15話 湖の神殿とマーメイド(5)
それは水面から突き出た真っ白い山のようだった。ぶよぶよとした頭にくっついている丸い目玉がこちらを睨みつけている。頭の下から伸びる巨大な足は残り四本だ。本来なら八本あるはずなのだが、半分はレインが戦いの最中に槍で叩き斬ってしまった。
「でかいな……」
レインも思わず呟いてしまうくらいの大きさだ。クラーケンと戦ったことがないわけではない。だが海で戦う時は大抵、水中に潜んでいて水面から飛び出すことなど無かった。水中に隠れていた方が安全なのだから当然だ。人間側の攻撃手段も限られてくる。
だからクラーケンの全体像をはっきりと体感するのはこれが初めて、ということになる。なぜ湖にいるのかはさっぱり分からないが貴重な体験かもしれない。ではなぜこのクラーケンがわざわざ姿を晒したのか。おそらく敵であるレインの位置を完璧に把握するためだろう。
清冽の槍術士となったレインは、移動速度や瞬発力といった素早さが著しく向上している。水中にいる状態から大雑把に攻撃するだけでは捉えきれないのだ。むしろ足を切断するチャンスを与えるだけと言えるだろう。
残された四本の足が一斉に襲いかかる。上、下、右、左。四方向からの同時攻撃だ。逃げ場は前後にしかない。レインは後退を選び、水面をスケートで滑るように退避する。これは装備しているブーツの水上歩行能力によるものである。
クラーケンの正面に魔法陣が浮かぶと、幾つもの水の球体が飛んできた。水魔法のハイドロショットだ。クラーケンが魔法まで使えるのはレインも今、知った。水面を蹴って加速し、降り注ぐ水の弾幕を回避しつつ、更にクラーケンの足による攻撃も躱す。
乗っていた小舟を先に逃がしたのは正解だったな、とレインは思った。小舟の機動力と耐久力ではこの激しい攻撃を凌ぐことは絶対にできなかったはずだ。
「……使うか。あれを」
逃げ回るだけでは攻めに転じることができない。フランたちのことも気がかりだ。一気に決着をつける。レインは槍の穂先を水に浸けると、勢いよく頭上まで槍を引き上げる。すると湖の水も穂先にくっついたように持ち上がった。レインの正面に位置するクラーケン側からすると、湖の水がレインを隠したように見えたはずだ。
レインが何を考えてそんなことを行ったか、クラーケンには理解できないだろうが、面倒なことをしそうな気配は感じ取ったようだ。先程と同じく、残り四本の足を全部使ってレインを攻撃する。その時だ。
槍によって持ち上げられた水が形を変え、もう一人のレインへと姿を変えたのである。二人になったレインは左右へと飛び出し、クラーケンの足を使った叩きつける攻撃を回避する。そして二人のレインは走りながら同じく槍で水を持ち上げ、その水はまたもレインへと姿を変えた。
レインが四人いる。もちろんすべて本物であるはずがない。レインの使う魔法武器、水の槍アクアヴィーラの能力だ。この槍は水を操り、水を生成できる。その応用として特殊な技も使うことができるのだ。
その名をクリスタルアバター。液体ゆえにあらゆる形へ変化し、鏡のように姿を映す性質を活かして、簡単な分身を生み出すことができる。これでクラーケンの攻撃を攪乱し、一気に接近戦を仕掛ける作戦だ。
「……いける!」
四人に分身したことでクラーケンの攻撃が四分の一ずつに分散された。この状況下なら接近できそうだ。とはいえクラーケンはそれほど弱い魔物ではない。猛烈な集中攻撃によって三体のクリスタルアバターを一体、また一体と潰していく。最後の一体がクラーケンの足に絞め殺された時、本体のレインは水面を蹴り高く跳躍していた。
「おおおおおおおっ!!」
裂帛の気合がこもる。その跳躍力はブーツによって強化され、常人の十倍以上の脚力を発揮した。アクアヴィーラの穂先を天高く掲げると真っ直ぐに振り下ろし、クラーケンの脳天に叩きつける。自由落下の勢いが加わり、頭から足の付け根まで一気に切り裂いていく。
「オオオオオオォォォ…………!!」
レインが水面に着水した瞬間、クラーケンの断末魔が聞こえた気がした。その巨体が静かに湖に沈んでいく。あまりの大きさに、ざぶざぶと水面が波打って揺れていた。強い魔物だったが今は感慨に耽っている場合ではない。レインは身を翻すと神殿目指して走り出した。
◆
ノルウェは漁師なだけあって鍛えられており、体重も相応にある。クルツにはノルウェの安全を考慮して確保しておくよう言われたが、リザにとってはこれが結構な重労働だった。祭壇から降ろすまでは良かったが、小柄なリザでは背負うことも抱えることもできず、両足を掴んで引き摺りながら移動することになった。
えらくぞんざいな扱いを受けているのにも関わらず、ノルウェは目を覚まさない。何か睡眠魔法のようなもので眠らされている可能性がある。ともかく今は、戦闘に巻き込まれないよう小舟まで運んだ方が良さそうだ。
リザがノルウェを小舟に乗せている頃、フランは今まさにエレルーンへ剣を振り下ろしていた。勝利を確信したのも束の間。その一撃はエレルーンの発動した防御魔法に跳ね返されてしまった。
「やっ……ていない……!?」
「見ての通りだ。お前の攻撃など通じんわ」
水の防御魔法、ウォーターヴェール。水流の壁で攻撃を防ぐことができる。水流の勢いで敵の攻撃を弾くので、貫通力の高い一撃や重量級の一撃なら突破できると言われている。対してフランの攻撃は速く軽い剣術か炎魔法が主である。ウォーターヴェールとは最悪の相性だ。
「これじゃあ倒せませんわ……! どうすれば……」
「ほほほ。本当に馬鹿な小娘だ。ようやく私に勝てないことを理解したか?」
「こんのっ……!」
諦めの悪いフランは剣を横一文字に振り抜いた。しかし水流の壁を突破できずに、再び弾かれてしまう。こんな。こんなことでいいのか。レインも、クルツも、リザも。自分の役目をきっちりと果たしている。自分だけが何もできない。足手纏いになってしまっている。
「こんなところで……!」
「ほう。まだ喋るか。負け惜しみなら好きなだけほざくがいい」
たとえば、レインやクルツがエレルーンと戦っていれば問題なく勝てていただろう。レインはフランに良い騎士になれると言ってくれた。嬉しかった。だからフランはそれが事実だと証明しなくてはならない。こんなところで足を引っ張るわけにはいかないのだ。
「こんなところで、立ち止まっていられますかぁぁぁぁーーーーっ!!」
フランの想いに呼応するように剣が光り輝いた。がむしゃらに放った袈裟斬りが、ウォーターヴェールをすり抜けてエレルーンを切り裂く。その手応えに一番驚いたのは他ならぬフラン自身である。さっきまでと同じ何でもない斬撃のはずなのに、なぜ防御魔法を突破できたのか分からない。
「ば、馬鹿な……こんなことが……」
剣は心臓にまで達しておりエレルーンは力なく倒れる。意識が薄れていく中でエレルーンが思い出したのは過去の出来事だ。かつて海を荒らす魔物だったエレルーンは冒険者に襲われ、人間に化けて縄張りから逃げ出した。辿り着いたのがこのサントリナ湖だ。
手下の魔物も船を襲って得た財宝も何もない。いちからのやり直し。それでもエレルーンは根気強く村の漁師を攫い、仲間を増やした。今までは順調だったのに。なぜこんな不幸が何度も自分に降りかかるのだろう。許せない。死の寸前になって、エレルーンの心に残されたのは途方もない怒りの感情だった。
「やりましたね、フラン殿! あれは致命傷です。その証拠にヴォジャノーイも消えました。撤退しましょう」
「え、ええ……そうですわね。レインやリザと合流しないと。行きましょう」
クルツに促されるがままフランは小舟へと向かうが、腑に落ちないままだ。エレルーンに与えた致命傷は自分の力ではない。だとすれば、考えられるのは他の要因だ。フランの剣はキルシュブリューテと呼ばれる宝剣。使い手と共に成長する剣とも言われ、もしかしたらそれが関係しているのかもしれない。
小舟まで向かうと、リザが準備をして待っていてくれた。クルツはオールを握り、急いで神殿を離れていく。どんどん小さくなる神殿を眺めていると、何かがこちらに近づいてくるのが見えた。水面を走るそれは、ちょうどクラーケンを倒して間もないレインである。
「あ……レインですわ! レイーン!」
フランが手を振ると、レインは槍を持っていない左手で振り返した。一人でクラーケンの相手をするという危険な役回りだったが、特に負傷などもなさそうだ。やはりレインは凄い、とフランは心の中で密かに思った。
「ん……? レインが何か言ってますわ。リザ、聞き取れますか?」
「あわわわっ! フランの姉さん、後ろっす後ろ! 何か来てるっす!!」
レインのありったけの「後ろ!」という叫び声がようやく聞こえたところで、フランは背後から近づく存在に気づいた。
「私ィィィィの男を返せェェェェェェ!!」
エレルーンである。ただしその面貌は大きく異なる。美しい女性の顔立ちはどこにもなく、まるで異形の怪物だ。鋭利な歯をぎらつかせ、下半身をヒレに変えて湖を泳ぎ近づいてくる。これが真の姿なのだろう。その恐るべき執念と怒りによって負傷をものともしていない。
「馬鹿な、あの傷で息を吹き返すなんて……!」
小舟を漕ぐクルツが驚愕した様子で呟く。エレルーンの手に魔法陣が浮かび、何かの魔法で攻撃しようとした時、影が飛びこんできてその上半身と下半身を真っ二つに両断した。一瞬の抵抗も許さないほどの神速の技。その影の正体こそ、水面を走ってきたレインである。
「……なんだったんだ、さっきのマーメイド……咄嗟に倒したけど……」
「すみません、レイン。あのマーメイドはこの湖に棲む魔物のボスみたいなものですわ。倒したつもりだったんですけれど、まだ生きていたみたいで……」
「そうだったんだね。ノルウェさんとみんなが無事で良かった。他にマーマンが襲ってくる気配もないし、村に戻ろう」
岸に着くと村長のボルドーやその妻のサラが待っていた。ノルウェもしばらくすると目が覚め、ボルドーたちと無事を喜んだ。レインたちが湖に棲む魔物のボスと思われるマーメイドを退治したので、しばらくは魔物も大人しくなるだろうと話すと、感謝してもしきれない、と大変お礼を言われた。
「そこまでして頂いたのに、特別なお礼もできず申し訳ない……そうだ。皆さんは徒歩で王都を目指していたんでしたかな」
「あ、はい。そうですが、それがどうかしましたか?」
レインが返事をすると、村長のボルドーがこんなことを言った。
「ここから王都まではかなり遠いですぞ。よろしければ次の街まで馬車で送りましょう」
「いや……そんな。悪いですよ」
「はっはっは。レイン殿は本当に遠慮深いですな。問題ありませんぞ、街の市場まで魚を卸さなくてはなりませんからな。そのついでならば、遠慮する必要もないでしょう」
この話を聞いたフランはレインを押しのけて、食い気味にボルドーに言った。
「まあ! 村長様、ありがとうございます! 是非馬車に乗せて欲しいですわ! それで良いですわね、レイン!? 嫌とは言わせませんわ」
フランの強い語気に負けたレインは、頷かざるを得なくなった。フランはもう歩きたくなかったのだ。




