「濾過する都市」
その男、神田淳の人生は、乾いていた。
東京という巨大な海綿都市の、無数の気孔の一つに過ぎない安アパートで眠り、満員電車という澱んだ毛細血管を流れ、霞が関の巨大なオフィスビルという無機質な臓器の一細胞として機能し、そして再び同じ経路を辿って気孔へと帰る。日々繰り返されるそのサイクルは、生命活動というよりは、むしろ緩慢な脱水作用に酷似していた。感情も、思考も、かつて抱いていたはずの夢さえも、アスファルトとコンクリートが吐き出す乾燥した大気に晒され、気づかぬうちに蒸発していく。
彼の内側に残されているのは、漠然とした渇きと、自分が今ここに「存在する」という事実に対する、時折訪れる希薄な実感だけだった。
三十五歳。独身。友人と呼べる人間は、大学卒業以来、指で数えるほどもいない。最後に誰かと心から笑い合ったのはいつのことだったか、思い出そうとしても、その記憶の表面はひび割れている。故郷の親とは、年に数度の事務的な電話を交わすのみ。互いの生存を確認するだけの、儀礼的な通信。彼の世界は、職場のデスクと、コンビニの弁当と、アパートの六畳一間の三点で構成されていた。その硬直した三角形の内側で、彼は呼吸をし、食事をし、眠った。それ以外の行為は、彼の人生の誤差に過ぎなかった。
彼のデスクの隅には、彼自身にも由来の分からぬ、いくつかの小さな石が置かれていた。河原で拾ったのか、旅先で買ったのか、記憶は定かではない。ただ、その滑らかな手触りと、無機質な沈黙が、彼のささくれた精神をわずかに慰撫する気がして、いつからかそこに鎮座させていた。角の取れた、灰色のチャート。微細な水晶の結晶が光る、掌サイズの御影石。彼は時折、無意識にその冷たい石を指でなぞる。それは、彼の乾ききった日常における、唯一の、意味を持たない行為だった。
異変の兆候は、ありふれた日常の風景に、濾紙に落ちたインクの染みのように、ごく微かに、しかし確実に現れ始めた。
最初に気づいたのは、そのデスクの上に置かれたペットボトルの水だった。五百ミリリットルの、どこにでも売っているミネラルウォーター。彼はそれを午前中に一本、午後に一本消費するのが常であった。だが、ある頃から、水の減りが異常に早い。昼休み前にデスクに戻ると、朝に封を切ったばかりのボトルが、もう半分近く空になっている。誰かが飲んでいるのか。馬鹿な。彼の部署は、他人の持ち物に無断で手を出すような人間がいる雰囲気ではない。それに、もしそうなら、一度や二度ではないのだ。まるで、彼の見ていない隙に、水が自らその体積を減らしているかのようだ。あるいは、ペットボトルそのものが、内側から水を貪っているような、気味の悪い粘性を伴った想像が頭をよぎり、彼は喉の奥にざらりとした感触を覚えた。
気のせいだ。彼は首を振り、その感覚を打ち消した。疲れている。連日の残業と、代わり映えのしない日々に、精神が摩耗しているに違いない。大学時代、一つの数理モデルの美しさに取り憑かれ、三日三晩研究室に籠り続けたことがあった。あの時も、世界の輪郭が歪んで見えた。あの頃の執着は、今や跡形もない。彼はそう結論づけ、新しいペットボトルのキャップを捻った。プラスチックが軋む乾いた音が、静かなオフィスに小さく響いた。
次に異変を感じたのは、アパートの浴室だった。築三十年を超えるその建物は、至る所に老朽化の痕跡を刻んでいる。タイルの目地の黒ずみ、蛇口の周りの錆、換気扇のか細い呻き。神田はそのすべてに慣れきっていた。だが、その夜、シャワーを浴びていると、背筋を這い上がるような違和感に襲われた。肌に当たる湯の感触が、いつもと違う。熱いとか、冷たいとか、そういう次元の問題ではない。もっと根源的な、構造的な違和感だ。水滴の一粒一粒が、彼の皮膚を透過し、直接内側へと染み込んでくる。彼の存在の境界線を、無数の小さな楔が打ち破ろうとしている。目を閉じると、自身の肉体が、徐々に水に溶解していくイメージが網膜に焼き付いた。
彼は喘ぐようにしてシャワーを止めた。心臓が肋骨を激しく打ち、呼吸が浅くなる。鏡に映った自分の姿は、いつもと同じ、少し疲れの見える三十代半ばの男の顔だった。輪郭が揺らいで見えたのは、湯気と、そして己の動揺のせいだろう。彼はタオルで乱暴に体を拭きながら、自嘲気味に息を吐いた。どうかしている。完全に。
だが、違和感は消えなかった。それどころか、それは神田の日常のあらゆる水域へと、その領域を静かに、しかし着実に広げていった。朝の洗顔で触れる水は、彼の顔の皮膚を薄く削ぎ落していくような鋭利な冷たさを帯びていた。昼食に飲む味噌汁の湯気は、彼の視界を曖昧にぼかし、世界の確固たる輪郭を奪っていくように感じられた。
ある雨の日、彼は駅のホームで電車を待っていた。降りしきる雨は、アスファルトを黒く濡らし、無数の小さな水たまりを作っていた。彼はふと、その水たまりの一つに目を留めた。そこに映っていたのは、灰色の空と、駅の屋根の鉄骨、そして、そこにいるはずの自分の姿だけが、なぜか靄がかかったように不鮮明だった。まるで、雨水が彼の像を正確に結ぶことを、物理的に拒んでいるかのようだった。
彼は瞬きをし、もう一度見た。今度は、いつも通りの、くたびれたスーツ姿の自分が映っている。やはり気のせいだったのか。だが、彼の内側で、乾いた土に水が染み込むように、じわりと恐怖が広がっていた。それは、幽霊や怪物といった、明確な形を持つ恐怖ではない。もっと捉えどころのない、自分という存在そのものが、この確かなはずの世界から、少しずつ滑り落ちていくような、実存的な不安。
彼は、自分が巨大な濾過装置にかけられているような感覚に囚われた。都市という名の、巨大で冷徹な装置に。そして、その濾材となっているのは、彼が毎日触れ、飲み、浴びている、「水」なのではないか。
そんな馬鹿なことがあるはずはない。神田は何度も自分に言い聞かせた。人間は水なしでは生きられない。生命の源だ。それが、存在を脅かす毒になど、なるはずがない。
その週末、向かいのアパートに住んでいた若い女性が、姿を消した。
向かいのアパートの二〇三号室。そこに、若い女性が一人で住んでいた。神田は彼女の名前も、職業も知らなかった。ただ、時折ベランダで洗濯物を干す姿や、コンビニの袋を提げて階段を上がっていく姿を、自室の窓から見かけるだけだった。細身で、長い黒髪で、いつもイヤホンをつけている。彼女と神田の世界が交差することは、これまで一度もなかったし、これからもないはずだった。
彼女の失踪は、異臭騒ぎから発覚した。夏を間近に控えた、湿度の高い日のことだった。アパートの廊下に、生ゴミが腐ったような、それでいて化学的な、甘く鼻を突く匂いが立ち込めた。住人たちが顔をしかめ、誰かの部屋からだろうと囁き合っているうちに、匂いの発生源が二〇三号室であることが特定された。管理会社が呼び出され、警察官が数名やってきた。神田は、自室のドアのスコープから、その一部始終を、息を殺して窺っていた。
警察官が何度かドアをノックし、声をかけたが、返事はない。やがて、管理人が鍵を開け、彼らが部屋の中へと入っていった。しばらくして、部屋から出てきた警官の一人が、訝しげな顔で同僚と何かを話している。神田の耳には、断片的な言葉だけが届いた。
「……不在だ。ただ……妙な匂いだ」 「腐敗物のようなものは?」 「いや、それが何もない。食い物も、ゴミも、特に異常はない。ただ……部屋全体が、ひどく湿っている」
部屋全体が、ひどく湿っている? 神田はその言葉に、心臓が冷たくなるのを感じた。
結局、その日、二〇三号室からは何も発見されなかった。異臭の原因も不明。そして、部屋の住人である女性は、それきり戻ってこなかった。職場にも、実家にも連絡はなく、まるで煙のように消えてしまった。警察は事件と事故の両面で捜査を開始したが、捜査は難航しているようだった。部屋には争った形跡も、外部から侵入された痕跡もなかった。彼女の財布も携帯電話も、部屋に残されたままだったという。
数日が過ぎ、アパートの廊下から異臭は消えた。住人たちの噂話も、次第に日常の喧騒にかき消されていった。だが、神田だけは、二〇三号室のドアを見るたびに、あの警官の言葉を思い出していた。「部屋全体が、ひどく湿っている」。それは一体、どういうことだったのだろうか。
その数日後、神田は奇妙な夢を見た。彼は二〇三号室の前に立っている。ドアは半開きになっていて、中から例の甘い腐臭が、ぬるりとした舌のように漏れ出してくる。彼は、何かに引かれるように、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は、薄暗く、そして異様に静かだった。ワンルームの簡素な部屋。小さなベッド、ローテーブル、服が数枚かかったハンガーラック。それら全てが、湿気を吸ってぐっしょりと重く、本来の形を失いかけている。壁紙はところどころ水膨れのように膨れ上がり、そこから筋を描いて流れ落ちる水滴は、透明ではなく、僅かに黄色く濁っていた。床には、浅い水たまりができていた。異臭の源は、間違いなくこの水たまりから発せられている。
彼は恐る恐る、その水たまりに近づいた。水面には、天井の照明がぼんやりと映っている。彼は、そこに自分の顔が映り込むのを避けようと、身を屈めた。すると、水たまりの底で、何かがゆらりと揺れた。
水草ではない。それは、黒く長い、人間の髪の毛だった。 一本ではない。無数の黒髪が、水底で、まるで独自の生命を得たかのように蠢いている。そして、目を凝らすと、水の中に溶け込んだ細かな皮膚の断片や、爪のかけららしきものが、光を反射してきらきらと舞っていた。それは、一人の人間が、この水たまりの中でゆっくりと分解され、均質な溶液へと変えられていく過程の、残骸だった。
神田は悲鳴を上げようとしたが、喉がひきつって音にならない。彼の体は金縛りにあったように動かない。水たまりの水位が、ゆっくりと上がってくる。じわり、じわりと、彼の靴を濡らし、足首を浸していく。その水は、氷のように冷たいのに、彼の皮膚を焼くように熱い。彼の存在そのものを、その分子構造から分解し、溶かしてしまおうとするかのように。
そこで彼は、目を覚ました。
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。心臓は、胸を突き破らんばかりに激しく鼓動している。彼はベッドから転がり落ちるようにして、キッチンの水道へと向かった。喉が焼けつくように渇いている。しかし、蛇口に手を伸ばした瞬間、夢の中の光景が、網膜の裏側で激しくフラッシュバックした。黄色く濁った水。水草のように揺れる黒髪。
彼は、蛇口を捻ることができなかった。
その日から、神田の「水」に対する恐怖は、決定的なものとなった。彼はペットボトルの水を飲むことをやめた。食事は、水分の少ないパンやクラッカーで済ませた。風呂に入ることも恐ろしくなり、熱いタオルで体を拭くだけで我慢した。彼の体からは、汗と皮脂の匂いが立ち上り始めたが、そんなことはどうでもよかった。生き延びるためには、水を避けなければならない。その確信だけが、彼の行動を支配していた。
もちろん、そんな生活が長く続くはずはなかった。数日もすると、彼の体は脱水症状の兆候を示し始めた。ひどい頭痛、めまい、そして絶え間ない渇き。意識は朦朧とし、思考はまとまらない。彼は、自分が正気と狂気の境界線を、危うい足取りで歩いていることを自覚していた。
だが、彼が狂っているわけではないことを証明するような出来事が、再び起こった。
失踪した二〇三号室の女性について、アパートの住人たちの記憶が、急速に、そして完全に消去され始めているのだ。事件の直後は、誰もが彼女の噂をしていた。「そういえば、最近見かけなかったわね」「どんな人だったかしら」「たしか、背の高い、モデルさんみたいな人じゃなかった?」。そんな会話が交わされていたはずだった。神田は、自分の手帳に、事件の日付と「二〇三号室、異臭、警官」というメモを書きつけていた。それは、彼の狂気を疑う自身にとっての、唯一の錨だった。
一週間後、神田は勇気を出し、隣の部屋の主婦に尋ねた。「二〇三号室の件、その後何か分かりましたか」。すると、彼女はきょとんとした顔で、「二〇三号室? 何かありましたっけ?」と答えたのだ。
「いえ、ほら、一週間ほど前に女性が……警察も来て……」 「さあ……。あの部屋、ずっと空き家じゃなかったかしら。前の人が出て行ってから、もう半年は経つでしょう?」
そんなはずはない。神田は愕然とした。彼はしつこく食い下がろうとしたが、主婦は気味の悪いものでも見るような目で彼を一瞥し、そそくさと家の中に入ってしまった。
他の住人にも聞いてみた。だが、反応は同じだった。誰も、二〇三号室に最近まで女性が住んでいたことを覚えていない。それどころか、異臭騒ぎや、警察が来たことさえ、彼らの記憶からは綺麗さっぱり消え去っていた。
神田は自分の部屋に戻り、震える手でインターネットを開いた。地域のニュースサイトを検索する。あの日、事件として報道されていたはずだ。だが、いくらキーワードを変えて検索しても、該当する記事は一つもヒットしなかった。キャッシュも、アーカイブも、すべてが白紙だった。まるで、巨大な消しゴムが、社会の記録から彼女の存在を抹消したかのようだ。
消えている。彼女の存在そのものが、人々の記憶から、社会の記録から、蒸発してしまっているのだ。
あの部屋に残された、財布も、携帯電話も、家具も、そしてあの夢で見た黒髪も、すべてはどこへ消えたのだろう。いや、あるいは、それらもまた、湿った空気の中に溶けて、跡形もなく消え去ってしまったのではないか。
神田は、自分の喉がカラカラに乾いているのを感じた。しかし、彼を満たすべき水は、この世界のどこにも存在しないように思えた。彼が口にできるのは、乾ききった空気と、じわりと広がる恐怖だけだった。そして、彼は理解した。手帳に記された、か細いインクの文字だけが、彼の正気を繋ぎとめている。そして、次の番は、自分なのかもしれない、と。
水を断つ生活は、神田の心身を確実に、そして静かに蝕んでいった。彼の肌は潤いを失い、鱗のようにカサカサになった。唇は切れ、眼球は乾き、瞬きをするたびに熱い砂が擦れるような痛みが走った。思考は常に霧がかかったようで、単純な計算さえままならない。会社では、ミスを連発した。上司の叱責の声は、分厚いガラスを隔てているかのように遠く、その意味を理解する前に、彼の意識の表面を滑り落ちていった。
「神田くん、最近どうしたんだ。集中力が散漫になっているぞ」
上司の眉間に刻まれた深い皺が、まるで乾いた大地に走る亀裂のように見えた。神田は何か答えようとしたが、乾いた舌が上顎に張り付いて、うまく言葉にならない。
「……申し訳、ありません」
かろうじて絞り出した声は、ひどくかすれていた。上司は、呆れたような、それでいて少し心配するような目で彼を見つめ、溜息をついた。
「少し、休んだ方がいいんじゃないか。顔色がひどいぞ」
神田は、その提案を拒否した。休むわけにはいかない。一人きりのアパートに籠っていれば、否応なく「水」と対峙させられる。蛇口、トイレ、そして、いつの間にか壁に浮き出ている正体不明の染み。会社にいる方が、まだましだった。ここでは、無数の他人の視線が、彼の存在の輪郭をかろうじて繋ぎ止めてくれているような気がしたからだ。
だが、その頼みの綱である他人の視線もまた、徐々に彼を捉えなくなっていった。
最初は、些細なことだった。エレベーターに乗ろうとした時、中にいた同僚が、彼に気づかずに「閉」のボタンを押した。ドアが閉まる寸前、神田は慌てて手を入れた。同僚は、「あ、ごめん、いるのに気づかなかった」と悪びれずに言った。
またある時は、給湯室で、後から来た女性社員が、彼がそこにいないかのように、すぐ目の前のシュガースティックに手を伸ばした。彼女の腕が、神田の胸をすり抜けていくかのような錯覚に、彼は思わず身を引いた。女性社員は、彼の存在にようやく気づき、「すみません」と小さく会釈して去っていった。
これらは偶然ではない。彼の存在感が、彼の内面の渇きと正確に比例するように、希薄になっているのだ。恐怖は、確信へと変わっていった。
その日の午後、彼は重要な会議に出席していた。彼が担当するプロジェクトの中間報告。分厚い資料をめくり、スクリーンに映し出されたグラフを指し示しながら、彼は必死で説明を続けた。だが、会議室の空気は、妙に弛緩していた。役員の一人は、あからさまに欠伸を噛み殺している。他のメンバーも、手元の資料に視線を落としたまま、誰も彼の方を見ようとしない。
彼の声が、誰にも届いていない。彼は、自分が透明な壁に囲まれたサイレントルームで、一人芝居を演じているかのような絶望的な気分に陥った。焦りが、彼の喉をさらに乾かせる。
報告が終わり、質疑応答の時間になった。しかし、誰も手を挙げなかった。シーンと静まり返った会議室で、彼は立ち尽くす。やがて、司会進行役の部長が、困ったように口を開いた。
「えー……他に、何か報告のある者はいるかな?」
神田は耳を疑った。今、自分が報告したばかりではないか。彼は思わず声を上げた。
「あの、部長、ただいま私が……」
しかし、部長は彼の方を見ようともせず、視線を他の部下たちへと巡らせている。神田の声は、会議室の空気に溶けて消えたようだった。彼の隣に座っていた同僚が、小声で彼に囁いた。
「神田、どうしたんだ? お前、さっきから一言も喋ってないじゃないか」
全身の血が、急速に凍りついていくのを感じた。喋って、いなかった? では、先ほどの十分間の報告は、一体何だったのだ。彼の頭の中だけで再生された、幻聴だったとでもいうのか。
会議は、そのまま何事もなかったかのように進行し、終わった。誰も、神田が報告を行わなかったことを咎めなかった。誰も、彼がそこにいたことの意味を問わなかった。彼は、会議室の椅子に座ったまま、動けなかった。彼の存在は、もはやこの場所で意味をなさなくなっていた。彼は、ただの背景と化したのだ。風景に溶け込んだ、人型の染み。
その夜、アパートに帰った彼は、一つの決心をした。このまま無意味に、誰にも知られず消えていくのは、ごめんだ。隣の女と同じように、ただの湿った染みになって終わるわけにはいかない。恐怖は、臨界点を超えると、別の感情へと相転移することがある。彼の内側で、乾ききった大地に火がついたかのような、激しい怒りと、そして学生時代以来忘れていた、あの狂的なまでの執着心が、鎌首をもたげたのだ。
彼は、自分の埃をかぶったデスクトップパソコンの前に座った。調査を始める。しかし、その決意とは裏腹に、彼の指は暗闇の海で虚しく水を掻くだけだった。「存在が薄くなる」「人が自分に気づかない」「水が怖い」。そんなキーワードで検索しても、返ってくるのはオカルトフォーラムの荒唐無稽な書き込みか、統合失調症のセルフチェックリスト、あるいは精神的な不調を訴える悩み相談サイトばかり。情報のノイズが、彼の乾いた眼球を焼いた。一つ一つの書き込みが、お前こそが狂っているのだと、無言で指差しているように思えた。彼は何度も、これは己の精神が生み出した幻覚ではないかと、崩れ落ちそうになる自己認識を必死で繋ぎ止めた。
違う。あの女は、確かにいた。そして、消えた。
彼は思考を切り替えた。主観的な恐怖ではない。客観的な、動かぬ事実から攻める。彼のささくれた記憶に、一つのささやかな事実が棘のように突き刺さっていた。二〇三号室の女性が消える一週間ほど前、このアパートでは、短期間の断水を伴う水道管の点検作業が行われていた。管理組合からの通知に記されていた文面は「老朽化配管の更新に伴う定期メンテナンス」という、ありふれたものだった。だが、あの作業の後からだ。明らかに、水の「手触り」が変わったのは。
これだ。彼は、この一点に全ての可能性を賭けることにした。
それからの数日間、神田は社会の底に沈殿した情報を、浚渫するかのように漁り続けた。寝食は忘れ、喉の渇きは、もはや彼の標準状態となった。彼はまず、あの水道工事を請け負った業者を特定しようと試みた。公共事業の入札記録、地域の建設業界のデータベース、過去の住宅地図。大学時代に培った情報収集能力が、乾いた脳を無理やり回転させる。そして三日目の深夜、彼は一つの企業名にたどり着いた。「多摩治水サービス」。記録によれば、彼の住む地区一帯の、古い水道管のメンテナンスを、この数年にわたって独占的に受注している会社だった。
見つけた。神田の心臓が、久しぶりに高鳴った。巨大な陰謀の、その尻尾を掴んだのかもしれない。企業のウェブサイトは簡素で、ありふれた業務内容が並んでいるだけだった。だが、その背後に何かがあるはずだ。彼は、この会社に関連するあらゆる情報を、執拗に掘り下げていった。元従業員のSNS、業界の評判、過去の訴訟記録。
部屋は、彼の狂気の司令室と化していった。壁には、地区の地図が貼られ、工事が行われた箇所と、ネットで見つけた断片的な失踪者情報が、赤い線で結ばれていく。床には、関連企業の登記簿謄本や、水質に関する化学論文のプリントアウトが、地層のように降り積もっていく。彼は、自分自身の存在が日に日に希薄になっていくのを感じていた。オンラインで注文した食料品の配達員が、彼の部屋の前を何度も通り過ぎ、訝しげに首を捻りながら「該当の部屋が見当たらない」と配達センターに連絡しているのを、ドアスコープ越しに息を殺して見ていた。彼の部屋番号は、配達員の認識から「濾過」されつつあったのだ。
時間は、ない。焦りが、彼の思考をさらに尖らせていく。
そして、調査開始から一週間が経った頃、彼はついに「多摩治水サービス」の決定的な闇を掴んだ、と確信した。数年前に、内部告発によって業務改善命令を受けていたのだ。告発内容は、ずさんな工事と、認可されていない特殊なセラミックフィルターの使用。これだ。このフィルターこそが、水を、人間を溶かす毒に変える元凶に違いない。
神田は、震える手で、その内部告発を行ったという元従業員の連絡先を探し当てた。最後の賭けだった。電話が繋がる。彼は、矢継ぎ早に自分の仮説を語った。水道工事、特殊なフィルター、住民の失踪、そして存在が消えていく恐怖。しかし、電話口の向こうから返ってきたのは、疲弊しきった、体温の感じられない声だった。
「……ああ、その話ですか。もう何年も前に解決した話ですよ。あのフィルターは、確かに無認可でしたが、効果はただの謳い文句だけ。水質への影響は皆無でした。社長がオカルトマニアでね……。私も馬鹿なことに付き合わされたもんです。あなたも、お疲れのようですね。あまり、考えすぎない方がいい」
電話は、一方的に切られた。
神田は、受話器を握りしめたまま、動けなかった。全身から、力が抜けていく。彼が積み上げてきた、緻密で、狂的なまでの仮説の塔が、音を立てて崩れ落ちた。ただの、ありふれた中小企業の、取るに足らない不祥事。陰謀など、どこにも存在しなかった。彼は、貴重な時間を、決定的なまでに浪費してしまったのだ。
絶望が、彼の乾ききった魂を、ひび割れさせる。もう、終わりだ。何の手がかりもない。やがて俺も、あの女のように、誰にも知られず、ただの湿った染みになる。
彼は、床に散らかった無意味な紙の山に、崩れるように突っ伏した。その時、彼の視界の端に、調査の初日にプリントアウトして、すぐに「ノイズ」として打ち捨てた、あのオカルトフォーラムのページが映った。
『この辺、なんかおかしくないか? 幽霊が出るとかじゃなくて、街全体の空気が薄いっていうか……』
狂人の戯言だ。そう思って、目をそらそうとした。だが、彼の脳は、極度の疲労と絶望によって、普段は閉ざされている領域の扉を、半ばこじ開けていた。彼は、その書き込みの下に続く、さらに意味不明なレスポンスに、まるで磁石のように引き寄せられた。
『それはシステムの代謝だよ。過剰なエントロピーの排出。俺たちは濾過されてるんだ』
――代謝。エントロピー。濾過。
その言葉は、彼の脳髄を直接殴りつけた。そうだ。俺は、間違っていた。これは、人間の悪意や陰謀といった、矮小な話ではない。もっと巨大な、人間には理解の及ばない、システムの、法則の話なのだ。
彼は、跳ね起きるようにしてパソコンの前に戻った。そして、数日前に見つけ、あまりの突飛さに無視していた、他の断片的な書き込みを、新たな視点で見直していく。
『最近、水道水の味が変だ。金属っぽいというか……気のせいか?』(××区掲示板、五年前) 『隣の家の人が、いつの間にかいなくなってた。夜逃げでもしたのかな……』(SNSの過去ログ、四年前)
無関係に見えたこれらの叫び。だが、それらの投稿の奥に、奇妙に共通する、学術的で、しかし異様な響きを持つ言葉が、亡霊のように隠れていることを、彼はついに見つけ出した。
「存在論的溶解」 「情報的エントロピーの代謝」
この言葉こそが、暗闇を貫く一条の光だった。神田は、この二つの言葉をキーワードとして、再びネットの深淵へと潜った。すると、今までとは比較にならないほど、情報の精度が上がった。検索結果は、たった一件だけ。漠然とした検索では決して見つけられないようなマニアックな都市工学フォーラムへの、狂気じみた長文の投稿。投稿者のハンドルネームは、なかった。だが、その文章は、神田が今まで見てきた断片的な叫びの集大成であり、理論的な裏付けでもあった。
『都市は生命体である。その代謝機能の核心は、水循環システムに他ならない』 『我々が垂れ流す物理的、情報的エントロピーを、都市はいかに処理しているのか?』 『水は究極の溶媒だ。それは物理的な物質だけでなく、存在論的な情報さえも溶解させるのではないか?』
そして、その投稿の最後に、こう記されていた。 『この仮説を水道局内部で指摘した結果、私は全てを失った。この書き込みも、やがて「濾過」されるだろう。だが、記録は消えても、事実は消えない。私の名は、長峰透』
――長峰 透。
全身の毛が、総毛立った。神田は、震える指でその名前を検索エンジンに打ち込んだ。出てきたのは、数年前に東京都水道局を依願退職したという、一つの事実。神田は、自分と同じ地獄を先に歩き、そしておそらくは飲み込まれていった先駆者の存在を、長い闘争の果てに、ついに突き止めたのだ。
彼は、長峰の最後の居住地を割り出すべく、さらに情報の海へと深く潜っていく。それが、自らの「蒸発」を早める結果になったとしても、もはや引き返すことはできなかった。一度火がついた乾ききった探求は、彼自身を燃やし尽くすまで、もう止まらないのだ。
長峰が住んでいたという一軒家は、神田の住む地区から電車で三十分ほどの、古びた住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。夜の闇に溶け込むように建つその木造家屋は、神田の住処よりもさらに時間を経ているようで、建物の輪郭そのものが曖昧に滲んでいるように見えた。神田は、自分の存在が誰かに感知されることを恐れ、街灯の光が作る影から影へと身を潜めながら、ドアの前に立った。
ドアには、色褪せたプラスチックの表札がかかっていた。「長峰」。その文字は、長い間雨風に晒されたせいか、ところどころ掠れて読みにくくなっている。まるで、この名前の主の存在そのものが、世界から風化しつつあることを示しているかのようだった。
ドアノブに手をかけると、驚くほどあっさりと開いた。鍵がかかっていない。あるいは、もはや鍵をかける意味のあるものが、この部屋には残されていないということなのだろうか。軋む蝶番の音を背中で聞きながら、彼は暗い部屋の中へと滑り込んだ。
鼻を突いたのは、埃と黴が混じり合った、閉塞した匂い。そして、その奥に、微かだが間違いなくあの匂いが潜んでいた。二〇三号室の女性が消えた後に漂っていた、甘ったるい腐臭。それは、生命が腐敗する匂いとは違う。もっと無機質で、化学的な、記憶や存在そのものが分解されていく過程で発せられるような、冒涜的な香り。神田は、乾いた喉でごくりと唾を飲み込んだ。
部屋の中は、予想通り、主の不在を物語っていた。しかし、それは夜逃げや引越しのように、家財道具が運び出された後の空虚さとは異質だった。そこには、生活の痕跡が、あたかもポンペイの遺跡のように、ある瞬間のままの形で化石化して残されていたのだ。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒーカップが置かれている。しかし、中の液体は完全に干上がり、底には黒い染みがこびりついているだけだ。本棚には、水文学や情報科学、量子力学に関する専門書がぎっしりと並んでいたが、その多くが湿気を吸ってページが大きく波打ち、表紙には奇妙な染みが地図のように浮かんでいた。それは、本そのものが、かつて内包していた知識という名の水分を失い、乾涸びてしまったかのようだった。
神田は、スマートフォンのライトを頼りに、部屋の奥へと進んだ。奥の和室の畳は、ところどころ黒く変色し、踏むとじゅっと湿った音を立てた。そして、部屋の中央に、それはあった。
大量の、ペットボトル。
大小様々な、おびただしい数のペットボトルが、部屋の床を埋め尽くしていた。そのすべてに、マジックで几帳面な文字が記されている。「〇月×日、A区浄水場」「△月□日、B給水塔」「雨水(C公園)」「湧き水(D神社)」。長峰は、東京中のあらゆる「水」を収集し、その性質を比較分析しようとしていたのだ。
だが、そのほとんどのボトルは、空だった。あるいは、底の方に僅かな沈殿物が残っているだけ。そして、いくつかのボトルは、内側から高熱で炙られたかのように、ぐにゃりと歪んでいた。ボトルの中の「水」が、自らエネルギーを発して蒸発し、その際に容器そのものを破壊したとでもいうのだろうか。
神田は、その異様な光景に立ち尽くしながら、長峰が辿り着いたであろう絶望を思った。彼は、敵の正体を突き止めようと、その一部を捕獲し続けた。しかし、捕らえたはずの水は、檻の中からやすやすと姿を消し、あざ笑うかのように痕跡だけを残していく。それは、終わりなき徒労。乾きとの、勝ち目のない戦い。
彼は、部屋の隅に置かれた書き物机に目をやった。そこが、この乾涸びた探求の、司令室だったに違いない。机の上には、旧式のワープロが一台と、その周りに散らかった大量の紙の束、そして、一台の顕微鏡が埃をかぶって置かれていた。
神田は、まず紙の束を手に取った。それは、論文の草稿のようだった。タイトルは、「都市システムにおける代謝機能としての水循環と、それに伴う存在論的リスクについて」。神田がネットフォーラムで見た、あの狂気じみた思索の、より詳細な記録。だが、それは学術論文の体裁をなしておらず、数式やグラフの間に、悲鳴のような走り書きが混在していた。
「……この現象は、悪意によるものではない。都市という超有機体が行う、極めて合理的な自己保存本能の発露だ。過剰な人口、無意味な情報の氾濫、希薄化する人間関係――これらはすべて、システムにとっての『エントロピーの増大』に他ならない。都市は、その秩序を維持するため、自らの体液である『水』を用いて、最も効率的にエントロピーを排出する。すなわち、システムへの貢献度が低く、他のノードとの接続が弱い、希薄な存在から順に『濾過』していくのだ……」
「……彼らは『ありふれた』人々だ。社会的に孤立し、代替可能な存在。彼らの消失は、システムにほとんど影響を与えない。むしろ、彼らが消費していたリソースが解放され、システム全体の効率は僅かに向上する。これは、進化の一形態ですらあるのかもしれない。我々ホモ・サピエンスが、自らが作り出した、より高次の生命体に『淘汰』される……」
「……抵抗は無意味だ。水を断てば、我々は物理的に死ぬ。水を摂取すれば、我々は存在論的に『蒸発』する。これは、完全なチェックメイトだ。我々に残された選択肢は、自らの消失を、ただ受け入れることだけ……」
草稿の最後のページは、インクが滲んでほとんど読むことができなかった。まるで、長峰がこれを書いている最中に、彼の目から流れ落ちた涙、あるいは彼の体から滲み出た水分が、その記録そのものを消し去ろうとしたかのようだ。
やはり、ここにあるのは絶望だけか。神田は、その紙束を机に戻そうとした時、一枚の、ひときわ異質な書類に気づいた。それは、長峰自身の健康診断の結果票だった。いくつかの項目に異常値が示されている。だが、神田の目を引いたのは、その隅に書かれた、長峰自身の筆跡による、震えるようなメモだった。
『世界の“手触り”が、変わってしまった。鏡に映る自分が日に日に薄くなる。いや、像が薄いのではない。世界の方が、俺という存在を捉えきれずに、その指先から滑り落とそうとしているのだ。』
『体重は変わらない。だが、この世界における俺の“重さ”が、確実に失われている。世界という水面に浮かぶ、木の葉のように。やがて、風が吹けば、どこかへ飛ばされてしまうだろう。』
神田は息を呑んだ。長峰は、自らの身体が「蒸発」していく過程さえも克明に記録しようとしていたのだ。その狂気じみた探求心に、神田は畏怖に近い感情を覚えた。
次に、彼は顕微鏡のそばに置かれた、一冊の分厚い実験ノートに手を伸ばした。これが、長峰の研究の核心に違いない。ページをめくると、そこには緻密な文字とスケッチが、隙間なくびっしりと書き込まれていた。
長峰は、収集した様々な水を、様々な物質の上で一滴ずつ垂らし、その蒸発の過程と、蒸発後の痕跡を、観察し続けていた。ガラス、プラスチック、金属、植物の葉……。ほとんどの実験結果の欄には、「特異な変化なし」とだけ記されている。
だが、ノートの中盤を過ぎたあたりから、ある特定の物質群に対する実験記録が、異様な熱量を帯びてくる。
『検体:石(奥多摩の河原で採取したチャート)』 『観察記録:蒸発した水滴の跡に、微かな靄のようなものが残る。すぐに消えるが、何度も同じ現象を確認。これは、ただの水垢ではない。何かの“気配”が、石に染み込もうとしているのか?』
『検体:石(古い墓石のかけら、入手経路不明)』 『観察記録:蒸発した水滴の跡が、まるで人の顔のような染みとなって残る。何度拭っても、同じ場所に同じ形の染みが浮かび上がる。この石は、水を“記憶”しているのか? あるいは、水に溶けていた何者かの“記憶”を、吸い寄せているのか?』
ページをめくる神田の手が、恐怖に震え始めた。これは科学の記録などではない。狂気の記録だ。長峰は、論理の対岸にある、禁断の領域に足を踏み入れていたのだ。
ノートの最後のページは、インクが滲み、文字は乱れに乱れていた。
『この石は“乾いて”いる。他の何よりも。だから、水を求める。水に溶けた魂を。』 『媒体転写。水から魂を引き剥がし、石に封じ込める。そのためには、魂が石に惹きつけられるほどの、絶対的な乾きが必要だ。私自身が、石よりも乾いた存在にならなければ……』 『無理だ……もう、意識が……。私の、身体が……水に、還って、いく……』
そこで、記録は途絶えていた。
神田は、実験ノートを握りしめたまま、呆然としていた。科学的な根拠などどこにもない。だが、ここには、科学よりも雄弁な、一つの狂おしい真実が記されていた。長峰は、自らの身をもって、水という絶対的な支配者から逃れるための、一つの呪術的な儀式を完成させようとしていたのだ。
それは、長峰が遺した、バトンだった。絶望的な状況の中で、次なる走者へと託された、か細い希望のバトン。神田は、この狂気の探求者の意志を継ぐことを決意した。それは、論理的な判断というよりは、ほとんど本能的な衝動だった。
彼は、長峰の論文草稿と実験ノートを、震える手でカバンに詰め込んだ。そして、この乾涸びた探求者の墓標のような部屋を、後にした。
アパートの外に出ると、夜空には、病的なほどに白い月が浮かんでいた。その光は、まるで街全体の水分を吸い上げ、天上で凍らせてしまったかのように、冷たく乾いていた。神田は、その月を見上げながら、誓った。
俺は、蒸発しない。この都市の養分になど、なってたまるか。
彼は、最後の賭けに出ることを決意した。それは、自らの実存を賭けた、狂気の実験。都市という巨大な濾過装置に、たった一人で抗うための、乾ききった戦いの始まりだった。
アパートの自室に戻った神田は、外界との接続を自ら断ち切ることから始めた。スマートフォンの電源を落とし、バッテリーを抜く。玄関のドアには内側から鎖をかけ、郵便受けはガムテープで完全に塞いだ。会社からは、おそらく無断欠勤を咎める電話が鳴り続けているだろう。だが、その音はもはや彼の世界には届かない。彼は、社会という巨大なネットワークから自らのノードを切り離し、孤立した島となることを選んだのだ。
彼の計画は、長峰が遺した仮説を、自らの肉体を実験台として証明する、という狂気のそれだった。
第一段階は、「極度の乾燥」。彼は部屋からあらゆる「水」を排除し始めた。キッチンのシンクと浴室の蛇口の元栓を、パイプレンチで固く締め上げる。トイレのタンクに残った水も、雑巾で一滴残らず吸い取った。冷蔵庫の中の飲み物や、湿り気を帯びた食材は、全てゴミ袋に詰め込んだ。かつて彼のささやかな潤いであった観葉植物は、乾ききって茶色く変色し、ミイラのような残骸と化していた。
次に、彼は数日前に手配しておいた中古の工業用乾燥機と、三台の強力な除湿機を部屋の四隅に設置した。スイッチを入れると、機械は獣の咆哮のような轟音を立てて、一斉に稼働を始めた。部屋の空気から、執拗に水分が奪われていく。室内の湿度は、デジタル表示の液晶パネルの上で、見るみるうちに低下していった。壁紙は乾ききって音を立ててひび割れ、床の木材は悲鳴のように軋んだ。彼の皮膚は、まるで羊皮紙のようにパリパリになり、呼吸をするたびに、熱く乾いた空気が肺を焼いた。激しい咳がこみ上げるが、彼の喉から出るのは、湿り気を失った空虚な音だけだった。
だが、彼は機械を止めなかった。この乾きこそが、彼を都市の「目」から隠すための、唯一の迷彩なのだから。
第二段階は、「媒体への転写」。長峰の実験ノートが示した可能性――存在情報を、石に記録する。神田は、ふと、デスクの隅に目をやった。そこには、彼が長年、無意識のうちに集めていた、あの石たちが鎮座していた。角の取れたチャート。微細な水晶の結晶が光る御影石。彼は、その石たちを手に取った。ひやりとした感触が、熱を持った彼の掌に心地よかった。この石たちは、彼がこの狂気の実験に臨むことを、ずっと以前から知っていたのではないか。そんな運命めいた符合に、彼は乾いた笑みを漏らした。
彼は、その石の一つを手に取り、床に座り込んだ。そして、目を閉じた。除湿機の轟音が、やがて自らの心臓の鼓動と同期していく。単に記憶を念じるのではない。彼の全存在を、この石ころ一つに「濾過」するのだ。
まず、皮膚の感覚が変質した。熱く乾いた空気が、もはや身体の外側を撫でるのではなく、皮膚組織の隙間から直接内側へと侵入し、血中の水分を沸騰させていくような錯覚。石を握る掌は、熱で焼けるように痛むかと思えば、次の瞬間には、石が彼の体温のすべてを吸い尽くし、氷の塊を握っているかのように感覚が麻痺した。
次に、視界が歪んだ。瞼を閉じているにもかかわらず、部屋の景色が見える。乾燥で揺らめく陽炎の向こうで、壁が、家具が、その輪郭を失い、砂のように崩れていく。彼は、自分の指先が、透き通った琥珀のように、向こう側が透けて見えるのを、確かに見た。
彼は、自分の人生の断片を、石へと送り込み始めた。
幼い頃、故郷の川で遊んだ記憶。――その瞬間、彼の耳には川のせせらぎが幻聴として響き、鼻腔を、湿った土と草の匂いが満たした。石が、じわりと生温かくなる。
大学受験の夜、ラジオから流れていた歌。――メロディの断片が、除湿機のノイズに混じって聞こえる。彼の喉が、忘れていたはずの歌詞を、声にならない形でなぞろうとしてひきつった。
十数時間は過ぎただろうか。彼の身体は、もはや限界に近づいていた。意識はほとんどの時間、朦朧としていた。時折、彼は、自分の指先が、ほんの少しだけ透けて見えるような幻覚に襲われた。都市の濾過システムが、彼の最後の抵抗を打ち破り、その存在の輪郭を消し去ろうとしている兆候だ。時間は、残されていなかった。
彼は、最後の力を振り絞り、一つの石を手に取った。それは、彼が最も気に入っている、白く滑らかな、卵のような形の石だった。彼は、この石に、自分の核となる記憶、自分という人間を「神田淳」たらしめている、最も重要な情報を転写しようと決めた。
それは、何だろうか。彼の人生で、最も輝いていた瞬間は。彼が存在した、最も確かな証は。
彼の脳裏に、様々な光景が浮かんでは消えた。家族の笑顔、友との語らい、淡い恋の思い出。だが、それらはすべて、乾いたフィルムのように色褪せて、実感を伴わなかった。彼の人生は、結局のところ、ありふれていて、希薄だったのではないか。都市のシステムが彼を「不要」と判断したのも、無理はないのかもしれない。
諦めかけた、その時だった。彼の心に、ふと、一つの光景が、灼けつくように鮮やかに甦った。
それは、彼がこのアパートに引っ越してきたばかりの頃。隣の二〇三号室のベランダで、あの黒髪の女性が、洗濯物を取り込んでいる。傾きかけた夕日が、彼女の横顔を、輪郭を、柔らかな金色に染め上げていた。彼女は、取り込んだシーツの匂いを、ふと、確かめるように吸い込んだ。その瞬間に見せた、ほんの僅かな、しかし完全な、安らぎに満ちた微笑み。
神田は、その顔を知っていた。いや、知っているはずはなかった。彼は彼女と話したことさえないのだから。だが、その微笑みは、彼の記憶の奥深くに、確かに刻まれていた。それは、彼がずっと求め続けていた、穏やかで、満たされた生活の象徴そのものだった。彼がこの無機質な都市の中で唯一感じた、他者の確かな実存の光。その光が、逆説的に、彼自身の孤独な存在を、一瞬だけ照らし出したのだ。
そうだ。これだ。
この、誰にも知られることのない、一方的な、しかし彼にとっては紛れもない真実である、この記憶。これこそが、神田淳という、ありふれた男の存在の核なのだ。
彼は、その白い石を両手で強く握りしめた。そして、夕日の中の彼女の微笑みを、彼の持てるすべての精神力を尽くして、石へと注ぎ込んだ。
彼の意識が、遠のいていく。 乾燥機の轟音が、子守唄のように聞こえる。 部屋の隅で、最後の水分を奪われた壁の石膏が、ぱらぱらと砂のように崩れ落ちる音がした。 神田は、ゆっくりと目を閉じた。彼の身体から、力が抜けていく。彼の存在の輪郭が、熱せられた空気の中に、陽炎のように揺らめき、そして、静かに溶けていく。
蒸発。
それは、終わりであり、あるいは、始まりだったのかもしれない。
数ヶ月後。 神田淳が住んでいたアパートの一室は、リフォーム業者の手で綺麗に片付けられ、新たな住人を迎える準備が整っていた。壁紙は張り替えられ、床も新しくなった。あの異常なほどの乾燥機や、大量の石も、すべて産業廃棄物として処分された。神田淳という男がそこに住んでいたという痕跡は、賃貸契約の書類のデータが消去された時点で、この世界から完全に消え去った。彼の存在は、誰の記憶にも残ることなく、都市の巨大なサイクルの中に吸収された。
ある晴れた日の午後、新しい住人となる若い夫婦が、部屋の内見にやってきた。
「わあ、綺麗なお部屋。日当たりもいいし」 「本当だ。ここなら快適に暮らせそうだね」
夫婦は、満足そうに部屋を見回している。その時、妻の方が、窓際の床に、何か小さなものが落ちているのに気づいた。
「あら?」
彼女が屈んで拾い上げたのは、一つの、白く滑らかな、卵のような形の石だった。それは、業者の見落としか、あるいは壁の隙間にでも挟まっていたのだろうか。ただの石ころだ。彼女は、それを窓から捨てようとして、ふと、その石に触れた指先から、微かな温もりが伝わってくることに気づいた。
気のせいかしら。彼女は石を掌に乗せ、じっと見つめた。 すると、その白い石の表面に、夕日のような、淡い光が宿っているように見えた。そして、その光の奥深くで、誰かの、ほんの僅かな、しかし確かに安らぎに満ちた微笑みが、一瞬、揺らめいた。
「どうしたんだい?」
夫の声に、彼女ははっと我に返った。
「ううん、何でもない。ただ、なんだか、とても綺麗な石だなって」
彼女は、その白い石を、捨てるのが惜しくなった。それは、ただの石ころには思えなかった。何か、大切なものが宿っているような気がしたのだ。彼女はそれを、そっと自分のコートのポケットにしまい込んだ。
その小さな石の中に、かつて神田淳という男が存在したことの、唯一にして絶対の証が、誰にも知られることなく、静かに受け継がれたことを、知る者は誰もいない。
都市は、何も変わらず、その巨大な営みを続けている。無数の人々が生まれ、そして消えていく。その冷徹な代謝システムの中で、今日もどこかで、誰かが静かに「蒸発」しているのかもしれない。
だが、乾ききった砂漠のような都市の片隅に、一つの小さな石が、あるありふれた男の、ささやかな抵抗の記憶を、永遠に宿し続ける。
それは、水には決して溶けない、存在の証。 夕日の中に浮かぶ、穏やかな微笑みとして。