魔法使い
隣国カタリンドの"聖女"が毒を盛られたという話は、迅速かつ密やかに高位貴族の間へ広まった。
事件の現場はソルン王国の広間。カタリンドの貴賓を招いた小規模なパーティの最中に起こった。
そして容疑者はソルン王国の大使。大使を幇助したとして、彼の子息まで拘束中である。
幸いにも未遂に終わったことで、国の威信を揺るがすような事態にはならないはずだ。多額の賠償金さえ払えば。
大使を務めるウィンランド伯爵のことをよく知る者たちは、一様に信じられない思いで、しかし下手に抗議することもできず口をつぐんでいる。
火の粉が飛ぶのを恐れているのだ。
代わりに噂されるのは自国の危機について。その多くは、まさに隣国の聖女に関わる問題だった。
『カタリンドに移住する者が増えているらしい』
ーー移住の理由は、聖女を有する国だから。
『特に辺境伯領は酷い』
ーー国境付近の流出は多く、
『攻められたらどうなるのか』
ーー兵力減の不安から民がさらに減り、
『国の予算も下がる一方だ』
ーー民が減るほど国は貧しくなり、
『壊れた橋が放置されているのそのせいか』
ーー公共事業も進まない。
『だから大使が犯行に及んだのでは』
ウィンランド伯爵は数年にわたって、外交のたびに隣国へ相談を持ちかけていたという。
が。
「さすがに安直かと思います」
エヴァ・ガーデナーは、真剣な表情で異議を唱えた。
丸いテーブルには二人分のカップが置かれ、温かな湯気が立ちのぼっている。
「ウィンランド卿は思慮深くて聡明なお方です。そのようなことをするとは考えられません」
迷いなく断言するエヴァの向かいには、彼女より2歳上の公爵令息がひとり。
椅子の背もたれに身を預けだらりと座っているが、下品さはなく様になっているのが不思議だ。
「それってエヴァ嬢の主観でしょう?」
「違います」
「じゃあ伯爵のご子息である貴方の婚約者殿も?」
「レネは、まったく思慮深くないですけれど……だからこそ無実なのです」
「そっちは主観?」
すぐに答えられず、一瞬止まる会話。
無言のまま細い顎が上下したのは、肯定の仕草だ。まっすぐな性格を表すようなコーラルオレンジの髪が肩から滑り落ちた。
「婚約者である以前に幼馴染ですから。レネの性質はよく理解しているつもりです」
「まあ、そうだろうね」
何でも無いことのように受け流した令息は、あっさりと同意を示す。
「色々と噂をかき集めてみたが、あの大使なら自身が疑われるようなやり方はしないだろう。しかもご子息に加担させるなど愚策も良いところだ」
ただし、と一旦区切ったその口が香り豊かなハーブティーを含む。
美味しかったのか、もしくは香りがお気に召したのか。綺麗に弧を描く淡い唇へ、エヴァの視線が止まった。
「カタリンドへの移住が増えているのは事実だからね。それに聖女が狙われたということは、単純に考えれば聖女の存在が誰かの不利益になっているということだ」
令息の言葉に、エヴァは背筋をピンと伸ばしたまま何とも言えない顔をした。
「ユーリ様も……」
続けようとして、これは秘密なのだと思い直し口をつぐむ。人払いはされているが、用心に越したことはない。
(ユーリ様も魔法が使えるのだから、聖女様と同様に危険なのでは...…)
「貴方が秘密を守ってくれるなら、私のことは大丈夫」
エヴァの心を読んだかのように、令息ーーユーリ・デライトは薄く微笑んだ。
*
婚約者のレネが、容疑者である父親を幇助した疑いで拘束されたと知った日。
嵐の中で、エヴァはユーリと出会った。
ユーリはデライト公爵家の次男である。
ソルン王国の貴族でその名を知らない者はいないだろう。社交に興味のないエヴァですら、友人に姿絵を見せて貰ったことがある。
ウェーブがかった肩上までの髪は柔らかそうで、アッシュブロンドの落ち着いた輝きが特に美しく描かれていたのが印象に残っていたのだ。
初めて会った時にフードで隠れていた顔立ちは、絵よりも実物の方がバランス良く整っていることを後で知った。
あの嵐の日。
エヴァは"夢見の魔法"をかけられた。
土砂降りの雨、暗い空。街のはずれの裏路地に魔法使いが佇むのを夢に見た。
『目覚めたら夢と同じ場所へ一人で来ること。大切な人を助けたいのなら魔法使いが力を貸す』
信じがたいメッセージが夢の中に降りてきて、エヴァは目覚めた。
屋敷をこっそり抜け出したのも、たった一人で裏路地に行くのも初めてのこと。恐怖を受け入れたエヴァは、婚約者とその父親を助ける力を欲した。
嵐の中で仄かな光を纏う魔法使いは、顔をフードで隠し黒ずくめの格好をしているのに、なぜかハーブの香りのように爽やかな気配がした。
なぜ助けようとしてくれるのか。
エヴァは理屈を考える前に、差し出された手に縋ることを決めた。
魔法使いの正体が、かの有名なユーリ・デライトだと判明したのは直後のことだ。
ずっと隠し通しているその秘密を彼が明かすのは、エヴァを含めてごくわずか。
他の魔力持ちに気づかれそうなものだが、どうやって隠匿しているのか、と問えば。
『低次のものは高次のものを認識できない』と彼は言った。
つまり、ユーリの魔力は誰よりも強いのだ。
カタリンドの聖女を凌ぐほどに。