価値観 / 初めての感情
ガシッと今度は横からアッシュに肩を掴まれ、今日はよく誰かに掴まれるなあと呑気に感じた。
アッシュが眉を下げ、はくはくと小さく口を動かす。
何やら言いたいことがあるようだ。
必死に喋ろうとしているのが分かった。
肩に乗せられた手に触れる。
「ゆっくりでいいよ」
アッシュが話そうとしている。
多分、かなり勇気と努力を必要としているはずだ。
何度か深呼吸して、口を開けたり閉じたりして、やっとアッシュは一言だけ口に出せた。
「しぬ、な」
そう言ってギュッと肩を握られる。
たった一言だ。
でも、この一言のためにアッシュがどれだけ頑張ったのか想像がつく。
人前で喋らない人が言葉を発する。
それは本人にとってもストレスなはずだ。
それでも話したいと思ってくれたのだろう。
肩に乗っていた手をわたしもギュッと握る。
「ありがとう」
別に死にたいわけではないが、生きることに貪欲というわけでもないわたしだけれど、こうして生きていて欲しいと願ってくれる人がいるのは嬉しいことだ。
「アッシュはわたしに生きていて欲しい?」
アッシュが二度、頷いた。
その必死な姿が少し可愛い。
ジッと見つめられて笑みが浮かんだ。
「じゃあ、そうならないように気を付けるね」
手を伸ばして、縋るように見つめてくるアッシュの頭を撫でる。
どうしてアッシュがわたしにここまで懐いているのかは知らないが、望まれているというのは、案外幸せな気分である。
よしよしと頭を撫でていれば、次第に肩を掴むアッシュの手の力が弱くなっていく。
安心したのか肩から手が外れた。
そうして当たり前のように手を繋がれる。
「……お前、頭おかしいんじゃねーの?」
ラッセルの言葉に「うーん……」と考える。
「別におかしくないよ。まあ、普通の人よりかはそんなに生きるってことに執着してないかもしれないけど」
「いや、そこがおかしい」
「そう?」
イマドキの子なんてそんなものじゃない?
だがラッセルさんが本当に変なものでも見るかのような目で見てくる。
「普通は生きたい、死にたくないって思うもんだろ。今まで会った奴はみんなそうだった」
「へえ〜」
この世界の人は真面目だな、と思う。
ゾンビ──……新人類と人間が鬩ぎ合う。
そういう世界だからこそ、そう感じるのかもしれない。
死にたくない。生きたい。
生物としては至極単純で本能的な欲求だ。
それを感じなくなっていた元の世界の方が、言われてみればおかしいと感じるのも頷ける。
「まあ、死ぬのを後悔するほど大事なものもないからなあ」
そういうものがあれば違うのだろう。
……考えたこともなかったっけ。
そんなもの、欲しいとも思わなかった。
わたしが一番持っているのは睡眠欲だと思う。
とにかく眠りたい。
思い出すと、ふあ、と欠伸が漏れる。
「ところでラッセルさんは何しに来たの?」
思い出したついでに訊いてみる。
「あ? 何って兄貴の顔見に来ただけだ」
「アッシュと仲良いんだね」
「そりゃあ、そうだろ。兄弟なんだし。お前、兄弟はいないのか?」
「いないよ。一人っ子」
兄弟がいる人を羨ましく思ったこともあったけれど、今は、やっぱり一人の方が気楽でいいと思う。
「ああ、なんかそんな感じする」
ラッセルさんが納得した顔をした。
「ねえ、人間ってどんな感じ? わたし、気付いたらこの街に放り出されてたんだ。自分のことは分かるけど、常識とか世界情勢とか、全然知らないんだ」
ラッセルさんが眉を寄せた。
「なんだそれ。じゃあお前どこから来たんだ?」
「さあ? 分からない」
「自分のことも分かってねーだろ、それ」
指摘されて、そうかも、と頷いた。
……わたし、なあんにも分からないんだなあ。
「ははは、わたし赤ちゃんかもね」
「笑い事じゃねーよ」
ラッセルさんにツッコミを入れられた。
「逆だよ、あんまりにも自分は無知だなって実感したから笑うしかないんだよ」
ベイジルさんとラッセルさんが顔を見合わせる。
そしてラッセルさんが、はあ、と溜め息を吐いた。
「あー、なんっつーか、上手く言えないけど、お前が新人類に害意がないってことは分かった。むしろオレ達のこと、わりとどうでもいいだろ?」
その言葉に苦笑が漏れる。
「全く何とも思ってないわけじゃないよ」
「だから『わりと』って言っただろ。……兄貴のこともどうでもいいのか?」
問われて考えてみる。
「アッシュはそこまでどうでも良くないかな。やっぱり最初に出会った人だし、こうして一緒に暮らしてるし、いなくなったら寂しい……かも?」
「『かも』かよ」
「ごめん、わたし一人でいることの方が多かったから、こういうのよく分からない」
そう答えれば何故か全員が押し黙った。
何故かベイジルさんがラッセルさんを肘でつついて、ラッセルさんがバツの悪そうな顔をする。
「……悪い、嫌なこと聞いた。誰にだって話したくないことの一つや二つあるよな」
……何か勘違いされている気がする。
「いや、別に気にしないけど」
むしろ何をどう勘違いされたのか。
それ以上はこの話題には触れて来なかった。
「お前、ずっと兄貴のところにいる気か?」
それには頷き返す。
「アッシュに出ていけって言われるまでは居座る気」
アッシュが横で首を振っている。
出て行けとは思っていないらしい。
それに内心で少しだけ安堵する。
……良かった。
行く当てもないので置いてもらえるのは助かる。
「そういえば、何でアッシュはわたしをここに置いてくれるの?」
アッシュは何も言わなかった。
もしかしたら、アッシュ自身も上手く言葉に表現出来ないのかもしれない。
わたしがアッシュの冷たい体温に安心するように。
本来、人間は他者との触れ合いや体温を感じることでストレスが緩和されるらしい。
でもわたしの場合は他人との触れ合いは苦痛だった。
どうしても人の体温が生理的に受け付けない。
あの温かさを感じると鳥肌が立つ。
だから新人類のアッシュの、ひんやりと冷たい体温は酷く安心する。
「こちらとしましても、デイヴィットがここまで誰かに関心を向けるのは珍しいことなので、リノさん自身の研究も兼ねてここにいていただきたいと考えております」
「そうなんですね」
それならば、まだしばらく追い出されることはないだろう。
ラッセルさんが頭を掻いた。
「兄貴とベイジルがいいなら、いいけどさ」
アイスブルーによく似た水色の瞳に見つめられる。
なんだろう、と首を傾げれば、視線を逸らしてラッセルさんは膝を叩くように立ち上がった。
「とりあえず、兄貴の顔も見たしオレは帰る」
「またな」と言って冷めたコーヒーを飲み干し、ラッセルさんはリビングを出て行った。
アッシュが立ち上がって、その後を追う。
……お見送りかな?
ベイジルさんも冷めたコーヒーを飲み干した。
「ラッセルとデイヴィットが喧嘩しなくて本当に良かったです。それでは、私も失礼しますね」
「あ、はい、お疲れ様でした?」
疑問形のわたしの言葉にベイジルさんが苦笑する。
そしてベイジルさんもリビングを出て行った。
…………疲れた。
ぽふりとソファーに倒れ込む。
ふかふかのソファーは難なくわたしを受け止めた。
眠気のままに目を閉じる。
すとん、とわたしは眠りに落ちた。
* * * * *
弟の見送りをしに玄関へ向かう。
すると、ラッセルがデイヴィットに振り向いた。
「全く、兄貴もほんっと変なの拾ったよな」
それがリノを示していることはすぐに分かった。
デイヴィットはそれに否定も肯定も出来ない。
リノが普通とは違うのは本能的に理解している。
人間だけど人間じゃないような人間。
見た目も、多分体も人間なのに、今まで見てきたどの人間とも違う。人間らしくない人間。
それがデイヴィットがリノに感じるものだった。
「デイヴィット、ラッセル」
少し遅れてベイジルがやって来る。
「もしかしたらリノさんは人間側が研究か何かで生み出した新たな人間の可能性もあります」
デイヴィットとラッセルがベイジルを見た。
「どういうことだ?」
ラッセルの問いにベイジルが声を落とす。
「実は、リノさんの身体検査の結果、彼女の体には複数の病に対する抗体、そして注射の跡が検出されたそうです」
「つまり?」
「リノさんは実験体の一人で、複数の病のワクチンを打たれたり病にかかったりさせた後でわざと放置されたのかもしれません。我々新人類から『感染』するか、その後どうなるか、確認するために。それか失敗した実験体として廃棄されたか……」
デイヴィットとラッセルの表情が強張った。
この二人はそれぞれ幼いうちに研究所に『捕獲』されたので、その可能性に気付いたらしい。
十七歳と言っていたが、あの年齢まで常識や世間のこと、そして新人類を知らないまま育つということはありえない。
それこそ人々から隔離されでもしない限り。
そしてリノ自身「一人でいることが多かった」と言っていたのも、実験体として隔離されていた可能性を高めている。
リノが自分の命に無頓着なのも、新人類の脅威にさらされることもなく、どこかの研究所で隔離されて生きてきて、命の危険を感じたことがないからだろう。
複数の病のワクチンを打ったり、病にかからせて抗体を作らせた後、新人類の中に放り出して経過を観察していたのかもしれない。
だが、研究所からの報告では体内または体外にマイクロカメラやマイク、位置を報せる類の機器はなかったという。
そうだとしたら、残る可能性としては不要になった実験体だから適当な場所に廃棄したか。
リノは人間なので新人類の多い区域に放り出せば、本来ならば殺されるか『感染』させられる。
どちらかと言えば前者の方が多いだろう。
そうなれば人間側の研究所としては実験体を処分する手間が省ける。
「もしそうだとしたら、リノさんはある意味では成功体でもあります」
ベイジルが眼鏡のツルを押し上げる。
「その成功体であるリノさんを人間側に戻すのは我々からしても得策とは言えません。そしてリノさんも恐らく自分が実験体であることを理解していない。そうであるとしたら我々があえてそれを口にする必要もない。彼女を保護しておいた方が新人類にとっても良いでしょう」
デイヴィットの頭に浮かんだのは、かつて研究所で受けた実験の数々だった。
デイヴィットほどでないにしろ、リノがもしも何かしらの実験をさせられていたとしたら人間側に戻さない方がリノのためにも、新人類側にとってもいい。
リノがよく眠るのも、研究所で隔離されて、それ以外にすることがなかったからかもしれない。
「……確かに、そうだとしたら新人類側に置いといた方がいいかもな」
ラッセルの言葉にデイヴィットも同意で頷いた。
「では彼女はデイヴィットの元に置いておくという方向で。他の幹部達にもこの可能性を伝えておきます」
「ああ」
「……」
そうしてベイジルとラッセルを見送り、デイヴィットはリビングへ戻った。
リビングのソファーにはリノが眠っていた。
いつも、ほぼ眠っているリノが今日はラッセルが来たことによっていつもより長く起きていた。
きっと疲れたのだろう。
眠っているリノを見下ろす。
こんなに細くて小さいのに十七歳。
十二、三歳くらいと思っていたので予想外のことにデイヴィットは驚いたが、年齢が近いと知って、何となく嬉しい気持ちになる。
手を伸ばし、リノの手に触れる。
温かな体温にホッとする。
……リノには生きていて欲しい。
デイヴィットも自分で自分の気持ちがよく分からないが、リノには死んで欲しくないと思った。
リノが死ぬと考えるだけで胸が苦しくなる。
……一緒にいたい。
昔は両親と弟と引き離されて、苦しくて、痛くて、悲しくて、怒りで、飢餓衝動もあってとにかく暴れていたが、本当は誰かとこうして一緒にいたかったのかもしれない。
今はリノが横にいるだけでいい。
まだ家族四人で暮らしていた頃の、微かに記憶に残っている幸せだった頃のような、温かい何かが胸に広がる。
デイヴィットは手を繋いだまま絨毯の上に座る。
ベッドへ移動させたら起こしてしまうだろう。
ソファーに頭を乗せ、ぼんやりと眠るリノの寝顔を見た。
……かわいい、と思う。
あまり女性をまじまじと見たことはないが、素直にリノはかわいい顔立ちだと感じた。
黒いぱっちりした目にちょっと低い鼻、小さな口、黄色っぽい肌と真っ黒な髪は見かけないので自然と目が行く。
繋いだ手の感触で、肌が柔らかいのも知っている。
……こんな子を放り出すなんて。
きっとリノ一人ではこの世界では生きていけない。
リノは素直すぎるから、あっという間に人間達に騙されてしまうだろう。
同族の新人類にもあっさり騙されてしまいそうだ。
この温かさを手放したくない。
もう一度、繋いだ手を握り直しながらデイヴィットは思った。
……俺が守らなきゃ。
それはデイヴィットが新人類になってから、初めて他人に感じた明確な好意だった。