ゾンビとは
「まず、現在この世界では二種類のヒトが存在しています。一つは人間、そしてもう一つが人間からゾンビと呼ばれる我々、私達自身は自分達のことを『新人類』と呼んでいます」
わたしは思わず首を傾げた。
「新人類、ですか?」
オズボーンさんが頷いた。
この世界で彼らの言う新人類が現れたのは、今から十年前の出来事だった。
初めてこの世界に現れた、人間とは異なる体質や力を持つ者。新人類。
その最初の一人がわたしの横に座っているアッシュこと本名デイヴィット=ウォルトンである。
彼は新人類へと変化した当初、一緒に暮らしていた彼の家族と共に『捕獲』され、研究所へ収容されることとなった。
そして世界ではその情報が駆け巡った。
世界初のゾンビ。
当初の彼は当然だが周囲には人間しかいなかったため、強い飢餓衝動に駆られ、凶暴化していた。
しかもそんな彼を見た人々は、彼を人間として扱わなかったせいもあり、彼の凶暴化はより一層強まっていった。
「しかし、そのうちに世界各地で彼のような『新人類』が現れ始めました」
新人類は同族ではない人間を襲う。
どうして新人類が発生したかは不明だが、新人類に変化する過程については解明されつつある。
まず、人間が新人類に噛まれる、もしくは爪などで傷付けられる。
新人類の体から変化の種となる『何か』がこの時点で人間の体へ入るのだ。
「人間達はこれを感染と呼んでいます」
感染すると人間の体に変化が訪れる。
それは人によって多少かかる時間に違いはあるものの、基本的な症状は同じである。
一番最初に感じるのは倦怠感だ。
それから発熱し、腹痛や吐き気、息苦しさなどを感じる。
更に進むと場合によっては全身の痒みや痛みがあり、目が充血し、食欲が増す。この時点で吐き気や腹痛は起こらなくなる。
そして感染から数時間から数日のうちに人間は新人類へと変化を遂げる。
「腹痛や吐き気、全身の痒みや痛みは新人類へと体の構造が作り替えられているからではというのが我々の見解です」
なるほど、と思う。
「人間と新人類の違いはどんなものなんですか?」
「そうですね、それも知っておいた方がよろしいでしょう。彼と生活する上で気を付けることもありますからね」
「……彼と生活……?」
オズボーンさんの言葉に首を傾げた。
わたしはアッシュ、いや、デイヴィットと一緒に暮らすことになるのだろうか。
でもそうなればわたしは助かる。
この世界で暮らすには、人間か新人類かのどちらかと共に生きていく必要があるけれど、街の様子を見る限り、人間の方が劣勢のようだ。
それにわたしは新人類に襲われない。
人間と共に新人類を恐れて生きることがない。
デイヴィットを見上げれば、見下ろされる。
「わたし、一緒に暮らしていいの?」
デイヴィットがこっくりと頷いた。
「嫌じゃない? その、デイヴィットは……」
話の途中で首を振られる。
それに首を傾げた。
「嫌じゃない?」
こっくりと頷く。
「えっと、デイヴィット?」
また首を振った。
そしてデイヴィットが口を開いた。
「…………アッシュ」
落ち着いた、低めのハスキーな声だった。
デイヴィットの言いたいことが分かった。
「アッシュって呼んだ方がいい?」
デイヴィットが頷いた。
どうやらわたしのつけた名前が気に入ったらしい、
アイスブルーの瞳がジッと見つめてくる。
「じゃあ、これからもアッシュって呼ぶね」
デイヴィット……アッシュが頷く。
……なんだろう。
なんだが段々とアッシュが可愛く思えてきた。
たった一度食べ物を与えただけなのに、恩義を感じてくれているのか、後を追いかけてくる。
自分より大きな男性を可愛いと称するのは変かもしれないが。
顔を戻せばオズボーンさんが目を丸くしていた。
「……すみません、デイヴィットは滅多に口を開くことがないもので」
ズレた眼鏡を直しながら続ける。
「ところでアッシュというのは? 随分と彼が懐いているようですが、彼とは何が?」
「名前を訊いても答えてくれなかったので、髪がアッシュグレーだったからアッシュと呼んでいたんです。街で目を覚まして少し歩いていたら倒れているアッシュを見つけて、持っていた食べ物を全部あげたんです。とってもお腹が減っていたみたいでした」
「食べ物を? そうですか、なるほど……」
何やら納得した風にオズボーンさんが頷いた。
「わたし達、新人類は普通の人間より食事量が多いのです。我々の暮らしでは食料はそれぞれの『燃費』に合わせて配給されています。決まった量が支給されるため、逆を言えば、人に分け与える必要はないのです」
「ええ? でも食べ物をあげただけですよ?」
それは単純過ぎやしないだろうか。
「新人類はそう簡単には死ぬことはありませんが、食事が欠かせません。燃費以上に活動すれば、どこかで動けなくなる時が来ます。そうなれば、後は緩やかに死んでいくこととなります」
「矛盾していませんか?」
そう簡単には死なないのに、飢餓で死ぬ。
オズボーンさんが苦笑する。
「いいえ、矛盾はしていません。新人類は基本的に脳さえ無事ならば生きて居られます。言ってしまえば首だけでも数時間程度は保ちますが、死なないわけではありません。 そして彼は燃費が恐ろしく悪いので空腹で動けなくなっていたのでしょう」
新人類は基本的に頑丈である。
首を切られても数時間ならば生きていられるし、何なら首をつけ直せば問題ない。
彼らは心臓の鼓動が酷く遅く、血も流れており、体温は普通の人間に比べるとかなり低い。
体が強靭になり、体力、脚力、腕力などに加えて五感なども鋭くなるそうだ。基本的なスペックが上がっているということだろう。
「ちなみに新人類は人間が近くにいなければ飢餓衝動を感じることもなく、普通の人間と同様に、きちんと自我を保って生活することが出来ます」
「外の人達はそういうことだったんですね。でもバリケードの外の新人類は違いましたよね?」
「彼らはまだ新人類でも下位におり、自我を保てないのです。時間が経てば自我を取り戻す場合もありますが」
人間がいなければ普通に暮らせる。
だから外の人達も、新人類として、生きている。
「あ、食事はどういうものを食べているんですか?」
「ごく一般的な食事ですね。ホラー映画のように、人間を貪り食うことはありませんよ」
「そうなんですね。血みどろは平気ですけど、さすがに内臓系は刺激が強いから困るなと思っていたので良かったです」
それなら、尚更わたしは新人類側で暮らした方が安全かもしれない。
考えているとギュッと手を握られた。
少し痛いが、見上げた先で、アイスブルーがジッとわたしを見つめていた。
……体は大きいけれど、小さな子供みたい。
手を伸ばしてアッシュの前髪を撫でる。
「大丈夫、どこにも行かないよ。というか、わたし、他に行く当てもないから」
アイスブルーが細められる。
「でも、わたしはアッシュのところでお世話になっても大丈夫でしょうか? その、金銭的な問題とか……」
「ああ、それは問題ないでしょう」
さらりとオズボーンさんが言う。
「デイヴィットは我々新人類の言うなればボスです。生活にはかなり余裕がありますよ。リノさん一人くらいは余裕で養えますね」
……わたしの方がアッシュのペットかな?
まあ、それならそれでも構わないのだが。
わたしはじっくり眠れる環境さえあればいい。
「そうですか」
アッシュを見上げる。
「えっと、よろしくね?」
アッシュがこっくりと頷いた。
「そうだ、リノさんには新人類の研究にご参加いただけたら嬉しいです」
「わたし人間ですが……?」
「ええ、新人類が敵意を感じない人間が他の人間とどう違うのか知りたいのです。研究と申しましても危険なことはございませんし、それに応じて謝礼も支払わせていただきます」
「いかがでしょう?」と言われた。
考えるまでもなかった。
「そういうことでしたら、協力させていただきます」
……まあ、わたしが異世界人だからということは伏せておいた方が良さそうだ。
差し出されたオズボーンさんの手を握り返す。
こうしてわたしは新人類の元へ身を寄せることとなったのだった。
* * * * *
マンションの上階へ繋がるエレベーターへ向かう二つの人影を見送り、ベイジル=オズボーンは小さく息を吐いた。
生きた人間に会うのは久しぶりであった。
ベイジル=オズボーンが新人類へと変化したのは七年前。
デイヴィットが隔離されていた研究所で、ベイジルは働いていた。
ベイジルの仕事はデイヴィットの観察だった。
新人類になってから分かったが、彼が常に暴れて手がつけられなかったのは、周囲に人間が大勢いたからである。
飢餓衝動によって暴れていたのだ。
デイヴィットについてベイジルは資料を見ていたので知っている。
彼は父親と母親と弟の四人暮らしだった。
学校教師の厳格な父親に、デザイナーの母親、ヤンチャな弟、そして物静かなデイヴィット。
家族はごく普通に暮らしていた。
だがデイヴィットが新人類として覚醒した瞬間、終わりを告げた。
まだ発症当時、デイヴィットは九歳で、飢餓衝動なども当然知らず、デイヴィットは本能的に家族に襲いかかった。
そして家族も新人類となった。
しかし研究所にて捕獲されたデイヴィットも家族も悲惨な扱いを受けた。
デイヴィットと弟は観察対象となり、特別製の檻の中で八年も閉じ込められ、時には見世物にされ、研究と称して残酷な実験の実験体とされた。
両親は当時、数少ないゾンビの標本として分解され、殺されてしまった。
それが幼いデイヴィットやその弟にとって、どれほど残酷なことであったのか、当時のベイジルは思いもしなかった。
幼い兄弟達から両親を奪ったのだ。
彼らに憎まれても仕方がない。
ある日、ベイジルはデイヴィットに食事を与える際に誤って彼の爪により傷を負った。
ベイジルは自分がどうなるか分かっていた。
このままでは自分もあの実験をされるだろう。
その時になって、自分達がどれほど非道な行いをしていたのか気付かされた。
そうしてベイジルは研究所から逃げ出した。
その頃には世界各地で新人類の発生が増え、そこかしこで新人類が人間を襲う状況にまで陥っていた。
ベイジルは感染後三日で新人類へと変化した。
幸いベイジルは強く、人間達に狩られそうになりながらも、他の新人類達と合流することが出来た。
そこから新人類は猛威を振るった。
今現在は人間の方が数が少なくなった。
他の新人類達と、デイヴィットの手助けによって逃げ出していたデイヴィットの弟と協力し、デイヴィットを救出したのは二年前のことだった。
弟の方はこの世界にすっかり馴染んでいる。
だがデイヴィットはそうではなかった。
研究所でデイヴィットの受けた実験は口に出すのも憚られるようなものばかりで、弟のものよりも酷かった。
研究所に残っていた資料を見たベイジルは、そのあまりの凄惨な内容に絶句したほどだった。
弟が逃げ出した後、弟の分までデイヴィットが実験の対象にされていたようだ。
そのせいか、デイヴィットは殆ど喋らない。
意思疎通は頷くか、首を振るか、とにかく自分の意思というものがあまりない。
そして当たり前だが生活能力もない。
これまではベイジルや他の者がデイヴィットの世話をしてきたが、あの様子を見る限り、あのリノ=コサカという少女ならデイヴィットが心を開けるようになるかもしれない。
……あれほど自分の意思を露わにしているデイヴィットを見たのは初めてでしたね。
ずっとリノという少女の手を握り、話している間も少女のことを気にしていた。
少女自身はそれに気付いていないようだったが。
「面白いことになりました」
これまで感情らしい感情のなかったデイヴィットが、年頃の少女を気にかけている。
その変化が良い方向へ転がればいいと思う。
少女の方も、随分とデイヴィットを信頼しているようで、当たり前のようにずっと手を繋いでいた。
少々幼く見える少女であったけれど、落ち着いている様子からしても、見た目より実年齢は上かもしれない。
自分よりも小柄な少女の手を引いて歩くデイヴィットの姿を見て、ベイジルはホッとした。
自分達の行った研究のせいで、あのように無感情な者になってしまったのではないかと思うと、胸が痛まないはずもなかった。
……それにしても不思議な人間でしたね。
リノ=コサカ。恐らくデイヴィットより年下だろうが、それにしても、小柄で細身の少女であった。
同じ黒髪なのは少し親近感が湧く。
珍しい黄色味を帯びた肌をしていた。
瞳も黒く、少し目元にクマがあった。
人間であるのに、不思議と新人類である自分が敵意を感じることも、飢餓衝動に駆られることもない。
そもそも人間特有の臭いも気配もしない。
どちらかと言えば新人類に近い気配を感じる、不思議な存在だ。
それどころか話していると安心感すら覚える。
だからデイヴィットも彼女を襲わないのだろう。
人間でありながら新人類のような存在。
……もしかしたら彼女ならば……。
傷付いたデイヴィットの心を癒せるかもしれない。
そうなることをベイジルは願った。
「さて、若い女性に必要なものを揃えて送っておかないといけませんね」
あのデイヴィットがそれらを用意出来るとは思えない。
立ち上がったベイジルは部下の女性へ電話をかけ、若い女性に必要なものを聞き出す。
デイヴィットの弟にはしばらく伝えないでおこう。