つめる。

 時折、小さな指先が幌の布地に触れ、その感触を確かめるような仕草が、大人たちの目には珍しいものに触れてみたいという幼子の、音のない好奇心に見えた。


 彼女は教会の馬車のそばを離れると、今度は広場の隅で荷降ろしを始めたカレンの馬車の方へと視線を向けた。

 忙しなく帳簿をつけるカレンの周囲を、クズノハは影のように音もなく歩く。

 そして、カレンが荷ほどきの際に切り落とした、古い幌の補修用の端切れ――泥と油に汚れた灰色の布を拾い上げると、それを掲げて馬車の幌の色と見比べ始めた。

 表情は相変わらずぴくりとも動かず、瞬き一つしない。ただ、夕暮れの陽光にその布を透かし、自身の服の色と、馬車の幌を交互にちらちらと見つめ続けている。

 やがて、少女は何かが気になり何に満足したのかわからないが、鼻息をふんすと吐いて見比べるのをやめた。


「さあ、クズノハちゃん。そろそろ帰りましょうかね。冷えるといけないよ」


 ハルに呼ばれ、クズノハは拾い上げた布を迷わず自身のインベントリにしまい込むと、ハルの元へ駆け寄った。

 ハルの指を再びぎゅっと握りしめ、一度も振り返ることなく家路につく。


 帰り道、クズノハはただハルの歩幅に合わせてとことこと足を動かしていた。

 その白銀の尻尾は、歩く度にゆらゆらと揺れ、子供らしい愛らしさをまき散らしていた。

 泥濘を華麗に避け、確かな足取りで家へと向かう。

 そして、背後では春の雪解け水が激しい音を立てて流れ、村の外へと向かっていた。その流れの音を聞くクズノハの耳は、何かを考えるようにぴくりと動いていた。

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