18話 雪解けの音、知識の終端
ハルお婆さんの家の屋根から、時折ズザザと重い音を立てて雪が滑り落ちるようになった。窓の外にぶら下がる氷柱は、数日前よりも細く、その先からは透明な雫が絶え間なく落ち、地面の雪に小さな穴を穿っている。冬の終わりは、誰に告げられるでもなく、そうした微かな音の重なりのなかに兆していた。
朝食を終えたクズノハは、食卓の椅子から音もなく降りた。その足元には、今朝ハルから手渡されたばかりの、新しい手編みの靴下がある。
ハルはその様子を、目尻を熱くして見守っていた。
「どうだい、クズノハちゃん。サイズはぴったりだね。雪が解けて地面が見えてきたら、それをお履き。もっと遠くまで歩けるように、踵を丈夫に編んでおいたんだよ。……ああ、そんなにじっと見つめて……。そんなに気に入ってくれたのかい?」
白銀の髪を持つ幼子は、自らの足元を数秒間、瞬きもせずに見つめていた。その無表情な瞳には、何かを確かめたかのように、ゆっくりと瞬きをしていた。そして、彼女は一度だけ、ふむ、と頷くように顎を引き、それから玄関へと向かった。
ハルはその小さな背中を追い、溢れそうになる涙を指先で拭った。彼女にとって、その沈黙は「大切にする」という無言の誓いに見えたのだ。
戸外に出ると、空気は冷たいものの、肌を刺すような鋭さは和らいでいた。クズノハは、溶け始めた雪が混じる道を、とてとてと規則正しい歩調で進んでいく。
隣のベルナデッタの家へ立ち寄ると、老婆は既に門の前で彼女を待っていた。
「おはよう、クズノハちゃん。今日はね、息子のガラムもお休みなんだよ。だからお弁当は大丈夫。その代わりと言っちゃあなんだけど……」
ベルナデッタは、布に包まれた数冊の本を差し出した。
「私が神父様から借りていた本だよ。教会に行くのなら返しておいてくれるかい? 本当に、この子は本が好きだねぇ……。あんたが一生懸命、毎日のように本を読んでいるって神父様が嬉しそうにしていたよ」
クズノハは無言でその包みを受け取った。彼女の手が布に触れた瞬間、その塊はまるで最初からそこになかったかのように、空気に溶けて消えてしまった。
受け取ったのを見ると、ベルナデッタは穏やかに微笑み、語り掛けた。
「ああ、ありがとうねぇ……。神父様も、きっと待っていらっしゃるよ。雪が解けて滑るから、気をつけて行くんだよ」
クズノハは一礼し、踵を返した。その背後では、白銀の尻尾が一度だけ、春の訪れを予感させるようにピンと跳ねた。
村の中央にそびえる教会。その石造りの壁には、解け出した雪水が黒い筋を作っていた。
神父は、教会の入り口で雪かきの手を止め、遠くから近づいてくる小さな白銀の影を認めるなり、その顔を大きく綻ばせた。
「……クズノハ様! 今日も、来てくださったのですね」
神父は慌ててスコップを脇に置き、膝をついて彼女を迎えた。泥に汚れた自分の手が彼女に触れないよう、慎重に、しかし溢れんばかりの敬意を込めて、彼は書斎への道を促した。
いつもの書斎。窓からは、冬の終わりの柔らかな陽光が差し込み、埃の粒子が黄金色に輝いている。
机の上には、既に一枚の小皿が用意されていた。神父が今朝、心を込めて焼き上げたライ麦のクッキーだ。
クズノハは迷わずいつもの椅子によじ登ると、卓上に、先ほど預かった本を実体化させた。
「ああ、ベルナデッタさんのところの本ですね。……ええ、確かに。……では、次のお話を用意しますね。一冬かけて、あなたは様々な物語を読み終えられた。……何か、気に入られた物語はありましたか?」
神父は、返却された本の一冊一冊を、丁寧に書架へと戻していった。
クズノハは、その様子を横目に、最後の一冊――この書斎にある最後の絵本のページを捲った。
サクッ。
静寂の中に、クッキーを咀嚼する乾燥した音が響く。
クズノハの瞳は、紙面に並ぶ複雑な文字の羅列を、一つ一つ確かめながら追っていた。一冬前には、意味をなさない記号でしかなかったその配列が、今では彼女の内で滑らかな体系として構築されている。
神父は隣に座り、彼女がページを捲るたびに、微かな衣擦れの音さえ愛おしむように聞き入っていた。
(ああ、主よ……。あんなに頑なだった彼女の指先が、今はこれほどまでに優しく言葉をなぞっておられる。言葉を覚えるたびに、この子の凍てついた魂が、少しずつこの地の光に馴染んでいく……。私は、その奇跡を見届けるためにここにいるのだ)
神父の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
彼にとって、クズノハが無表情に本を読み進めるこの時間は、単なる学習の時間ではなかった。それは、凄惨な過去から逃れてきた幼子が、現世という名の穏やかな檻の中で、ようやく「人としての尊厳」を取り戻していく、神聖な儀式に他ならなかった。
やがて、クズノハの指が最後の一行をなぞり終えた。
ペラリ、と最後のページが捲られ、静かに本が閉じられる。一冬の間、この小さな部屋で幾度となく繰り返されてきたその音は、窓から差し込む陽光に溶け、どこか穏やかな終止符を打った。その瞬間、彼女の瞳が僅かに細められ、何かを確認するように窓の外を見つめた。
神父は、その終焉の気配を察し、穏やかに語りかけた。
「……よく頑張りましたね。クズノハ様。この部屋にある物語は、これですべておしまいです。かつての王国の物語も、英雄たちの伝承も、すべてあなたのものになりました。ですが、寂しく思う必要はありませんよ」
神父は立ち上がり、読み終えられた本を愛おしそうに撫でた。かつて自分が読み、いつか村の子供たちに聞かせようと集めていた古びた絵本。それが、この一冬で彼女の心の一部になったのであろうと、彼は目を細める。
そのまま、窓の外に広がる、雪の下から顔を出した黒い土と、微かに芽吹こうとする名もなき草を指し示した。
「春が来て、雪が完全に解けたら、私が一度、街へ出かけようと思います。」
神父は努めて明るい声で、彼女の視線に合わせて膝をついた。
「あなたのための、新しい絵本を買いに行くのです。もっと綺麗な絵がついたものや、胸がわくわくするような楽しいお話を、たくさん見つけてまいりましょう。……ですから、クズノハ様はお留守番ですよ。ハルさんと一緒に、この温かな村で、お日様を浴びて待っていてくださいね」
神父にとって、街へ連れて行くことは、彼にとって決して不可能なことではない。だが、彼女が再び珍しい存在として衆目に晒されるリスクを冒す必要はない。この村は、彼女を守るための完璧な揺り籠なのだ。
神父の手が、クズノハの小さな頭を優しく撫でる。その瞬間、白銀の耳がピクリと動いた。
神父はそれを「一人残されることへの、幼子らしい不安」だと解釈し、優しく、慈しむように微笑み返した。だが、ゆっくりと顔を上げたクズノハの瞳の奥には、感情とは異なる、峻烈な目的意識のような光が宿っていた。
「お土産に、とびきり美味しいお菓子も買ってきますから。……ええ、約束です。私が、あなたに新しい光を持ち帰りましょう。楽しみにしていてくださいね」
クズノハは、神父の言葉をじっと聞いていた。
その白銀の瞳は、神父の顔を数秒間見つめ、それから窓の外へと向けられた。椅子の下で尻尾が一度だけふぁさりと床をなでる。
彼女は椅子から降り、教会の扉へと向かった。その足取りは、来た時よりも僅かに力強く、目的へと向かう意志の強度を感じさせた。
神父は、扉を出ていく後姿を目を細めて見守っていた。
(……寂しい思いをさせてしまうが、これもこの子の平穏を守るため。春が来るまでに、とびきりのお土産のリストを作っておかなくては)
帰り道、彼女の足元では、新しく履いた靴下が雪解けの泥に汚れ始めていた。しかし、彼女はそれを一度も顧みることなく、遠く、村の境界線の先にある険しい山々と、その向こうにあるはずの街の方向を、じっと見据えていた。
夕暮れ時、教会を辞したクズノハは、ハルの家へと戻った。
家の中では、ハルが冬の間に溜まった煤を払い、春の衣替えの準備をしていた。神父からの買い出しの話を聞いたハルは、心底安心したように深く頷いた。
「……そうかい。神父様がそう言ってくださるなら、それが一番だねぇ。クズノハちゃん、あんたはこんなに可愛いんだ。悪い人に見つからないように、お婆ちゃんと一緒にここで春を待とうね。畑の芽が出てくるのも、もうすぐだよ」
ハルは、クズノハのために新しく用意した春用の薄手の服を広げて見せた。
村の誰もが、彼女を守ることで一致していた。彼女を村の外へ出さず、この穏やかなコミュニティの中で、ゆっくりと、ただの子供として育てていくこと。それが、この村に舞い降りた小さな白銀の奇跡に対する、彼らなりの誠実な恩返しだった。
その夜。
クズノハは二階の自室で、窓枠に手をかけ、外の世界を見つめていた。
雪が消え、露わになった黒い大地。村を囲む森の木々が、春の予感に震えている。
神父が、ハルが、そして村の大人たちが、良意という名の暖かな鎖で自分を縛り始めたことを、彼女は知っている。
暗闇の中で、月光を浴びた白銀の尻尾が、一度だけ鋭く、鞭のようにしなった。
それは、神父たちが夢見る穏やかなお留守番とは、決定的に質の異なる決意を孕んだ動きだった。 窓の向こう、夜の静寂が広がる山々の稜線を、彼女は瞬きもせずに見据え続けていた。
春。それは、大人たちが用意した絵本の続きを待つ季節ではない。
彼女自身が、自らの足で新しいページを切り拓くための、解禁の季節であった。
静かな寝息が部屋に満ちる頃、窓の外では、雪解け水が小川となって、村の外へと向かって勢いよく流れ出していた。




