12話 解読の音色と、手作りの聖域
翌朝、クズノハは目覚めると同時に、視界の隅にステータスウィンドウを呼び出した。
そこには、僅かだが知力と精神のステータスが上昇していることが確認できた。
三歳児の頼りない指先で、空中に浮かぶ半透明の数値をなぞる。
昨日一日を費やした北方大陸文字スキルの習得プロセス。それが知力や精神というパラメータに、経験値としてフィードバックされた証拠だ。
(初期設定で極限まで削った知力と精神のステータス。それが学習という正攻法のタスクによって補えている。この効率は、他の雑務をこなすより遥かに高い。……継続だ)
朝食の粥を胃に流し込み、ハルお婆ちゃんに一礼して家を出る。
教会へと向かう道すがら、クズノハは冷静に周囲の環境をノードとして再評価していた。昨日は疲れから必死だった歩行も、今日は幾分か足取りが軽い。
(ターゲットは、教会の管理棟。あそこは現在、知力向上に特化した高効率トレーニング施設として開放されている)
教会の重い扉を押し開ける。
静謐な空気の奥、いつもの場所には既に神父が座っていた。
クズノハが近づくと、彼は何も言わず、ただ深く優しげな微笑みを浮かべて席を立った。そのまま迷わず、昨日の書斎へと案内される。
窓から差し込む朝の光が、埃のダンスを照らしていた。
机の上には、古い北方大陸の文字が並ぶ書物。そして、小皿に盛られた数枚のクッキー。
(……ライ麦、および村特製のジャム。咀嚼による脳血流の増加と、糖分の直接供給。効率的な学習のための補給物資と定義する。……サクッ。ふむ。なかなかいけるな……。まあ、流石にゲームで栄養までは再現していなかったはずだがな……)
椅子によじ登り、クッキーを一口齧る。
ライ麦特有の少し硬めの食感。噛みしめるたびに、素朴な穀物の香りとジャムの鮮やかな酸味が口の中に広がった。
(……美味しいな、これは)
佐藤健一としての理性は糖分と塩分の配分を評価していたが、クズノハとしての肉体は、その温かな甘みに純粋な充足を覚えていた。
神父が隣に座り、ページをめくる速度に合わせて、穏やかな声で物語を読み上げ始める。
その声は、かつての職場で鳴り響いていた無機質なタイピング音や、サーバーラックの唸りとは対極にある、ひどく静かな音色だった。
読み上げが耳を通り、スキルが文字情報を次々とパターン化していく。スキルの熟練度が高まるにつれ、重かった頭脳が少しずつ滑らかに回り始める。
サクッ…………サクッ…………
静まり返った書斎に、クッキーを噛む乾燥した音だけが断続的に響く。
本に釘付けになり、無表情で解読に没頭する。だが、その背後では――。
素朴な服の下から覗く白銀の尻尾が、クッキーの食感と神父の読み上げのリズムに合わせるように、左右にユラユラと、ゆったりとした孤を描いて揺れていた。
本人は気づいていない。
解読をスムーズに進めるための環境として利用しているこの場所で、自分の尻尾がどれほど幸せそうに揺れているか。
(……このページの解読は完了した。……サクッ。……次だな。この村、意外と居心地が良い。リソースの補充タイミングも完璧だ)
淡々とページをめくるクズノハ。
その小さな肩からは、二日前の凄惨な気配は消え、代わりに日向の匂いがする安らぎが、しっとりと染み込んでいた。
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神父は、隣でページを見つめる小さな横顔を、呼吸を忘れるほどの愛おしさと共に、そっと盗み見ていた。
(……ああ。主よ。私は今、奇跡を目の当たりにしております)
二日前、血と泥に汚れ、人としての情緒を凍らせていたあの幼子が。
今、こうして自ら望んで教会の扉を叩き、私の差し出したクッキーを口に運んでくださっている。
サクッ……。
静かな書斎に響く、乾いた小さな咀嚼音。
小さな、本当に小さなその口が動くたびに、神父の胸は激しく高鳴った。このクッキーは、昨夜自宅で自らライ麦の粉をこねて生地を作り、ジャムを乗せて一つ一つ焼き上げたお手製のものである。
(食べてくださっている。……お気に召したのだな。ああ、なんと健気な……)
クズノハの表情は、依然として鉄のように冷たく、無表情のままだ。その銀色の瞳は、一つ一つ確実に北方文字を追い続け、まるで聖なる使命に燃える学徒のような峻烈さを湛えている。
だが、神父は見てしまった。
クズノハがクッキーを齧り、ジャムの甘みがその舌に触れた瞬間――。
質素な村の服の裾から覗く、あの白銀の尻尾が。
ふぁさっ……ふぁさっ……。
と、まるで心の旋律を奏でるように、優雅に、かつ幸せそうにユラユラと揺れ始めたのを。
(……っ!?)
神父は、読み上げる経典の声を裏返さないよう、必死で喉を締め上げた。
表情は変わらない。声も出さない。しかし、あの尻尾だけは、彼女の魂の安らぎを隠しきれずに露呈させている。サクッ、という音と共に、リズミカルに空を泳ぐ銀色の輝き。
(おお……おおお、主よ……。あんなに、あんなに地獄を歩んできた子が。……言葉も、声も、表情も奪われるほどの過酷な逃亡の果てに。……今、尻尾だけで美味しいと、そう仰っている……!)
神父の脳内では、もはや全知全能の神への感謝が、一人の幼子への狂おしいほどの庇護欲に変換されていた。
無表情でページをめくる彼女のストイックさと、無自覚にフリフリと揺れる尻尾の愛らしさ。その破壊的なギャップに、神父の心臓は限界に近い負荷を強いられていた。
(次は……次はもっと、柔らかい蜂蜜のクッキーを用意しましょうか。……それとも、外の冷気を利用した、ベリーを添えた冷たいお菓子が良いでしょうか。……ああ、この尻尾が、もっともっと幸せそうに揺れるためならば、私は神父の務めを放り出してでも……!)
クズノハが不意に読み上げの速度を上げろとばかりにページをトントンと叩くと、神父は「はっ」として、慌てて声を整えた。
「失礼いたしました、クズノハ様。……『かつての王宮に降り積もる雪は……』」
穏やかな読み上げの声が、再び日当たりの良い書斎を満たす。
神父は誓った。この、無機質にすら見えるほど静かな学習の時間と、その裏で密かに踊る安らぎの尻尾を、決して何者にも汚させはしないと。
外の世界では、彼女を追う影があるかもしれない。凄惨な過去が、彼女を連れ戻そうとするかもしれない。
だが、この教会の、この書斎の、クッキーの香りが漂う聖域の中だけは、彼女はただの、甘いものが好きな子供でいられるのだ。
(一生、ここにいれば良いのです。……お菓子も、本も、私がいくらでも。……ええ、いくらでも用意いたしますから……)
神父は、湿った目元を悟られぬよう伏せながら、世界で最も甘く、最も重苦しい守護の決意を固めていた。そう……固めさせてしまっていたのだった……。




