安全な場所?
大通りを更に戻って行く。
しばらく歩くと、くん、と服が何かに引っかかった。
振り返ればアッシュがわたしの制服の裾を少しだけ摘んで、引き留めようとしているようだった。
立ち止まった彼に合わせてわたしも止まる。
「どうかした?」
彼が制服から手を離して、ある方向を指差した。
釣られてその方向に顔を向ける。
そちらには車やらバイクやらがあるだけだ。
首を傾げれば、腕を掴まれ、アッシュが歩き出す。
「アッシュ?」
アッシュに腕を引かれて車の間を抜けて、ズンズンと歩いて行き、一台のバイクへ向かって行く。
全体的に真っ黒な、随分と大きなバイクである。
二人乗りで、座席部分はレザーらしく、艶のある車体と合わせて高級感があった。
バイクの横へ来るとアッシュが振り向いた。
そしてバイクの後ろの座席を手で叩く。
……乗れってことかな?
アッシュはバイクの車体の横に手を伸ばして何やらパタパタと小さなパーツを広げ、車体を真っ直ぐに起こすと後ろのスタンドを片足で蹴り上げた。そのまま動かしてグルリと向きを反転させる。
そして前の座席へ跨り、わたしを見た。
「乗っていいの?」
アッシュがこっくり頷いた。
バイクに乗るのは初めてだ。
近付き、まずは車体を確認する。
……えっと、多分これが排気部分だと思うから、この部分には触らない方が良さそう。……あ、さっき出してた小さなパーツが足をかける場所かな?
座席に手を当て、そのパーツに足をかけ、少しだけ勢いをつけて乗り上がり、座席を跨いで腰掛ける。
……どこを掴めばいいんだろう。
手の置き場がなくて戸惑っていると、アッシュの手がわたしの手を掴むと、後ろから抱き着くように誘導された。
アッシュから、乾いているけれど、やはり少し生臭い鉄の臭いがした。
ブォオオオンッと振動と共に低音が響く。
他に音がないから余計に大きく聞こえる。
抱き着いているアッシュが少し前傾姿勢になる。
更にブゥオンッと音がして、体が後ろへ引っ張られたので慌ててアッシュの腰に回している腕に力を込めた。
景色がゆっくりと後ろへ流れ出す。
ブォオオオ、と足元で音がする。
景色の流れが段々と速くなり、車を避けるために右に左にと振られ、わたしは振り落とされないようにアッシュの体に必死でしがみつく。
気を抜くとお尻が後ろへズレてしまいそうだ。
ギュッとアッシュの冷たい体に抱き着く。
転んだらという不安はあるものの、後ろへ流れて行く景色の速度を面白いと感じるところもあった。
風を切って走るから涼しい。
元の世界は春だったけど、この世界は今は初夏なのか、歩いているとじんわり汗ばむ気温だったので風がとても心地好い。
……バイク、結構好きかも。
流れる景色や吹き抜ける風の感覚がいい。
日差しは少し暑いけれど、バイクが木陰やビルの陰に入ると涼しくて、その一瞬一瞬の温度差が駆け抜けているという感じがする。
アッシュはわたし達が向かっていた方向へバイクを走らせ、歩くよりもずっと早く目的地へ着きそうだ。
それからバイクは走り続けた。
変化があったのは、大きなバリケードを越えた時だった。
それまでは全く人気のない街並みだったのが、バリケードを越えてからは、急に騒めきが聞こえ、人影が増え始めた。
人影と言っても通り過ぎる景色にいる人々はみんな、血色の悪い、青白い肌ばかりである。
まるでそれが当たり前のように、気が付けば雑踏が道の左右に出来て、周囲の車も動いている。
人々の肌色を除けば普通のビル街だった。
信号待ちで停まった時、横に並んだ車の運転手がこちらを見て、目を丸くした。タクシーらしい。強面の男性が運転しており、このタクシーではきっと強盗なんて起こらないだろうなと思った。
バイクが走り出して、ふと気付く。
……凄く見られてる。
そういえば、周りはみんなゾンビなのだ。
ここではわたしこそがイレギュラーである。
アッシュの背中に顔を押し付け、目を閉じる。
……あんまりキョロキョロするのはやめよう。
アッシュはバイクを傾けて、右へ左へ曲がって行き、人気の多い大通りを進んで行った。
バリケードを越えて数十分ほど走っただろうか。
ブゥウウゥン、とバイクの音が萎んでいく。
体を後ろへ引く力も弱まる。
そしてどこかのビルの地下駐車場だろう場所に入ると、最後にキッと微かな振動があり、バイクが停まった。
顔を上げれば、やはりどこかの地下駐車場らしき場所の一角にバイクは入っている。
どうやらここが目的地らしい。
アッシュの体から腕を離し、座席に手をつき、乗った時と同じく座席を跨いで降りた。
わたしが降りるのを確認するとアッシュもバイクから降りて、スタンドを立ててバイクを少し傾けて停める。
バッグを持ち直していると、目の前に手が差し出された。アッシュの手だ。思わずその手に自分の手を乗せると、物凄く柔らかく大きな手に包まれる。
すぐに外れてしまいそうでギュッと手を握る。
手を繋いだまま、アッシュが歩き出した。
いくつか停まっている車の前を通り、恐らく上階へ続くのだろうエレベーターの前に来る。
△ボタンをアッシュは躊躇いなく押した。
……昨日と違い、今日のアッシュは自分の意思でよく動く。
昨日はただわたしの後をついてくるだけだった。
「ここは安全なの?」
エレベーターの中で問うとこっくり頷き返される。
チン、と音がしてエレベーターの扉が開いた。
手を引かれて降りると、広いホールになっており、高級そうなテーブルやソファーのセットがいくつか置かれていた。奥には受付も見える。
アッシュはその受付に向かって行く。
受付も当然ながら血色の悪い肌の人だった。
「お帰りなさいませ……」と言いかけ、受付の人は、わたしと目が合うと酷く驚いた様子で身を引いた。
「ウォ、ウォルトン様、それは人間ですか……?!」
受付の人は悲鳴のようにそう言った。
わたしが肯定のために頷くのと同時に、アッシュが首を傾げる。
……なんでそこで首を傾げる?
わたしは正真正銘、人間である。
……というか、ウォルトンってアッシュの名前、いや、家名かな?
しかし受付の人は身を引いたまま、まじまじと、わたしを見て不思議そうな顔をする。
「申し訳ございません、ウォルトン様、オズボーン様をお呼びいたしますので少々お待ちいただけますでしょうか?」
アッシュはこっくりと頷いた。
そしてわたしの手を引いて、テーブルとソファーの一つに向かい、三人掛けくらいのソファーに座った。
アイスブルーの瞳に見上げられる。
どうやら座れということらしい。
アッシュの横に腰掛ける。
……うわ、めちゃくちゃ座り心地がいい。
ベッドの代わりに横になればよく眠れそうだ。
背もたれに体を預け、ホッと息を吐く。
片手を伸ばしてそのまま頭上へググッと上げる。バイクに乗っている間に硬直した体が解れていく。初めて乗ったので思った以上に体に力が入っていたようだ。
手を下ろし、隣を見れば、アッシュは肘置きに肘を置き、頬杖をついている。
高級感あふれるホールはちょっと落ち着かない。
あと、いつまでアッシュはわたしの手を握るつもりなのだろう。
横に座っているが、その片手はわたしの片手を包んだままで、離す気配はない。
アッシュの手にわたしの体温が伝わって温い。
……せめて説明してもらえたら嬉しいんだけど。
そんなことを思いつつ待っていると、不意にアッシュが手から顔を上げた。
視線の向かう方へ顔を向ければ、こちらへ歩いてくる人がいた。
…………黒髪だ。
ここまで来る中でも暗い髪色はチラホラ見かけたけれど、一目で黒髪だと分かる髪色を見たのは初めてだ。
近付きながら、相手からも強い視線を感じる。
「デイヴィット、お帰りなさい」
その男性は胸元くらいまでのストレートの黒髪に、チェーンのついた丸い眼鏡をかけて、黒地にほんのりストライプが入ったスーツに青いネクタイをしている。糸目で瞳の色は分からない。細身だ。身長はアッシュより低いと思う。
アッシュがこっくりと頷いた。
「そちらの方は見たところ人間のようですが、何故ここへ連れて来たのですか? ……いえ、本当にそれは人間ですか?」
男性が眉を寄せて、目を開いた。
……あ、開くんだ?
柔らかなブラウンの瞳と目が合った。
「わたしは人間です」
アッシュが頷きも首を振りもしないので、わたしは自分で自分が人間であると主張することになった。
男性が訝しげにじろじろとわたしを見る。
そして、アッシュとわたしの手が繋がれていることに気付いて「おや?」という顔をする。
わたしとアッシュを交互に見て小首を傾げている。
「デイヴィット、まさかとは思いますがこの人間をここに置くつもりですか?」
アッシュがこっくりと頷いた。
……アッシュの本名、デイヴィット?
さっき受付の人はウォルトン様と呼んでいたので、フルネームはデイヴィット=ウォルトンだろうか。
「他の者達に襲われる心配は──……」
チラと男性がわたしを横目に見る。
「なさそうですが、正気ですか? 彼女は生きている人間ですよ? 非常食にでもするつもりですか?」
アッシュが頷きを二回、そして最後に首を振る。
……非常食って。
横に座るアッシュを見上げれば、見下ろされる。
「わたしを食べる?」
アッシュが首を振った。
どうやらその気はないようだ。
「あなた、名前は?」
男性に問われる。
「古坂理乃。理乃が名前で、古坂が姓? 家名? で、本物の人間です」
そう答えると「もしや極東のご出身では?」と訊き返されて、答えに窮する。
だが黙ったわたしの反応を肯定と受け取ったのか、男性が言葉を続けた。
「私の祖母も極東出身でした。その綺麗な黒髪に黄色味のある肌は極東の人間の特徴ですね」
そこでようやく男性が向かい側のソファーへ腰掛けた。
「申し遅れました、私はベイジル=オズボーンといいます。あなたの横にいる彼、デイヴィットの補佐のような役割についております」
……補佐?
「さっきから気になっていたんですけど、デイヴィットというのは横にいるこの人の名前でいいんですよね?」
「ええ、あなたの横にいるのは『あの』デイヴィット=ウォルトンです」
「あの……?」
あの、と言われてもわたしは知らない。
首を傾げたわたしに男性、オズボーンさんが驚いた顔をする。
「もしや、ご存じない?」
横の彼はかなりの有名人らしい。
「はい、知らないです。昨日初めて会いました」
「……ますます不思議な方ですね? 一体どちらからいらしたのですか?」
オズボーンさんの問いに頬を掻く。
「その、実は気付いたらこの街にいたんです。自分でもおかしなことを言ってるのは分かります。でも、本当に目が覚めたら道路に転がっていて、周りには誰もいませんでした」
そこで当てもなく道路を進んでいたこと。
とりあえず歩いていたら、横にいる彼が地面に倒れているのを見つけたこと。
お腹の音が聞こえたので食べ物を与えたこと。
そうしたら彼がついてきて、それから昨日今日と一緒に行動していること。
安全な場所に行きたいと彼へ言ったら、ここに連れて来られたこと。
「そして、わたしはどういうわけか『あなた達』には襲われないみたいなんです」
この世界に来てからのことを話し終えると、オズボーンさんが「ふむ……」と眼鏡のツルを押し上げて考えるような仕草をする。
「なるほど。実は私も今、人間であるあなたに飢餓衝動や敵意を感じないのです」
「キガショウドウ?」
……それって何だ?
「我々、人間が『ゾンビ』と称する者達は基本的に同族意識の強い生き物です。そして自分達と違う人間に対して敵意を感じるのと同時に『殺したい』『害したい』と思い、そして『仲間にしたい』と思うのです。我々は人間に噛みついたり爪などで傷を負わせたりすると同族に変化させることが出来ます。これを我々は飢餓衝動と呼んでいます」
不思議な衝動である。
「どうして殺したいとか害したいとか思うんですか? でも仲間にしたいって矛盾してません?」
オズボーンざんが目を瞬かせ、それから、ふはっと吹き出した。
まるで思いもよらない面白いことを聞いたという風に笑っている。
「そ、そうですね、確かに矛盾しています。これは本能的なものなので、どうしてと言われると説明が難しいのですが……」
はあ、と息を吐いてオズボーンさんが顔を上げる。
そこにある笑顔は先ほどまでの胡散臭い愛想笑いと違い、本当に心からおかしくて仕方ないという感じだった。
……そこまで笑うこと?
思わずムッとしたわたしに気付いたオズボーンさんが「すみません」と謝ってくる。
「それについてもですが、どこから説明すれば良いのやら……。コサカさんはデイヴィットのこともご存じないということは、我々についても知らないのでは?」
「あ、理乃でいいです。はい、なんというか、常識的なこともよく覚えていなくて、目が覚めて分かるのは自分のことくらいなんです。この街? のことも、何が起こっているのかも知らなくて」
「そうなのですね」
「では我々のことやデイヴィットのことも含めて、ご説明いたしましょう」
よく分からないが何となくオズボーンさんに受け入れられたような気がする。
「えっと、お願いします」
そして、わたしはこの世界の『彼ら』について知ることとなった。