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魂の摩耗と、白銀の憧憬

 佐藤健一、三十八歳。

 二十年間、彼は「人間」という名の機械の部品として、灰色の都会を回り続けてきた。

 幼い頃から周囲に馴染めず、群れることを強要する社会は、彼にとって呼吸さえ困難な檻に過ぎなかった。人間関係という不確かで泥濘ぬかるみのような繋がり。互いに本音を殺して嘘を重ねる日々。

 そんな彼の精神を唯一繋ぎ止めていたのは、帰宅後の薄暗い自室で眺める野生の狐の映像だった。画面の中で雪原を駆ける、一本の白銀の残像。それは誰にも媚びず、誰にも依存せず、ただ生存の本能のみに従って孤高を貫く、完璧な生命の象徴だった。


「……ああ、なんと美しい」


 それは、狂おしいほどの憧憬であった。


 汚泥に塗れた自分とは正反対の、汚れなき白銀の毛並み。言葉という嘘を持たぬ、清冽な沈黙。彼にとって狐は、魂が焦がれる聖域であり、神話であった。「あの静寂の中で、俺自身が狐として生を全うしたい」という祈りにも似た渇望は、二十年という月日を経て、純粋な狂気へと熟成されていった。


 しかし、佐藤はただ夢を見るだけの空想家ではなかった。彼は「狐になる」という目的を達成するためだけに、二十年間、自身の知性を人間社会のルールを逆手に取ったハッキングに注ぎ込んだ。


 彼は昼間、次世代フルダイブRPG『エテニウム』の基幹となる物理演算エンジンのシニア・プログラマーとして、自らが移住するための究極の器を設計し続けた。獣の毛並み一本一本に独立した慣性を持たせ、濡れた鼻先を抜ける風の熱量まで再現するモジュールを組み上げたのは、他ならぬ彼自身である。

 そして夜、彼は一切の娯楽を断ち、自室のマルチモニターに走る数千行のコードを凝視していた。それは、株式市場の微細な歪みを検知し、瞬時に利益を掠め取る独自のアルゴリズムだ。

 退職を目前に控えたある夜、彼はモニターに表示された最終残高を無表情に確認した。そこには、数え切れないほどの「0」が並んでいた。


「……これで、俺の寿命が尽きるまで外部からの干渉を受けずに済む」


 彼は淡々と、自作の管理AIに最後の指示を打ち込んだ。その巨万の資産を複数の法人に分散し、自身の生命活動が続く限り、施設の維持費や電気代、そして生命維持に必要な物資の自動発注を永久にループし続けるためのプログラムだ。

 ついに、全コードがコンパイルされた。

 佐藤は二十年分の重荷を降ろすように、静かに退職願を鞄に収めた。


「これでいい。俺は人間社会というゲームをクリアしたのだ。……解放の時だ!」

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