11話 辺境の檻、あるいは救済の余白
鍛冶場からの帰路。四百八十メートルの歩行を終え、ハルの家の庭先まで戻ったクズノハの脚は、明確に疲労の限界を訴えていた。
(……流石に疲れたな)
荒い息を整えながら玄関へ向かうと、そこにはベルナデッタが待っていた。彼女はクズノハの小さな姿を見つけると、安堵の表情で駆け寄ってくる。
「ああ、クズノハちゃん! お帰り。ガラムに届けてくれてありがとうねぇ、助かったよ。これ、少ないけどお婆ちゃんからのお礼だよ」
差し出されたのは、数枚の銅貨だった。
クズノハはそれを受け取るべく、小さな手を伸ばした。
金属の冷たい質感が指先に触れる瞬間、それは光の粒子となって消滅し、クズノハの視界の右隅に、半透明の通知ウィンドウがポップアップした。
【所持金:5,015(+15)】
クズノハの動きが、一瞬だけ止まる。
(……5,000。全プレイヤー共通の初期支給資金の存在を忘れていたな……。仕様書の読み飛ばしという、エンジニアにあるまじき失態だ)
クズノハは無表情のまま、一秒でそのミスを仕様の見落としとして処理した。
(だが、この5,000は死に金ではない。情報収集を加速させるためのブースト・リソースに転用する。ターゲットは予定通り教会。未解析データの宝庫だ)
予期せぬバッファの出現。彼女は、冷静に自身の計画に組み込んだ。
クズノハはベルナデッタに一礼し、呼吸を調えてから村の中央へと歩みを向けた。
とてとてという頼りない足取りで、村の中央に位置する石造りの会堂へ。重厚な扉を押し開けると、そこには静謐な空間と、祭壇の前で祈りを捧げる一人の男がいた。この教会の神父である。
クズノハは神父の視線を無視し、壁際に並ぶ書架へと直行した。背伸びをして一冊の古書を抜き取り、ページを捲る。だが、その瞳に映るのは、不自然に歪み、意味をなさない記号の羅列だった。
(……言語ロック。大陸文字スキル未取得による、動的描画の制限か。やはり外部ノードからのパッチ当てが必要か)
背後で、棚を整理していた神父がこちらに気づき、息を呑む音が聞こえた。彼は深く跪き、壊れ物を扱うような手つきで、クズノハの視線の高さに合わせて寄り添った。
「……クズノハ様。……あぁ……今はまだ、無理をなさらずとも良いのですよ」
神父の瞳には、慈愛と、そして彼女が背負っているであろう凄惨な運命への畏怖が滲んでいた。彼は、クズノハが手に取った難解な古書をそっと預かり、代わりに一冊の絵本を差し出した。
「まずは、こちらから……。あなたの歩んできた過酷な道に、少しでも穏やかな光が灯りますように」
神父が差し出したのは、北方大陸をかつて統治していたという一族の物語。クズノハはそれを入門用ライブラリと定義し、神父の読み上げに合わせて文字をなぞり始めた。
北方大陸文字スキルの習得プロセス。だが、ここで計算違いが生じる。
(……遅い。パターンの抽出と変換が、想定の数倍は遅延している。知力ステータスを極限まで削った弊害が、これほどの実効速度の低下を招くとは……)
三歳児の脳は、新しい情報を処理するたびに熱を持つように重くなる。夕刻、窓からの光が橙色に染まる頃、ようやく断片的な文字が意味を結び始めた。
(……この処理ロジック……そう言えば、後輩の担当だったか)
クズノハは絵本をなぞる手を止め、ふと窓の外へと視線を投げた。
(文字数可変によるレイアウト崩れを防ぐための、再計算ループ。後輩の奴、リリース直前に泣きついてきたが……俺は『鬱陶しい!これで何とかしろ』と、最短経路の修正コードを一文だけコンソールに叩き込んで立ち去ったんだったか……)
自分が渡したあの「一行」が、今、この不自由な言語変換システムを支えている。
まさか、かつて自分が最適化してやった仕様の壁に、今、低スペックな幼児の肉体で苦しめられることになろうとは。
(……あの時、せめてあと数行、コメントアウトでも残してやれば良かったかもしれんな)
その横顔。
夕日に照らされた銀色の髪と、感情を排した瞳に宿る、奇妙に達観した自省の光。
その姿を、静かに背後で神父は見守っていた……。
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祭壇の前で膝をつきながら、神父は背後に漂う気配を、震えるような思いで感じ取っていた。
(……ああ、主よ。この子は……地獄の淵から戻ったばかりだというのに。……もう、自らの足で歩き、こうして知を求めておられる)
神父の脳裏には、二日前に目にした凄惨な光景が焼き付いて離れない。
三歳児の柔らかな肌には似つかわしくない、泥と血に汚れた指先。生き延びるためだけに研ぎ澄まされた、呪わしいまでのスキルの数々。
あの鑑定の石碑が吐き出した無機質な文字列は、この幼子が歩んできた道がいかに冷酷で、孤独な闘争であったかを神父の心に刻みつけていた。
(この子は……一度も抱き上げられることも、誰かに読み聞かせてもらうこともなく、ただ牙を剥き、気配を殺して、ここまで這いつくばってきたのだ……)
クズノハが書架の前で立ち尽くす姿を見て、神父はたまらず跪いた。彼女に難解な経典を読ませたいわけではない。ただ、あの泥だらけの指先が、今は牙を隠すためではなく、穏やかな紙の感触に触れている。その事実に、神父は救いを感じていたのだ。
「……まずは、こちらから。……あなたの歩んできた過酷な道に、少しでも穏やかな光が灯りますように」
手渡したのは、自身が大切に保管していた北方大陸の古い絵本だった。辺境のこの教会には、贅沢な蔵書などない。あるのは古びた聖書と、神父が私的に収集した数少ない物語だけだ。
クズノハが静かに椅子に座り、ページをなぞり始める。
神父は隣に座り、クズノハが開いたページを読み上げながら、優しく見守っていた。
(あぁ……なんと賢明で、なんと痛ましい集中力か。……この子は、取り戻そうとしているのだ。逃げるために捨てざるを得なかった、人としての言葉を。奪われていたはずの、安らかな時間を……)
数時間が経過した。窓から差し込む陽光が橙色に染まり、静寂が聖堂を包む。
不意に、クズノハがなぞっていた指を止め、窓の外へと視線を投げた。
神父の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
その銀色の髪を夕日が透かし、無表情な横顔に宿った幽かな陰り。
神父の目には、それが「言葉を覚えたことで、鮮明に蘇ってしまった凄惨な過去の光景」に耐えている姿に見えた。あるいは、かつていたであろう故郷の大空を、手の届かぬ場所として見つめている哀切に。
(……まだ、恐ろしいのか。言葉を覚えるほどに、あの地獄の記憶が君を追いかけてくるというのか)
神父は決意した。
この子に、これ以上の戦いは不要だ。鋭い爪も、隠密の術も、二度と使わせてはならない。
「……クズノハ様。……こちらへ」
神父は彼女を、聖堂の奥にある小さな個室へと導いた。
そこは、彼自身の私物や、繕いかけの聖書が置かれた、教会で最も陽当たりの良い、ささやかな書斎だった。
「ここは……誰にも邪魔されない場所です。私の古い蔵書しかありませんが、好きな時に、好きなだけ、ここで本をお読みなさい。……もう、誰からも逃げる必要はありません。……ここが、あなたの聖域です」
神父は、祈るような手つきで彼女の小さな肩に触れた。
豪華な装飾も、万巻の書物もない。だが、この辺境の小さな一室が、彼女を外の世界から守るための、最も優しい檻になることを神父は願った。
(……もういい。もういいのですよ。……ここで、ただの子供に戻りなさい。……私が、命に代えてもこの安らぎを守り抜きますから)
神父の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
夕闇が迫る中、神父は自分のすべてを投げ打ってでも、この壊れ物を預かるような慈愛を貫き通すことを、主に誓っていた。
(次に来た時のために、お菓子を用意しておきましょう。少しでも穏やかな時をすごせますように……)




