17話 白銀の追跡者と、森の番人
冬の終わりは、まだ遠い。
北の地を覆う雪は、自らの重みで幾層にも積み重なり、村の道は樵たちの雪かきによって作られた白い壁の溝のようになっていた。空は低く垂れ込め、時折舞い落ちる粉雪が、静まり返った村をさらに白く塗り潰していく。
「さあ、クズノハちゃん。これを持って行っておくれ」
隣家のベルナデッタが、厚手の布に包まれた籠を差し出した。中には、彼女の息子である鍛冶師ガラムのための、熱いスープと焼きたてのパンが入っている。
白銀の髪を持つ幼子――クズノハは、無言のまま、しかし確かな動作でその籠を受け取り、インベントリに収納した。冷気で指先が赤らんでいるが、彼女はそれを気にする様子もなく、まっすぐに前を向いて歩き出す。
「本当に、助かるよ。こんな雪の日に、ガラムのやつときたら仕事場で泊まり込みなんだから。……足元に気をつけて行くんだよ、クズノハちゃん」
ベルナデッタの心配そうな見送りを受けながら、クズノハは村の通りを進んでいく。
彼女の歩みは、村人たちの目線を集めた。自分よりも大きな雪の壁の間を、迷うことなく一定の歩調で進んでいく姿。時折、深雪に足を取られそうになりながらも、決して転ぶことなく、慎重に、かつ正確に一歩を刻む仕草。そして、風が吹く度にぴこぴこと動く耳と、歩く度に左右にゆらゆらと揺れる尻尾。そのどれもが、道ゆく大人たちの目を細めさせた。
やがて、凍てつく空気の中に、絶え間ない槌の音が響く一角へと辿り着いた。鍛冶師ガラムの作業場である。
開け放たれた入り口からは赤々と燃える炉の光が漏れ、鉄が焼ける匂いが周囲の雪を溶かしている。
いつも通り、重厚な木製の扉をコンコンと叩く。
「おっ、来たなお嬢ちゃん。助かるよ」
ノックをすると、ガラムは槌を置き、無造作に顔の汗を拭いながら出迎えた。
クズノハは無言で、ベルナデッタから預かったスープとパンの籠を、埃の立たない作業台の隅に置いた。
「お袋のスープか。これは嬉しいぜ……こいつはすげぇうまいからな。お嬢ちゃんも一口飲むか?」
ガラムは籠の中身を確認すると、力を抜いた気安い調子で笑った。クズノハはそれに対し、ただ静かに頷き、一口飲ませてもらっていた。
ガラムにとって、クズノハは守らねばならないか弱い幼子である前に、言いつけを正確に守り、期待通りの成果を出す信用できる小さな隣人だった。
「本格的に飯を食う前に、一つ片付けたい仕事があるんだが……。少し手を貸せるか?」
ガラムは作業台の反対側にある、革袋を指差した。中には、打ち直したばかりの鏃と、研ぎ澄まされたナイフが収められている。
「ジョバンニが村の境界の『見張り小屋』で待ってる。俺はこれから急ぎの馬具を仕上げなきゃならねえ。これを持って行って、あいつに渡してきてくれ。雪が深いから気をつけろよ、道から外れるなよ」
クズノハの耳が、僅かにピクリと動いた。
彼女は無表情のままガラムを見つめ、それから革袋を指先で触れて収納した。
クズノハはガラムに小さく一礼すると、踵を返して雪の中へと踏み出した。その背後で、白銀の尻尾が一度、力強く、どこか満足げにパタパタと左右に振れる。
「はは、頼んだぜ!」
ガラムの威勢の良い声を背に受けながら、クズノハは村の外縁へと向かう。
彼女の歩調は迷いがなかった。深雪の壁に挟まれた道を、とことこと進んでいく。時折、雪に足を取られそうになりながらも、彼女は一切の焦りを見せず、バランスを立て直しては一歩を刻む。
村の家々が疎らになり、木々の密度が増していく。
道は次第に雪に埋もれ、膝の高さまで積み上がる場所も出てきた。立ち往生しそうになるような白銀の障壁だが、クズノハは止まらない。
彼女は、雪の上に残るジョバンニの大きな足跡――かんじきで踏み固められた唯一の確かな地面だけを選び、一歩ずつ、しかし着実に前進していく。大きな足跡の中に、彼女の小さな靴がすっぽりと収まるたび、彼女の尻尾はふわりと誇らしげに跳ねた。
やがて、森の入り口にある、雪に半分埋もれた簡素な小屋が見えてきた。
そこには、長弓を傍らに置き、冷気を切り裂くような鋭い眼差しをした男、狩人ジョバンニが立っていた。
「……おう、ガラムはどうした? 忙しいのか」
ジョバンニは、音もなく近づいてきたクズノハを認めると、ごく自然に声をかけた。
クズノハは無言で、預かっていた革袋を差し出す。ジョバンニは中身を改めると、鋭い刃先に満足げに鼻を鳴らした。
「ああ、手間をかけたな。ありがとよ、助かったぜ」
ジョバンニは見上げてくるクズノハの頭を一度、ぽんと軽く叩くと、ナイフを腰に差した。
「俺はこれから森の奥へ行く。ここから先は、かんじきが無けりゃお前さんの背丈なんてあっという間に埋まっちまう。……さあ、また雪が降る前にガラムのところへ戻るんだぞ」
そう言い残すと、ジョバンニは静かに森の深淵へと消えていった。
その背中を、クズノハはじっと見つめていた。白銀の髪が冷たい風に揺れ、彼女は一度、深く息を吐く。
それから、彼女は村へ戻る道ではなく、ジョバンニが消えた森の奥へと、小さな、しかし確かな一歩を踏み出した。
尻尾が震え、左右に激しく振られる。
彼女の瞳は、白銀の世界に刻まれたジョバンニの微かな痕跡だけを、真っ直ぐに追い始めていた。
ジョバンニの背中が、巨木の立ち並ぶ森の深淵へと吸い込まれていく。
クズノハはその場で数秒間静止し、冷たい空気を深く吸い込んだ。吐き出した吐息が、白銀の髪に触れて白く凍る。
彼女は一歩を踏み出した。
雪を漕ぐのではなく、ジョバンニが残したかんじきの跡を正確になぞる。一歩ごとに、彼女の白銀の耳がぴこりと動き、周囲の音を拾い上げる。
森の奥へ進むにつれ、光は弱まり、木々のざわめきだけが耳に届くようになる。それまでパタパタと動いていた尻尾は、今はぴたりと止まり、雪を撫でることさえしない。
前方の木々の隙間に、ジョバンニの灰色の外套がちらつく。
彼が足を止め、周囲の木々の皮を検分するたびに、クズノハもまた、自身の小さな体を巨木の影へと滑り込ませた。
木陰から片目だけを出してジョバンニをじっと見つめるその瞳は、感情を排した宝石のように硬質で、瞬き一つしない。風が吹くたびに、白銀の髪が雪の白さに溶け込み、彼女の存在を希薄にさせていた。
その時だった。
ジョバンニが、ある巨木の前で不自然に足を止めた。
クズノハは即座に近くの太い幹の裏へと回り込み、気配を殺す。
だが、次の瞬間。
背後から音もなく伸びてきた大きな手が、彼女の脇の下へと差し込まれた。
「――かくれんぼなら、俺の勝ちだな」
視界がふわりと浮き上がる。
ジョバンニだった。彼はいつの間にかクズノハの背後に回り込み、その大きな手で、彼女の小さな体を軽々と持ち上げていた。
クズノハは、空中で手足をぱたぱた動かしたがすぐに諦めてぷらーんとぶら下がり、無表情のままジョバンニの顔を見上げた。
「お前さん、足音を消すのは正解だが……その銀髪に立派な尻尾だ。雪の森じゃ、提灯を持って歩いてるようなもんだぜ」
ジョバンニは呆れたように笑い、クズノハを脇に抱え直した。クズノハはジョバンニを見つめ、手足をだらりと下げて「スン……」とした無表情を貫く。その様子を見て、ジョバンニは苦笑しながら、村へと引き返し始めた。
村の入り口では、心配のあまり雪の壁の上から身を乗り出していたハルお婆さんが、仁王立ちで待ち構えていた。その隣には、バツが悪そうに頭を掻くガラムの姿もあった。
「ジョバンニ! ……クズノハちゃん!?」
ハルの絶叫が、静かな村に響き渡った。
ジョバンニの手から、まるで届け物のように地面に降ろされたクズノハを、ハルは即座に引き寄せた。肩を掴むその手は、怒りと恐怖で微かに震えている。
「あんた、なんてことを……! もし狼がいたらどうするんだい! 雪の下の穴に落ちたら、誰も見つけてあげられないんだよ! ……ああ、もう、本当に……!」
ハルは言い終える前に、クズノハの小さな体を、壊れ物を扱うような力強さでぎゅっと抱きしめた。 クズノハの頬に、ハルが着ている厚手の毛織物の感触と、煮込み料理のような生活の匂い、そして彼女の激しい鼓動が伝わる。ハルの目から溢れた一筋の涙が、クズノハの白銀の髪に落ち、熱を持って吸い込まれていった。
「…………」
クズノハの体から、ふっと力が抜けた。
彼女は無言のまま、自分の小さな掌をハルの背中にそっと添えた。ハルの体温が、雪の中で冷え切った彼女の指先をじわりと溶かしていく。その温もりを拒むこともできず、彼女はただ、ハルの胸の中でじっと目を閉じた。
ガラムは、ハルの剣幕に気圧されながらも、二人の前に屈み込んだ。
「悪かったな、クズノハ。お前さんができる子だからって、俺が甘えちまった。……だが、今日のはナシだ。ジョバンニが気づかなきゃ、今頃お前さんは森の迷子だぜ」
ハルは、クズノハを抱きしめたまま、その泥で汚れた靴下を愛おしそうに撫で、最後には大きく、重い溜息をついた。
「……もう、二度としちゃだめだよ。わかったね? さあ、家に戻って、温かいお粥を食べるんだ。……お説教は、それからだよ!」
クズノハは、ハルに手を引かれ、とぼとぼと家へと向かった。
その背後で、彼女の白銀の尻尾は、先ほどのように激しく振られることも、あるいは鋭くしなることもない。ただ、ハルの歩調に合わせるように、小さく、頼りなげに揺れているだけだった。
家の中に入ると、暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜ、クズノハを暖かく迎えた。
椅子に座らされ、ハルに温かいスープを口元へ運ばれると、クズノハはそれを一切の拒否なく受け入れた。ハルの手が震えていないか、その表情にまだ影が残っていないか。彼女の瞳は、スープの味よりも、ハルの様子を伺うように静かに動いていた。
食事を終え、ハルに促されて自室へと戻る。
一人になった部屋で、クズノハは窓枠に手をかけ、月明かりに照らされた森を見つめた。
彼女は一度だけ、ふう、と、先ほどよりも長く、深い吐息を漏らす。
それから、自分の小さな掌をじっと見つめ、ゆっくりと、その指先をさすった。そこにある何かを確かめるように。
窓の向こう、夜の静寂が広がる森を見つめる瞳は、依然として硬質で、揺らぎはない。
だが、闇の中で一度だけしなった尻尾の動きには、言葉にできない複雑な情緒が、微かな重みとして混ざっているようだった。




