密会
"認識阻害"の魔法は、彼女の一番得意とするものだった。
半径数メートル内の神経伝達に作用し、術者の存在を希薄にさせる。友人や家族とすれ違っても気づかれない強力な魔法だ。
ただ短時間でかなりの魔力を消費するため、どうしても必要な時だけ使うことにしている。
たとえば密会する時。
こじんまりとした屋敷の扉が開く直前に、彼女は認識阻害を解いた。出迎えてくれた使用人に挨拶をして、後をついていく。そして案内された壁一面の大きな窓から庭へ出た。
濃密な緑が茂る庭にはテーブルセットが置かれ、屋敷の主が鎮座している。
「さて。来てくれてありがとう」
いつもより機嫌の良さそうな相手の物言いに、彼女は小さく声を出して笑った。
「機嫌の良いユーリは好きよ」
「僕も素直な騎士は嫌いではないよ、アリサ」
アリサと呼ばれた女性騎士は、少し呆れ気味に息を吐いた。向かいの椅子に座ると、おもむろに騎士服の首元を緩める。続いてポニーテールも解けば、ダークグレーの緩やかな髪が腰の辺りまで波打った。
アリサは窮屈さが苦手だった。
王宮の騎士服は洗練されているが、襟首がきっちり詰まっているのはマイナスだと思っている。
咎めることをしない相手の前で、寛がない選択はない。
挨拶もそこそこに、爽やかなミントの香りに釣られてお茶を一口。ついでに甘いショコラにも手を伸ばした後、彼女はようやく本題を伝えるために口を開いた。
「ユーリの予想通り、聖女様の護衛に就いたわ」
「へえ、それは良かった」
対するユーリは、まるであらかじめ分かっていたかのように平坦な反応だった。
「貴方が何をするつもりか知らないけれど、協力してほしいなら相応の報酬は忘れないで」
釘を刺しても動じず飄々と頷く。
アリサは誰も近くにいないのに声を顰めて、一つの情報を口にする。
それだけ重要なことなのだ。
「明日の午後、聖女様が拘束中のレネ・ヴィンランド卿と面会するの。私も護衛として付き添うことになってる」
「そう。聖女は君の魔力に気づくはずだ」
ユーリは確かめるように、アリサの薄いグレーの瞳に視線を合わせる。
「異世界からの客人に知られるのは構わないわ」
アリサの答えを聞いて「うん」と軽く頷くユーリは、本当にただ事実を確認しただけのようだ。
自分の方が年上で大人なのに……とアリサは少しだけ不満に思う。彼が何を考えているのか全く掴めない。ハーブティーから立ちのぼる湯気のように朧げな印象だった。
だからといって詮索する気はない。
個人的な秘密を二つほど共有する仲だとしても、アリサは彼の奥底に沈む感情を知りたいとは思わなかった。
「神官の様子はどう? 聖女に付いてるのは何人いる?」
「ほとんど隣国に帰したみたい。今はアズールという神官と、神官見習いの子だけよ。彼らは聖女様の護衛を兼任しているのかも」
「護衛ねえ……」
ユーリは目を伏せ、手元のカップの水面を見つめている。
「なあに?」
意味ありげな語尾が気になったアリサは、首を傾げて続きを促した。
「護衛ならパーティの最中にずっと張り付いていても不審に思われないなと」
「え……?」
「ついでに聖女と歓談中の大使に近づいて、大使の服に毒を忍ばせることも難しくない」
未だ伏せられたままの目元。
物騒な話題に反して、長いまつ毛は繊細な形を描いている。アリサは普遍的な造形美に見惚れつつも、意外な内容に疑問を呈した。
「どうして?」
ただの推測なのか。確証はあるのか。
聖女のおかげで隣国は利益を享受しているはずだ。
それにも関わらず神官が聖女を害する理由は……?
いくつかの疑問が頭に浮かぶも言葉にできない。そんな心情に答えるように、ユーリは伏せていた瞼を上げた。
淡い唇が開く。
「今、多くの民に影響を与えているのは神殿ではなく聖女なんだ」
聖女が現れてからの国勢の変化は、恐らく誰もが感じ取っている。
「聖女がいる隣国では、唯一神の信仰が薄れ始めている。神官たちは既得権益を失うことを恐れている」
「……聖女様がいると、神殿が不利益を被るの?」
カタリンドの要人たちが自国の聖女を害するわけがない、という思い込み。偽装された証拠。
この二点が揃うことによって、大使とその子息は易々と嵌められてしまった。
「聖女暗殺計画は失敗したが、うちの国に罪をなすりつけることだけは成功するかも、というところか」
「……成功するかしら」
「うちには至って公明正大な大法官がいるからね。悪あがきで終わるだろう」
「そうね、ガーデナー卿は……。裏取引や工作の心配もなさそう。あの地位にいてなお清廉潔白でいる手腕をお持ちだから」
ふいにユーリが席を立った。
夕方の強い日差しが逆光になり、肩上まで伸びたアッシュブロンドの輪郭を縁取っている。見上げたアリサは、西日の眩しさに目を細めながら彼の動きを視線で追った。
レモングラスの生える場所まで歩いたユーリが、瑞々しい葉に触れ、手折る。
「ご息女のエヴァ嬢も、同じく潔癖な性質らしい」
独り言のように密やかで淡々とした声。
手に入れたレモングラスの香りを顔に寄せている。
「彼女は冤罪の婚約者のために、自身の危険を顧みず動くだろう。まっすぐで不正や不道徳を好まない。そういう人間が損をするのは理不尽なことだ。まして命を脅かされる事などあってはならない」
ああ……そういうことか、とアリサはやっと腑に落ちた。
薄い青の瞳が遠くを見る時は、未来を推測しているのではなく"そうなることを知っている"。
ユーリ・デライトは冤罪を弾糾したいわけでも、ウィンランド伯爵家を助けたいわけでもない。
彼が守りたいのはーー。
「エヴァ嬢も面会をするらしい。明日、囚われの婚約者と」
振り向いたユーリは透明な笑みを浮かべる。相変わらず読めないが、彼は何かを守りたいのだろう、ということだけ理解できた。
「私にエヴァ嬢を守ってほしいとか?」
「いや、彼女のことは問題ない。私も王城へ一緒に行くからね」
「じゃあ、何?」
「大丈夫だとは思うけど……念のため。聖女様とレネ・ウィンランド卿の二人を守ってほしい」
「聖女様はともかく、レネ卿は面会の時しか守れないわよ?」
「それで充分。君の守りは万が一の保険なんだ」
言葉が途切れ、僅かな沈黙の後。
「それと可能であれば……、アズールという神官とエヴァ嬢が鉢合わせるのを避けたい」
「分かったわ」
「……ありがとう」
ついでのように付け足した後者の要望。素直なお礼。
本当はこちらの件が重要なのだ、とアリサは勘付いた。
彼が危惧することの全容は分からないが、深く追求せず要望通り動いてあげることにする。
その代わり。
「あとで紹介してよね、エヴァ嬢のこと」