研究所
この暮らしを始めて五日。
オズボーンさんがアッシュの部屋に訪れた。
ここはマンションの最上階で、どうやらワンフロア丸々、アッシュ専用の居住スペースらしい。
居住スペースは広々としたLDKに浴室と脱衣所、トイレ、そして部屋が三つ。そのうち一部屋は二つに間仕切り、二部屋に分けられるようになっている。
一番広い部屋がアッシュの部屋だ。
わたしも最初は別の部屋で寝ていた。
でも、何故か気付くとアッシュが同じベッドに入って来ていて、ソファーで寝ても、目が覚めると側にいた。
どこへ移動しても側についてくるので、それならばと今ではアッシュの部屋で寝ている。
これがアッシュ以外の男性だったら絶対にそんなことはしないのだが、わたしが寝ていても、アッシュは何かをすることはない。
本当にただ同じベッドで横に寝ているだけだ。
精々、触っても手を繋ぐくらいである。
大きな体だけど、性格はむしろ控えめで、わたしの後にくっついてくる姿はまるで鳥のヒナみたいだ。
かと言って全く自分の行動が出来ないわけではなく、それなりに意思はあって、たまに他の人と何やら電話をしたり、玄関で話をしていることもあった。
……何もない時はわたしの横にいるけど。
ここでは食べ物は基本的に調理済みのもの、つまりお弁当として配給される。
掃除や洗濯も専門の人達がいる。
だからわたしはやることがない。
この五日、わたしはとにかく寝て過ごした。
そのおかげか今までで一番体が軽い気がする。
「こんにちは、デイヴィット、リノさん」
だからオズボーンさんが訪ねて来た時も、わたしは上機嫌だった。
「こんにちは、オズボーンさん」
「私もベイジルで構いませんよ。デイヴィットとの暮らしはいかがでしょうか?」
「快適な安眠生活を送れています」
わたしの顔を見たオズボーンさん、いや、ベイジルさんが「そうなんですか?」と小首を傾げた。
「そのわりには目元のクマは薄くなりませんね」
……結構直球で物を言う人だなあ。
思わず苦笑してしまう。
「元々、いつも寝不足なもので……」
「睡眠時間が足りていないのですか?」
「いえ、そんなことはないと思いますけど。多分体質というか、寝ても寝ても、いつも眠くって」
「それは大変ですね」
「ふむ」とベイジルさんが考える仕草をする。
話をしている間、アッシュはわたしの横に立って、わたしの手を握っている。
アッシュはアッシュで微動だにしない。
「では丁度良いかもしれませんね。先日お話していた研究の件について声をおかけしに参りました。研究所の者は医師なので、ついでに診ていただくのはどうでしょう?」
……なるほど、お医者さんか。
常に眠いには眠いけれど、耐え切れないほどではなかったので、お医者さんに診てもらうなんて考えもしなかった。
頷こうとして、くん、と腕を軽く引っ張られた。
横を見ればアイスブルーの瞳に見下ろされる。
「どうかした? アッシュ?」
手が離され、そして両腕で抱き締められた。
アッシュは黙ってベイジルさんを見る。
「大丈夫ですよ、デイヴィット。研究と言っても少し採血をしたり、問診やレントゲンなどを行なったりするくらいです。彼女に危害を加えるようなことは行いません」
「…………」
「そんな怖い顔をするくらいなら、あなたもついて行けば良いではありませんか」
アッシュがベイジルさんの言葉にキョトンとした。
やや間を置いてわたしを見る。
「……ついて来る?」
こっくりとアッシュが頷いた。
「では、もしよろしければこれから研究所へ向かっても大丈夫ですか?」
「はい、わたしは大丈夫です」
またアッシュが頷き、わたし達はエレベーターに乗って階下へ向かう。
ちなみにベイジルさんは仕事があるとかで、タクシーを呼んであるから、それに乗って行くようにとのことだった。
一階のホールへ出るとアッシュが正面玄関へ向かって歩き出し、手を引かれてついて行く。
玄関の外にはきっちり制服らしきものを着込んだ人が立って待っており、高級そうな黒塗りのやや車体の長いタクシーが停まっていた。
アッシュとわたしが出るとドアが開けられる。
どうやらわたしについて話が通っているらしい。
運転手だろう人は静かにドアを閉め、車体の前方を回って左前の運転席へと乗り込んだ。
そして、スーッと流れるように走り出した。
静かな車内には殆どエンジン音も聞こえないし、外の喧騒も聞こえない。
「うわ……」
滑らかな走りに思わず車窓を眺めてしまう。
窓は外から見えないように暗い色がついており、内側からは外が比較的よく見える。
窓の外は元の世界と似た景色が広がっている。
背の高いビル群に大勢の人々が行き交う雑踏。
音はほぼ聞こえないけれど、きっと元の世界に似て、人の声や足音なんかでそれなりに騒がしくなっていることだろう。
外を見ていたら、ガラスにアッシュが映った。
振り向けばアッシュがこちらを見ている。
「アッシュ、この車凄いね。スーって動いてる。こんなに揺れない車って初めて。アッシュは乗ったことある?」
アッシュがこっくりと頷いた。
「もしかして結構何度も乗ってる?」
またこっくりと頷いた。
「そうなんだ、アッシュも凄いんだね」
今度はアッシュは小首を傾げた。
この様子だと、きっとこのタクシーに乗ることはアッシュにとってはごく当たり前のことなんだろう。
でも少し置いてギュッと握る手に力がこもる。
この五日間で気付いたが、アッシュが何か感じたり思ったりした時、手を握るクセがある。
だがアッシュは全く言葉を口にしない。
もしかしたら色々考えているのに、言葉として上手く外に出せないのかもしれない。
元の世界の友人にもそういう子がいた。
今は普通に話せているけれど、初めて会った時は全然喋らない子だった。
「アッシュ、焦らなくていいよ。ゆっくり、少しずつ、話したい時に話せばいいんだよ」
アッシュの手を握り返す。
アイスブルーの瞳が僅かに見開き、そして頷いた。
こういう子はいきなり話せと言うとストレスを感じるし、それが余計にプレッシャーとなってしまう。
だから、今はこれでいいんだ。
本当に必要になればアッシュは話せる。
それはもう分かっている。
そんなことをしているうちに、タクシーは街中を進み、そうしてどこかの敷地に入った。
そこは周囲を鉄柵と鉄網で厳重に囲まれていた。
「ご到着いたしました」
タクシーが停車し、運転手が降りて車体の前方を回ってこちらに来るとドアを開けてくれた。
「ありがとうございます」
そう声をかけると一瞬驚いた顔をされた。
……あ、そっか、わたし人間だからあんまり話しかけたりしない方がいいのかな?
襲われないので多分、彼らの言う飢餓衝動は感じていないのだろうけれど、だからと言って完全に敵意を感じないとも限らない。
慌てて浅くお辞儀をしてそそくさと車から降りる。
アッシュは慣れた様子で降りてくる。
一度離れた手を握り直された。
建物の出入り口には白衣姿の人が立っていた。
それを見たアッシュの足がピタリと止まった。
……震えてる?
繋いだ手からほんの僅かな震えが伝わってくる。
……そういえば、アッシュはこの世界で一番最初の『新人類』だと言っていた。
それは、つまり、今のわたしのように何かの研究対象として扱われた可能性があるということだ。
怯えてる様子からして酷いことをされたのかも。
「アッシュ」
手を離して、俯くアッシュの顔に手を伸ばす。
触れた頬はとても冷たい。
元より冷たいけれど、いつもに増して体温が低いように感じる。
「大丈夫、アッシュは何もされないよ。それにわたしも。大丈夫。大丈夫だよ」
言い聞かせるように何度も「大丈夫」と口にする。
そのうち、段々とアッシュの震えが収まっていき、震えが止まるとアッシュが顔を上げた。
アッシュの頬から手を離すと、手を繋がれる。
ギュッと握られて少し痛かったが構わない。
「もう平気?」
アッシュがこっくりと頷いた。
それを確認して体の向きを戻した。
「すみません、お待たせしました」
そこに立っていたのはオリーブグレーの短髪にくすんだ緑の瞳の、白衣を着た人だった。
白衣の下は無地のシャツにジーンズで、見た感じ、格好良い女性のようにも、線の細い男性のようにも見える。
「いいえ、問題ありません。ようこそ、新人類研究所へ。お待ちしておりました」
声もややハスキーで、女性にしては低いような、男性にしては高いような声だ。
……性別が分からない。
「初めまして、古坂理乃といいます。理乃が名前で、古坂が家名です。よろしくお願いします」
お辞儀をすると頷かれた。
「ドリス=バゼット、コサカ様の調査と診察を担当する医者です。研究員でもあります。よろしくどうぞ」
淡々とした言葉にわたしも頷いた。
アッシュは警戒しているようだった。
「ここではなんですので中へお入りください」
「分かりました」
そうして研究所の中へ案内される。
アッシュの手を引いて歩き出す。
研究所の中は病院に似ており、白で統一され、どこか冷たい感じがする。
しっかりとアッシュの手を握り直した。
……この手は離さない方が良さそうだ。
* * * * *
研究所は嫌いだ。
どこを見ても白くて、冷たくて、寒い。
研究員であり医師でもあるという者の案内で研究所へ足を踏み入れた。
病院のような薬品の匂いが微かにする。
この匂いもデイヴィットは苦手だ。
つい二年ほど前まで、デイヴィットも似たような感じの研究所で隔離されていた。
そして毎日、痛い思いをした。
思わず思い出してしまい、体が小さく震える。
すると、ギュッと手が握られる。
リノと繋いだ手から伝わる体温で我に返る。
……もう檻の中じゃない。
デイヴィットは今は自由だ。
「こちらへどうぞ」
案内をしていた者が部屋の扉を開けた。
もしこの者がリノに痛い思いをさせたり、何か無理にさせようとしたら、デイヴィットはすぐに止めるつもりだ。
本能的にデイヴィットの方が強いことは分かっている。
横を通り抜けて室内へ入る。
中の様子はどちらかと言えば病院に近い。
「そちらの椅子におかけください。ウォルトン様も、椅子をご用意いたしますね」
扉を閉めた研究員が椅子をもう一つ運んでくる。
横に二つ並んだ椅子にリノと一緒に座った。
「それでは、まずは問診から始めさせていただきます」
淡々とした様子と白衣にデイヴィットは、やっぱり研究所は苦手だと思ったのだった。
* * * * *
問診は至って普通のものだった。
むしろその間、アッシュの方が落ち着かない様子だった。
手を繋いでいたので何となく不安や戸惑いを感じているのが伝わってくる。
……苦手なら家にいればいいのに。
でも、きっとわたしのことを心配してついて来てくれているのだろう。
そう思うと少しくすぐったいような気持ちになる。
……本当に凄く懐かれたなあ。
「では次に採血をさせていただきます」
体重と飲んでいる薬がないか確認される。
そうして注射器で血を採られた。
……採血用の注射針って普通のより太くて痛いんだよね。跡が残ったりするし。
アッシュは注射が嫌いらしく、わたしが採血されている間、ちょっと身を引いて顔を背けていた。
アッシュは体は大きいが子供っぽい。
その後はレントゲンを撮ったり身体測定をしたりしたが、研究員でありお医者さんでもあるバゼットさんからは「健康そのものですね」と言われた。
ただ目元のクマだけは訊かれた。
「寝不足ですか?」
「えっと、そうですね。いつも眠いと言いますか、寝ても寝ても寝たりないと言うか……」
「もしかして夜に何度も目が覚めたり、早朝に起きたりしますか? 寝つきが悪いということは?」
「寝つきはいいと思いますけど、何度も起きたり早朝に目が覚めたりというのはあります」
バゼットさんが頷いた。
「では軽めの睡眠導入剤を出しておきましょう」
わたしのカルテだろうものにペンを走らせている。
「薬の準備をしますので少々お待ちください」
そうしてバゼットさんが立ち上がり、隣室へ消えていった。
きちんと扉が閉まってからアッシュへ問う。
「アッシュ、大丈夫?」
アッシュがこっくりと頷いた。
でもどこか疲れている風に見える。
「ごめんね、あとちょっとだろうから」
またアッシュはこっくり頷く。
「……アッシュは研究所、嫌い?」
今までで一番強く頷き返された。
……やっぱりそうなんだ。
「次はわたし一人で来た方がいいんじゃない?」
今度はアッシュは首を振った。
次もついて来るつもりらしい。
「でも……」
ジッとアイスブルーの瞳に見つめられる。
言葉はないけれど、微かに揺れる瞳はわたしのことを心配してくれているのは分かった。
……ちょっと心配性な気もするけど。
「じゃあ、一緒に少しずつ慣れていこうか」
繋いだ手をギュッと握ると同様に握り返される。
その手はわたしの体温で温かくなっていた。