蟹
蟹が届いた。
仕事を終えて帰って来たのとほぼ同時に宅配便がやって来たのだ。詐欺か何かかとも思ったが、発泡スチロールの箱に貼り付けられた送り状には、品名の他に、送り主として母の名前があった。
蟹を送るというような連絡ももらっていなかったので、とりあえず電話をかけてみる。数コールの後に母が出た。
「もしもし。どうしたの?」
俺から電話することは滅多にないので、不思議がっているらしい。どうしたの、はこちらの台詞だ。
「蟹届いたんだけど。何で?」
「何それ?」
「今蟹が届いて。送り主は母さんになってるんだけど」
「私は知らないけど。ちょっと待ってね。お父さんに聞いてみる」
電話の向こうで母の質問と父の回答が聞こえた。父にも心当たりはないらしい。
「知らないって」
「聞こえた」
「詐欺か何かじゃない?」
受け取った時の俺と同じ感想を抱いたらしい。
改めて送り状を眺めると、住所とアパート名が僅かに異なっている。室番以降は全く同じだ。さして珍しい姓名でないとはいえ、本人だけでなくその関係者まで一致するとは。
「ごめん。誤配達らしい。すぐ近くだし、直接渡してくる」
「宅配便に連絡した方がいいんじゃない?」
「それはそうだけど、要冷凍なのに大きすぎて冷凍庫に入らないし、俺や母さんと同じ名前の人も気になるから」
「まぁ、そうね。何か分かったら教えてね」
母と挨拶をして電話を切り、ずしりと重い発泡スチロールを持って部屋を出る。
徒歩で一分もかからない場所にそのアパートはあった。こんな近くに似たような名前を持つアパートがあるとは知らなかった。
俺と同じ室番の部屋に向かい、インターホンを鳴らす。幸い留守ではなかったようで、すぐに男の声が聞こえた。
「はい」
「すみません。あなた宛ての荷物が、私のところに届いたみたいで」
「分かりました。少々お待ちください」
インターホンが切れるとすぐに扉が開き、俺と変わらないくらいの年齢に見える男が現れた。流石に見た目までそっくりというようなことはなかった。
「お待たせしました」
「申し訳ないです。私たちは名前が同じみたいで、間違って受け取ってしまいました」
「そうなんですか。偶然ですね」
男は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに笑って発泡スチロールを受け取ると、軽く頭を下げた。
「わざわざ届けてくださってありがとうございます。最近越してきたばかりなんです」
「すぐ近くに似たような名前のアパートがあるんで、受け取るときは住所にも気を付けないとですね。室番も同じなんです」
苦笑する俺に、男は笑って頷いた。
「ところで、不躾ですみませんが、その送り主の方とはどのような関係ですか? 実は私の母も同じ名前なんです」
男はまた驚いた様子を見せると、声を上げて笑った。
「私の母です。偶然が重なることもあるものですね」
俺も声を上げて笑う。全く同感だ。
「これも何かの縁でしょう。食事がまだでしたら、蟹、召し上がっていきませんか? まだ引っ越しの片付けも済んでいないので見苦しいのですが」
急な提案にやや戸惑ったが、こうまで奇妙な偶然が重なる人に会うこともないだろう。蟹に惹かれた部分もないではないが。
「ありがとうございます。では、お邪魔します」
笑って頷く男に迎えられ、部屋に入る。
男に案内されたのは、LDKのダイニングだった。荷解きが終わっていないのか、リビングには最小限の物しかなく、その片隅にはいくつかの段ボールの箱が積まれている。
男に勧められるまま、明るく照らされたダイニングテーブルに着く。
すぐに男の手によって、皿に乗った蟹がテーブルの上に置かれた。真っ赤に茹でられたタラバガニだった。豪勢なことに、巨大なタラバガニがそれぞれに一杯ずつ用意されている。
蟹自体にも驚いたが、それぞれの前に置かれた食器にもやや驚いた。蟹を食べることのみに用いる物が二つ用意されている。殻を割るためのペンチのような物と、細長いフォークとスプーンが一体になった物だ。よその家庭の食器のことなど知らないが、これほど限定的な機能の物をわざわざ持つのも珍しいのではないだろうか。
「それでは、いただきます」
席に着いた男は、言うや否や、蟹の脚を折り取った。
「丸々もらって、よかったんですか? どなたか来るとか?」
「いえ、大丈夫ですよ。召し上がってください」
男は蟹の殻を割る手を止めず、笑って首を振った。なんとなく釈然としないが、本人が良いというのなら頂いてしまおう。
異様なほど手際よく蟹を食べる男を見ながら、蟹の脚を折った。用意された食器で殻を割り、身を食べる。美味い。そういえば、蟹を丸ごと食べるなど、何年振りだろう。
俺が蟹の脚を数本食べ終えた頃、男は早くも食べ終えたらしい。失礼、と席を立つと、驚いたことに新たな一杯の蟹を自らの皿の上に置いた。
「蟹、好きなんですか?」
思わず聞いてしまった俺に、男は照れたように笑う。
「家族全員の好物でして。私たちは何かというと蟹を食べるんです」
男は蟹の脚を折り取ると、微笑して俺を見る。
「知っていますか? タラバガニはカニの仲間ではないんです」
そう言えば、何かで見聞きしたことがある気がする。頷いた俺に、男は蟹の殻を割りながら話を続ける。
「タラバガニはヤドカリの仲間なんです。他にも、日本で食べられている蟹で言えば、ハナサキガニやヤシガニなんかもヤドカリの仲間です」
男は蟹の身を口に運んだ。
「そう考えると、どうでしょうか。人にも、ヒトのように見える、ヒト以外の仲間がいても、おかしくはないんじゃないでしょうか」
男はそう言うと、俺の目を見つめる。先ほどまでの微笑は消えていた。
「私たちみたいに、同じような名前を持ってですか?」
妙な迫力を感じさせる男に辛うじて冗談めかした言葉を返す。男は頷くと、蟹の脚を折り取った。
「そういう存在がいたとして、ヒトのように考えて、ヒトのように生活するなら、差はないんじゃないですかね」
「確かにそうかもしれませんね。ですが、たとえば、ある一点でヒトと全く違う部分があったとしたら?」
男は俺の目を見ながら、蟹の殻を割った。
「どんな違いかにもよりますけど、法に触れるようなことでなければ、問題ないんじゃないかと思いますね」
男は薄く笑うと、蟹の身を口に運んだ。
「なるほど。現実的な答えですね」
含むところのあるような言い方だったが、先程までとは雰囲気の違う男に、何かを尋ねる勇気はなかった。
目の前に積み重なった蟹の殻のせいか、じっとりと粘つく湿度を感じる。
最初は美味しいと感じた蟹も、今ではぼそぼそした何かに感じられる。それでも、何とか食べ進める。
男はまた席を立ち、三杯目となる蟹を置いた。
男は何を言うこともなく、俺を見つめながら蟹の脚を折り、割り、食べる。
先ほどまでは気にならなかった、蟹の脚や甲羅の割れる音、男から聞こえる僅かな咀嚼音が、ひどく耳に障る。蟹の殻の山はどんどんと堆くなっていく。照明が遮られたかのように、薄暗く感じる。全身に纏わりつくような湿度が更に増していく。食欲をそそるはずの蟹の匂いが、耐えきれないほどの生臭さとなって鼻を刺す。
俺を見る男の捕食者のような視線に耐え切れず、蟹を食べることに集中した。
男は皿に四杯目となる蟹を置く。
蟹の脚をひたすら食べ進める。
男は皿に五杯目の蟹を置く。
蟹の脚をただ食べ進める。
男は皿に六杯目を置く。
蟹の脚を食べ進める。
男は七杯目を置く。
蟹の脚を食べる。
男は八杯目を。
蟹の脚を食。
男は九杯。
蟹の脚。
十杯。
蟹。