9話 隣人への行軍
教会に行った翌日。クズノハは思考を巡らせていた。
(今は理想の狐にはなれない……業腹ではあるが、これは認めよう……。ならば、次はどうするべきなのか?狐になるためのメソッドを考えなければな……)
そんな真剣な彼女の後ろ姿を見ていた老婆――――ハルは家の台所で、クズノハに重大なミッションを課すことにした。
それは、ふかしたばかりの芋が入った小籠を、隣の家へ届けるというお使いだった。
「クズノハちゃん、これをお隣のベルナデッタさんに届けておくれ」
クズノハは無言で籠を受け取った。
三歳児の細い腕には、数個の芋の重みさえ、自ら設計した高精度な物理演算によって過酷な負荷として伝わる。
(……この重み。今の肉体スペックでは限界に近いが、これは基礎体力を鍛えるタスクとして使えるな)
行動によって能力値が微増する仕様は確認済みだ。彼女は重心移動に全神経を集中させ、一歩ずつ砂利道を踏みしめた。
隣家までわずか数十歩。だが彼女にとっては、自らが課した物理法則との死闘だった。腕を震わせ、重力に抗いながら、ようやく隣家の門をくぐった。
「あら、あら……あなたがクズノハちゃんね! 一人で持ってきたの?」
噂の幼子を目にした隣家に暮らす、背の低い老婆――ベルナデッタが驚いて駆け寄ってくる。
クズノハは、限界まで震える腕で籠を差し出した。
(タスク、完了。……スタミナの消費が激しいな。非効率的だが、これも修行だ)
達成感に浸るクズノハを、ベルナデッタは慈愛に満ちた瞳で見つめ、それから不思議そうに小首を傾げた。
「おや、おや……。クズノハちゃん、見ておいで。こうすれば、重くないんだよ?」
ベルナデッタが籠を指でなでる。
瞬間、半透明のウィンドウが現れ、籠が吸い込まれるように消えていった。
(…………は?)
彼女の思考が、一瞬でフリーズした。
インベントリ。アイテムの質量をシステム的に無視する、最も基礎的なゲーム仕様。物理演算のリアリティに拘泥するあまり、その存在を完全に失念していた。
「さあ、お礼にお菓子をあげようね。次はこれに入れてお帰り。念じるだけでいいんだよ?」
渡された紙包みのクッキーを念じると、手元から「質量」が消え、視界の隅に『手作りクッキー:1』のログが虚しく灯った。
(……軽い。今まで俺が格闘していた時間は、一体何だったんだ……)
完璧だと信じていた物理の法が、村の老婆が教える初心者ガイドに完敗した。
クズノハはトボトボと、重さを感じない足取りで帰路についた。「これも基礎体力の成長には寄与したはずだ」と、自身を慰めながら。
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ハルは、台所の窓から、庭先をよちよちと歩き、左右に振れる銀色の尻尾をじっと見守っていた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような愛おしさと、痛ましさで満たされる。
「ああ、あんなに一生懸命に……」
籠を抱える少女の腕は、ぷるぷると震えている。ハルは何度も手を貸そうとしたが、そのたびに思い止まった。あの子の目に宿る強い意志を、無下にしたくはなかったのだ。
少女の腕は、目に見えてぷるぷると震えている。
一歩進むごとに、細い足が砂利を踏みしめ、全身でバランスを取ろうと必死に足掻いている。
その姿は、ハルの目には、過酷な過去を振り切り、自らの力で人生の一歩を踏み出そうとする、彼女の強さを見ているような気がした。
(この子は、誰かに頼る方法を知らないんだねぇ……。独りきりで泥を啜り、歩き続けてきたお前さんにとって、自分の力で成し遂げることだけが、唯一の縋り代なんだね……)
ハルにできるのは、ただ見守ること。もしその体が力尽きそうになった時だけ、出来るだけの速さで駆け寄り、その体を抱きとめる準備を整えることだけだった。
「……おや」
ふと見れば、隣のベルナデッタが庭に出てきた。
彼女はクズノハの健気な姿に感極まった様子で駆け寄り、そして、『インベントリ』の使い方を教えていた。
「ベルナデッタさん、お節介が過ぎるよ……」
ハルは苦笑した。あの子は、その不自由さすらも、自らの足で乗り越えようとしていたというのに。
だが、戻ってきたクズノハの顔を見て、ハルは胸を突かれた。
少女は魂が抜けたような顔で、自分の小さな手を見つめて立ち尽くしていたのだ。
(ああ、そうか……。便利な力に触れて、ショックを受けてしまったんだね。自分の足で歩く尊さを知っているお前さんにとって、魔法のような仕掛けは、かえってこれまでの努力を虚しくさせてしまったのかい?)
ハルは、そっとクズノハの肩に手を置いた。
「いいんだよ、クズノハちゃん。便利なものは使えばいい。でもね、お婆ちゃんはお前さんが一生懸命に運んでくれた、あの籠の重さを、一生忘れないからね……」
少女は力なく頷いたように見えた。
ゆっくりでいい。人を頼り、温もりを受け入れられるようになればいい。いつかその心の傷が癒える日まで、この静かな箱庭で、何度でも見守り続けようとハルは心に誓った……。




