聖女
隣国カタリンドには世にも珍しい"聖女"がいる。
アナという名の、別の世界から来た少女。
歴史を紐解けば、"移転"は百年に一度あるかないかの自然現象。さらに、異世界から来た魂には強大な魔力が宿るとされている。
なぜアナが貴重な存在なのか。
それは強大な魔力が貴重だから、の一言に尽きる。
この世界で魔力を持つ人間は珍しい。
貴族の血統に受け継がれることがあるが、聖女とは比較にならない非力さで、手合わせをすれば並の騎士の方が勝つレベルだ。
「ユーリ様が感知可能な魔力持ちは、どれくらい居るのですか?」
「城下の貴族が少しだけ。市井にも居るには居るが微弱なものばかりで無自覚だろうね」
必然的に、異世界からの客人が聖女として崇められることになる。神官も持ち得ない強大な力のせいで。
「争いになれば、聖女様の加護のない国が不利になるのでは」
「一応、攻撃魔法は禁止されている。しかし間接的に多少の利害は生まれるだろう」
聖女の力は制限なく利用できるわけではない。近隣諸国との条約により、聖女が攻撃魔法を習得すること自体禁止されている。
実質、使えるのは防御系のみ。
それでも民は聖女を唯一神のように崇める。
神殿におわす神ではなく、生身の人間を。
「彼女は道具では無いのにね」
ポツリとこぼしたユーリの一言で、エヴァは我に帰る。
「無論、神でも無い」
お茶はすっかり冷めている。
淡い空の色彩の瞳が、ガラス張りの出入口へチラリと移る。すると遠くで人の気配が動いた。
今ふたりが過ごしているのは、小さなタウンハウスのこじんまりとした庭。公爵ではなくユーリの所有物件で、17歳という若さで管理者となっている。
緑の多い庭には、数種のハーブがランダムに咲き乱れる。家具はクルミの木材のアンティークテーブルとラウンジチェアだけ。
華美な公爵家の印象からはかけ離れている。けれどいかにも魔法使いの隠れ庭のようで可愛らしく、エヴァはこの空間を居心地よく感じていた。
主人の視線ひとつで新しいお茶がサーブされると、再び給仕たちは屋敷の中へ戻っていった。
「ひと休みしよう。温かいうちにどうぞ」
勧められるままカップに口をつけ、ホッと息をつく。エヴァの好きなレモングラスの香りが、不安を少しだけ和らげてくれる。
「ハーブティーは好き?」
「ええ。ユーリ様もお好きなのですか?」
庭のハーブにちらりと目を向けて問う。
「飲むのも育てるのも好きだよ」
「えっ……育てる……?」
明るいアンバーの瞳が見開かれた。まさか自らハーブを育てているとは思わず、貴族令嬢の固定概念にヒビが入る。
その様子を見て、ユーリの無表情が透明な笑みに変化する。
「驚いた?」
「わたくしはユーリ様に出会ってから驚いてばかりですわ」
「じゃあ、これからもっと驚かせてしまうかもしれないね」
「はい?」
「真犯人はもう分かっているんだ」
何の前置きも溜めもなく。
天気の話みたいにユーリは言った。
抑揚のない声色で。
エヴァの頭が一瞬、真っ白になった。
意味を理解するのに数秒かけてから、整理がつかない心のままに訊ねる。
「なぜ、犯人が……分かったのでしょう?」
「なぜだろうね」
「教えてくださいませんか」
「まだ教えられない」
きっぱりとした言葉の応酬。
エヴァは、ならばと話を仕切り直す。
「では、わたくしの父と話していただけますか? 父は王城の法官なのです」
エヴァの父は大法官の役職を得て、1年の半分以上を王城で過ごしている。法官にならば話してくれるかも、という願いも虚しく、ユーリは首を縦に振らなかった。
「今必要としているのは証拠だ」
証拠がなければ何の効力もない。
虚言と見なされればデライト公爵家に迷惑がかかるかもしれない。だがエヴァは、婚約者やその家族のことを思うと聞かずにはいられなかった。
「わたくし……承知しております。申し訳ありません」
頭を下げるエヴァに「大丈夫」と柔らかい言葉が降ってくる。ゆっくりと顔を上げれば強い瞳とぶつかった。
「証拠は王城内にある。犯人もそこにいる」
魔法使いというよりまるで預言者だ。
歌うように紡がれた証言を、エヴァは嘘だと思えなかった。
朗々とした声の奥に、天の原の瞳の裏に、揺るぐことのない意志がある。
「……ユーリ様には、何が視えるのでしょうか」
「視えることはない。知っているだけだよ」
ならば、何を知っているのか。
エヴァはそれを口に出せなかった。
目立つ容姿と身分にもかかわらず、謎に包まれた公爵家の令息。姿絵が出回っても噂話はあまり聞かない。目の前にいるのに朧げで、淡い髪と瞳の色に反して夜の月のような印象を纏う。他者に何も触れさせないのに、見ず知らずの者を助けようとする。
"普通"の理解の外にいる人間。
それでも。
エヴァは、最初からずっとユーリを信じていた。