8話 慈悲の鎖、善意の檻(老婆視点)
老婆の差し出した粥が、少女の凍てついた臓腑をどうにか繋ぎ止めていた。
一晩の眠りを経て、少女はわずかに体力を取り戻したようにも見えたが、その瞳は依然として虚無を宿したままである。瞬きさえ少なく、一点を凝視し続けるその姿は、子供らしい情緒が完膚なきまでに破壊された生存者のそれであった。
老婆は、力なく歩く少女の手を引き、教会の門を叩いた。
現れた神父は、その子の容姿と、泥にまみれながらも隠しきれない装束の気品を目にした瞬間、驚愕に目を見開いた。
「神父様、この子を……せめて、親御さんの手がかりだけでも」
神父は深く頷き、二人を教会の中へと促した。静謐な空気の中、鑑定の石碑が起動し、少女の情報を無機質な文字列として吐き出す。
それを見た瞬間、神父は喘ぐような声を上げ、その場に膝をついた。
「……神よ、なんという地獄を。……なんという過酷な道を、この子は辿ってきたというのか」
石碑が刻み出したのは、三歳児という年齢にはあまりに凄惨な、生存のみに特化した変異の記録だった。
「ハルさん……この子の身体能力を見てください。一体、どうなっているんだ。知性や情緒が育つ間もなく、ただ逃げるために、生き延びるためだけに……その身を削り、研ぎ澄まされてきたというのか……」
神父の震える指が、空中に浮かぶスキルの羅列をなぞる。身体能力以上に彼の心を締め付けたのは、そこに並ぶ【スキル】の数々だった。
「……ここを見てください。……おそらくこの子は、どこかに閉じ込められていたのか、暗殺者に狙われていたのか……どちらにしても人の目を盗み、戦う手段が無い幼子が時には【不意打ち】をして【噛みつき】をする事で逃げる隙を作り、自身を探す相手からは【隠密】により気配を殺すことが必要だったはずなのです」
神父の脳内で、バラバラの能力が一つの凄惨な逃走劇として繋がっていく。
「人に追われ夜の山林を彷徨ううちに【夜目】が開き、方向を見失う恐怖の中で【磁気感知】が芽生えた。……そして極寒の地を越えるために、自ら穴を掘ってその中に身を隠し、寒さを凌いできたのでしょう。そうして心と声を凍りつかせ、この【寒冷適応】を得るに至った。更には【病気耐性】まで……そして、この【強健な足腰】……」
神父は、震える手で少女の細い足首をそっと包み込んだ。
「……ハルさん。この子は、一度も抱き上げられることもなく、ただ自らの足だけで……ここまで、歩いてきたのですな」
神父の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
老婆は、少女の泥だらけの手を握りしめ、嗚咽を漏らした。
美しい指先の爪は削れ、その隙間には、逃げる時に木を登ろうとした際のものだろうか、どす黒い木屑が化石のように深く食い込んでいる。
「ハルさん、落ち着いて聞いてください」
神父は少女を抱く老婆に、誰にも聞こえぬほどの囁き声で告げた。
「この子の存在を、決して村の外へ漏らしてはなりません。……この子が誰であるか、私には想像がつきます。もし知れれば、この村は戦火に包まれるでしょう」
老婆の顔から血の気が引いた。彼女は少女を、壊れ物を扱うように強く、強く抱きしめた。
その間、少女の顔には何の感情も浮かばない。
「……ああ、お前さん。こんなになるまで、独りで。……もういい、もういいんだよ。お前さんの地獄の旅は、ここで終わったんだ」
老婆は、重く湿った少女の和装を案じた。
「……まずは、この服を着替えさせようねぇ。こんなに冷えて、重くなって……。神父様、村の娘たちが使っていた予備の服を。……この子に、温もりを」
神父が持ってきたのは、麻と綿で編まれた、質素だが清潔な村の子供服だった。
老婆は教会の隅で、冷えないように手早く、かつ祈るような手つきで少女の和装を解いていく。
脱がされた和装には、雪と泥、そして少女が必死に縋り付いたであろう森の匂いが染み付いていた。
少女は一言も発さず、抵抗もせず、ただ新しい綿入れの服に包まれてた。
老婆は、少女が服に首を通した刹那、その逃亡の証拠とも言える豪華な布地を、決然と自身の『インベントリ』に収納した。
吸い込まれるように、和装が不可侵の亜空間へと消えていく。過酷な過去が、少女から見えないように。
「お前さんの過去は、私が守っておくよ。……外に見つかれば、また怖い思いをするからね。誰にも、神父様にさえ、二度と見せはしない。だから、もう忘れておしまい」
その無表情な顔は、神父には「過去を預け、ようやく安らぎを得た虚脱」に見え、老婆には「あまりに重い荷物を下ろした瞬間の沈黙」に見えた。
「この子のことは、村全体で秘匿します。……外には決して漏らしてはならない」
神父の厳命に、老婆は強く頷いた。
豪華な装束は消え、代わりに与えられたのは、素朴な村娘の姿と守られるべき弱者という新たな鎖。
善意と使命感によって、村は一つの強固な「檻」へと変貌した。




