13話 白銀の日常
冬の朝、ハルの家の二階。屋根裏部屋の布団が音もなく持ち上がり、中から銀髪の幼子、クズノハが這い出した。
彼女は布団の上に正座すると、一瞬だけ瞳を閉じ、何もない空間を指でなぞる。
その直後。
クズノハが自身の胸元に小さく触れた瞬間、パッと光の粒が舞った。
寝間着姿の彼女は、次の瞬間に、乱れ一つない村娘の装いへと変わっているという、あまりに鮮やかな身支度。
扉の隙間からそれを見ていたハルお婆さんは、その光景をほほえましく見守っていた。
(……ああ、随分と元気になって。もう、こんなにもこの家になじんでくれたんだねぇ……)
階下へ下りてきたクズノハの食事も、見ていて見事なものだった。
用意された粥を前に、彼女はスプーンを握ると、迷いのない所作で粥を口へと運んでいく。
ふぅ〜……ふぅ〜……。
規則正しい呼気が、銀色の前髪を一定の間隔で揺らす。
一口ごとに、椅子の下で白銀の尻尾がパサパサと床を叩く。
その無表情な顔からは想像もつかないほど、尻尾だけは生き生きと、まるで心地よいリズムを刻むように跳ねていた。
「クズノハちゃん。今日はベルナデッタさんの家へ、この根菜を届けておくれ」
ハルから差し出された、ずっしりと重い籠。
クズノハは無言で頷くと、取っ手に触れた瞬間にそれをインベントリへと消し去った。
そして、家を出ると、クズノハは脇目も振らずに歩き出した。
とてとてとことこ。
三歳児の小さな足取り。しかし、その視線は目的地一点に固定され、その背後には美しい尻尾がふりふりと揺れていた。
「あら、クズノハちゃん。今日もお使いかい? 偉いねぇ」
「見てごらんよ、あの子。あんなに小さいのに、率先して村の仕事をこなしている……」
「なんて健気なんだろう。あんな小さな子が、毎日一生懸命に頑張っているなんて……」
通りかかる村人たちの温かな視線と声。
クズノハはそれらに、耳を一度ピコリと動かして応えるのみ。決して足を止めず、最短距離での任務遂行を優先する。
ベルナデッタの家に着くと、彼女は無言のまま、指定された位置に正確に籠を実体化させた。
老婆が感極まってその銀色の頭を撫でると、彼女は一瞬だけ耳をパタリと伏せ、じっと撫でられるままになっていた。
表情は相変わらず鉄のように動かないが、その様子は、まるですべての温もりを静かに受け止めている高潔な幼子のようだった。
「ありがとうねぇ、クズノハちゃん。本当に、毎日助かるよ。また今日も、息子のところにお弁当を届けてくれるかい?」
差し出された飴玉とお弁当の包みを受け取り、クズノハは深々と首肯した。
そして、次は村外れに向かうために踵を返す。
その背中を見送りながら、村の大人たちは「なんて健気で、真っ直ぐな子だろう」と、冬の陽光に輝く白銀の尻尾に、目を細めるのだった。
村の中央、冬の柔らかな日差しが差し込む聖堂。
重厚な扉が静かに開くと、白銀の尻尾をゆらゆら揺らしながら、クズノハがとてとてと正確な歩調で現れた。
彼女は祭壇に一瞥もくれず、真っ直ぐに神父の書斎へと向かう。
その足取りには迷いがなく、既に何度も訪れている事を証明させた。
神父は、扉を叩く音すら待たずに部屋へ入ってきた幼子を、深い慈愛の眼差しで迎える。
「……いらっしゃい、クズノハ様。今日も精が出ますな」
クズノハは無言のまま、いつもの椅子へとよじ登った。
彼女が卓上の古書に手を伸ばす。その指先が紙面に触れた瞬間、彼女の瞳が文字に固定された。
ペラッ……。 ペラッ……。
ページを捲る音が、一定のリズムで静寂を刻む。
彼女の視線は、ゆっくりと。しかし、確実に子供には難しい表現の一文をなぞっていた。
神父は、隣で呼吸を忘れてその光景を見守っていた。
(……素晴らしい集中力ですね。普通の子であれば、文字の形に怯え、意味の深淵に戸惑うはずです。だがこの子は、ただひたすらに、諦める事なく読み進めています)
クズノハが不意に、卓上のクッキーへと手を伸ばした。
視線は本に固定したまま。手探りのはずの指先は小皿の端を捉え、一切の無駄なくクッキーを口へと運ぶ。
サクッ。
乾いた咀嚼音。
その瞬間、椅子の下で銀色の尻尾がふぁさっ、ふぁさっと大きく、緩やかに弧を描いた。
表情は依然として、凍りついた鉄のように冷徹なまま。ページをゆっくりとめくり続ける。
しかし、その尻尾だけが、彼女の意志とは無関係な生命の鼓動を打ち鳴らすように、リズミカルに空を泳いでいた。
神父の瞳に、熱いものが込み上げる。
(……あぁ。心も、声も、表情も。すべてを過酷な過去に置いてきたはずのこの子が。……今、尻尾だけで『美味しい』と笑っておられる)
神父には見えていた。
過酷な過去を乗り越え、少しずつ物語が記された本を読み進めるその姿こそが、生き残った彼女にとっての救いの形なのだと。
不意に、クズノハがページをトントンと叩いた。
それは「続きを読め」という合図。
神父は微笑みながら眼鏡を直し、穏やかな声で読み上げを再開した。
「失礼いたしました。……『かつての王宮を包む銀嶺の雪は、すべての哀しみを覆い隠し……』」
夕刻、光が橙色に溶け出すまで、その奇妙な時間は続いた。
一人は、ひたすらデータの蓄積を。
一人は、その背後に傷ついた魂の再生を幻視しながら。
帰り際、クズノハは神父に一度だけ丁寧な一礼を捧げ、再びとてとてと足音を残しながら去っていった。
神父は、彼女が食べ終えた小皿に残ったわずかな欠片を見つめ、そっと胸の前で十字を切った。
「主よ……。あの子に、いつか、心の底からの笑顔が戻る日は来るのでしょうか……」
切なる願いが、静謐な教会の中にひっそりと響いた。




