平和な生活
朝、ふかふかのベッドで目を覚ました。
真っ白いシーツに黒い毛布。
毛布はてろんてろんのとろけるような触り心地で、肌に触れている部分はまるで雲に包まれているみたいだ。
窓のカーテンの隙間から光が差し込んでくる。
……まぶしい……。
寝返りをしてもベッドはぎしりとも鳴らない。
大きなキングサイズのベッドである。
横のシーツは冷たかった。
どうやらアッシュはもう起きているようだ。
ぼんやりとベッドの上に転がったまま、天井を見上げる。
ここで暮らし始めて三日になるが、本当にアッシュは新人類のボスのようで、食事や清掃をしに来る人達はいつも恭しくアッシュに接している。
わたしのことは聞いているみたいだが、物凄く距離を感じるか、完全に無視されるかである。
清掃中、アッシュはテレビを眺めており、わたしもその横でうとうとしていることが多い。
……そろそろ起きようかな。
ふあ、と欠伸をこぼしつつ起き上がる。
寝室から廊下へ出る。
洗面所へ向かい、置いていた髪ゴムで髪を纏めてから顔を洗う。
ここへ来た当日の夜に、ベイジルさんがありがたいことに必要なものを全て用意してくれたのだ。
歯ブラシなどの日用品から化粧水、服、下着──下着は女性が用意してくれたそうだ──など、必要なものを段ボール箱に三つ分も詰めて持ってきてくれた。
おかげでわたしは困ることがない。
顔を洗ってタオルで拭い、化粧水や乳液、クリームなどを塗る。
入っていたので使っているが、元の世界でもここまでしっかりお肌の手入れはしてこなかった。
しかもここに来てから、わたしはこの部屋から出ていない。
三日間、食っちゃ寝生活をしている。
……ここは天国かな。
髪を解き、軽くうがいをして、リビングへ向かう。
扉を開けて声をかけた。
「おはよう、アッシュ」
アッシュは大抵リビングにいる。
三、四人座れそうな大きなソファーの真ん中に座って、テレビを眺めていたアッシュが顔をこちらに向けて頷いた。
「……もうお昼は食べた?」
また、こっくりと頷いた。
時間は正午を少し過ぎたくらいだ。
アッシュはいつも規則正しい生活を送っているようで、時間になると食事をし、それ以外はリビングでぼんやりテレビを眺めている。
特にこれと言って見たいものがあるようではなく、わたしがテレビの番組を変えてもアッシュはそれを眺めていたので、テレビが好きというわけでもなさそうだった。
繋がっているキッチンへ移動して、冷蔵庫からお弁当を取り出す。
温めるのが面倒臭くて、そのまま、使い捨てのスプーンとフォークも持ってリビングに戻る。
わたしがそんなことをしている間もずっとアッシュはわたしを目で追っている。
お弁当を手にアッシュのところへ行く。
そしてテーブルにお弁当を置いて床に座る。
床と言ってもテーブルのところには毛足の長いふかふかの絨毯が敷いてあるから痛くない。
「いただきます」
両手を合わせてから、お弁当のフタを開ける。
朝食はいつも食べないので代わりにアッシュが食べてくれている。
これは昼食用に運ばれてきた分だ。
今日は野菜たっぷりパングラタンらしい。
……温めた方が良かった?
でも、立つのも面倒臭い。
まあいいやとスプーンを突き刺して、ざっくり掬い取り、口に運ぶ。冷めてても結構美味しい。
温めたらもっと美味しいかもしれない。
もう一度、まあいいやと思い手と口を動かす。
さほど多くないため、あっという間に食べ切った。
お弁当のケースとスプーン、フォークを持って立ち上がり、キッチンへ向かう。
ゴミを分別して捨ててリビングへ戻った。
アッシュの横に座る。
すると、待っていたようにアッシュがわたしの手を握った。
握るというよりかは触れると言う方が近いような、本当に手を重ねただけのそれに握り返す。
テレビへ目を向ければニュースキャスターが本日のニュースを伝えているところだった。
どうやら新人類は順調に世界を征服しつつあるようだ。
そのうち、人間はわたしだけ、なんてことになる可能性もある。
……それならそれでも別にいいけど。
繋がっているひんやりした手が心地好い。
ふあ、と欠伸が漏れる。
起きたばかり、食べたばかりでもう眠い。
このままでは太るかもしれない。
だが、迫り来る眠気には抗えない。
「おやすみ、アッシュ……」
ソファーの背もたれに体を預けて目を閉じる。
適温に保たれた快適な室内で、満腹で、ふかふかの居心地の好いソファーで。
眠らないという選択肢はわたしにはない。
* * * * *
すぅ、と聞こえる呼吸音にデイヴィットはテレビから視線を横へ向けた。
自分よりもずっと小さくて、細くて、初めて見る黄色っぽい肌色の女の子。
ベイジルのような黒髪だが、それよりも黒々として真っ直ぐな髪だ。
閉じてしまったが目も黒い。
繋がった手からも力が抜けている。
自分よりも小さな手だ。
だが、不思議とこの手に引かれて歩く時間が嫌ではなかった。
デイヴィットは人間が嫌いだ。
人間は痛いことをしてくるし、父と母を殺されたし、あの飢餓衝動とかいう苦しい思いをすることになるし、人間を殺している間、デイヴィットは本能のままに行動してしまう自分自身も嫌いだった。
しかし新人類達は最初の新人類であるデイヴィットを頂点とした。
確かにデイヴィットは他の新人類よりも強い。
そして生きるためには人間に抗わなければ、こちらが殺される。
人間はデイヴィットを見ると殺そうとしてくる。
デイヴィットも人間を見ると殺したくなる。
殺したくないが殺すしかない。
同族が殺されるのを見るのはもっとつらいから。
新人類は仲間意識が強い。
人間が新人類を殺せば殺すほど憎いと感じる。
本能的に同族をどれくらい殺しているか分かる。
同族が殺されたと感じると悲しみと憎しみで頭がいっぱいになり、気付くと人間を殺している。
ある程度は飢餓衝動を抑えられるけれど完全ではない。
血だらけの手を見る度に思う。
この世界はつらいことばかりだ。
弟は弟なりにこの世界を楽しんでいるみたいだが、何が楽しいのかデイヴィットには分からない。
ギュッと手を握られてデイヴィットはそれを見た。
小さくて柔らかな手だ。
数日前、デイヴィットは新人類居住区外に出た。
そこに人間達が集まっていると報告を受けた。
その人間達が、街に入らず、少人数で暮らしている他の新人類のグループを殲滅して回っており、そんな人間達を殺すために出かけていた。
デイヴィットにかかればそう難しい話ではない。
ただ、今回は事前情報よりも人数が多かった。
予想以上の活動と燃費の悪さで、デイヴィットは全ての人間を殺し終えた後、居住区へ戻る途中で動けなくなった。
何とか食べるものを探そうとバイクを降りたが、そう遠くへ行けるはずもなく、動けなくなった。
数日経てばベイジルか誰かが気付くだろう。
……そのまま死んでもいい。
デイヴィットはそう思っていた。
けれども地面に倒れて半日ほど経った頃、その足音は近付いて来た。
軽くて、静かで、気の抜けた音。
この人間と新人類とで争う世界に似合わないくらい、無防備な足取りの音だった。
その足音は少し離れた場所で一度止まった。
そしてデイヴィットを避けるように少しだけ遠回りするように歩き出した。
気配からして同族かと思った。
少なくとも人間の臭いと気配ではない。
……腹減った……。
そう思うと腹の音が大きく鳴り出した。
何度も鳴るそれに足音は立ち止まった。
立ち止まったのは数秒で、その足音はコツコツとデイヴィットに近付いて来て、声をかけられる。
「あの……」
女の子の声がした。
高く、けれど騒がしくない声だ。
少し戸惑ったような声だった。
「えっと、パン食べる?」
……食べ物?
思わず口が開いていた。
足音は頭の方へ回ると、ガサゴソと音がして、目の前に不思議なパンが差し出された。
だが空腹だったので構わず食いついた。
……美味しい。
パンと麺という変な組み合わせだが美味しい。
しかしすぐに食べ切ってしまった。
……足りない。
「ちょっと待って」
声がして、またガサゴソと音がして、食べ物が差し出された。
これは知ってる。サンドウィッチだ。
それからは甘いお菓子も差し出された。
差し出されたものを全てデイヴィットは食べた。
食べ終えても思わず差し出された指の匂いを嗅いで、そこでようやく、目の前にある手が青白くないことに気が付いた。
……人間……?
「ごめん、もう食べ物はないんだ。ごめんね」
そう言う声は優しかった。
これまで人間がデイヴィットに向ける声は敵意や害意に満ちていて、怒りや悲鳴など、耳につくものばかりだった。
こんなに優しい声をかけられたことはない。
…………いや、あった。
まだ自分が人間だった頃、父や母はこんな風に優しい声でデイヴィットに話しかけてくれた気がする。
もう、かなり前のことで記憶は曖昧だ。
……顔を見てみたい。
食べ物を食べたおかげで体も動く。
体の下に手を動かし、半日ぶりにゆっくりと起き上がる。服の血は乾いていた。今回は武器を使ったので手は汚れていない。
起き上がると女の子がいた。
ベイジルと同じ黒髪で、目も黒くて、黄色っぽい肌の小さな女の子だった。
女の子の黒い目が丸くなる。
……叫ぶ?
デイヴィットは地面に座り込んだ。
「あなた、ゾンビ?」
しかしかけられた声は違った。
怒鳴り声も悲鳴でもなく、不思議そうな声だ。
「まあ、ゾンビでもいいんだけど。さっきのでもう食べ物は終わっちゃったから、もっと食べたいなら、自分で何とかしてね」
女の子はゴミを手に持って立ち上がる。
土のついた足をぱたぱたと叩いた。
「じゃあね。わたしはもう行くよ。次は空腹で倒れないよう、気を付けてね」
まるで同族に向けるような声だった。
優しくて、けれど冷たくて、不思議な声だ。
女の子は振り返らずに歩き出してしまう。
気付けばデイヴィットは立ち上がっていた。
……ここは危ない。同族も人間もいる。
人間ならばまだいいが、同族なら、もしかしたら女の子を殺すかもしれない。
よく分からないが、それは嫌だと思った。
だからデイヴィットは女の子についていった。
少しの間、後ろを歩くと、女の子が立ち止まった。
振り向いて、こっちを見て、また前を向いて少し歩いたが、立ち止まってこっちを振り返った。
「もう食べ物はないんだけど……」
別に食べ物が欲しいわけではない。
女の子を見下ろす。小さい。
「……わたしの言ってること、分かる?」
……何を言ってるんだろう?
言葉くらい分かる。
「……一緒に来る?」
訊かれて考える。
この女の子はどこへ行くのだろうか。
方向からして居住区とは反対なので、人間達が住む場所に行こうとしているのかもしれない。
そこへ新人類のデイヴィットを連れて行くつもりなのだとしたら、女の子の考えは間違っている。
しかし、女の子のことは気になる。
「おいで」
手招きされて近付くと手を握られた。
誰かと手を繋いだのは多分子供の頃だけだ。
自分の冷たい手とは反対に温かい。
その手に引かれて歩く時間は不思議だった。
人間と新人類が手を繋いで歩く。
ありえない。でも、ある。
そして女の子と手を繋いでいる間、デイヴィットはつらくないことに気が付いた。
いつも痛くて苦しかった胸が軽くなる。
息が吸いやすくて、悲しくない。
触れた手から伝わる温かさが気持ちいい。
そして一日一緒に過ごした後、女の子が安全な場所を探していることを知った。
新人類のデイヴィットが敵意を感じないなら、きっと他の新人類も女の子を襲わない。
誰よりも新人類としての力と本能の強いデイヴィットが大丈夫なのだ。
本能的にそれが分かったので居住区へ連れて来た。
みんな驚いていたが、やっぱり襲わない。
ベイジルは話が分かる。
女の子を見て、話をして、そして理解したのか受け入れてくれた。
それから必要な物も用意してくれた。
女の子──……リノは不思議だ。
一緒にいるとつらくない。
ぼんやりしているデイヴィットにあれこれ声をかけてくることもないし、無理やり何かをさせることもなく、ただ横にいて、大体眠っている。それだけだ。
それだけなのが良かった。
デイヴィットを新人類の頂点と騒ぐこともないし、敵だと攻撃されることもない。
横にいて、手を繋いで、眠っている。
規則正しい寝息に安心する。
……この子は俺を傷付けない。
その優しい手がたまに頭を撫でてくれると嬉しいとすら思う。
……このままでいたい。
緩く握られた手から伝わってくる体温は温かく、デイヴィットの胸の苦しみや痛みがじんわりと消えていく。
デイヴィットもそれに釣られてうとうとと目を閉じる。
ほんのりと日差しが差し込む部屋の中で、二つの寝息が静かに響いていた。
* * * * *