幸福な眠り
あれから一週間が経った。
腕の傷はまだ痛くて、治療をしてもらったけれど、跡が残ってしまうらしい。
アッシュもラッセルも心配してくれたが、別に跡が残るくらいどうということはない。
あれからぐっすり熟睡したわたしは丸一日目を覚まさなかった。
その間、アッシュ達はわたしが新人類になってしまうのではと気が気ではなかったようだ。
起きてから改めて説明してもらったのだが、新人類は四つの階級に分かれており、もし、わたしが自我も力もない第四級になってしまったらと不安にさせてしまったのだ。
しかし、わたしは一週間経ってもこの通り人間のままだ。
これに関しては新人類の中でもかなり物議を醸した。
新人類に噛まれても新人類へ変化せず、そして新人類にも襲われない、特別な人間。
その理由を調べるためにも、わたしは改めて新人類の元で研究に参加することとなった。
……まあ、待遇は今までと変わらない。
ただ、特別な人間として公表はされた。
こうしてわたしは人間でありながら、新人類の特別なお客様という立ち位置に置かれた。
感染しなかったのは多分、わたしがこの世界の人間ではないからだと思うが、そんなことを言う日は永遠に訪れないだろう。
わたしが異世界の人間であることは墓まで持っていくつもりである。
部屋のチャイムが鳴った。
アッシュがソファーから立ち上がり、玄関に向かう。
少しして、アッシュがベイジルさんとわたし担当の研究員兼主治医のバゼットさんが現れた。
バゼットさんはアッシュに負けず劣らず無表情な人だ。
「こんにちは、コサカ様」
わたしの立場が確立してから、周囲の人達の反応も変わった。
アッシュやラッセル、ベイジルさんは今まで通りであるものの、それ以外の新人類達はわたしへ丁寧な態度を取るようになった。
「こんにちは、バゼットさん。献血ですか?」
「はい、体調が良いようであればお願いいたします」
「大丈夫ですよ」
バゼットさんはソファーに座っているわたしの足元に膝をつき、テーブルに持ってきたカバンを置くと、テキパキと慣れた様子で準備を進める。
わたしも左手の袖を捲って腕を差し出す。
採血用の太い注射を持ったバゼットさんがわたしの左腕の肘の裏側を、アルコールに浸した脱脂綿で拭く。
少しヒンヤリするそこに注射針がスッと入った。
ちょっとチクッとするものの、バゼットさんは注射が上手くて、すぐに注射器の中に血が溜まる。
針はそのままに、注射器の容器の部分だけが取り替えられる。
「……ありがとうございました」
針が抜けて、ペタッと小さなガーゼが貼られる。
「お疲れ様です」
ベイジルさんにも言われてわたしは苦笑してしまう。
「何もしてませんけどね」
「いえいえ、リノさんのおかげで同胞に自我を取り戻させる方法が見つかり、我々としても非常に助かっております」
そう、わたしが特別なように、わたしの血も特別だった。
あの日、わたしの腕を噛んだ第三級の男性が、正気を取り戻したのだ。
彼曰くわたしは「特別な匂いがする」そうで、あの日、彼がわたしの腕を噛んだのも、本能的なことだったらしい。
そして判明したのが、わたしの血には新人類の飢餓衝動を抑えて自我を取り戻させる効能がある、ということだった。
ただ全ての新人類に効くわけではない。
「コサカ様の血の効果ですが、捕縛していた第三級に投与したところ、投与した全ての第三級が自我を取り戻しました。しかしバリケードの外にいる第四級には効果が薄いようで、投与すると一時的に飢餓衝動を抑えることは出来るものの、自我を取り戻すまではいかないようです」
と、いうことだ。
第三級の男性が言うには、あまりにも飢餓衝動と破壊衝動が強いせいで暴れていたが、実は自我があり、長く苦しんでいたそうだ。
だがわたしを見た瞬間、殺意や破壊ではなく、不思議な感覚に見舞われたらしい。
そして気付くとわたしに噛みついていた。
わたしの血を飲んだせいか、第三級の男性は自我を取り戻したという経緯だった。
ちなみに第三級、現在は自我を取り戻したため、第一級に区分され直した男性はベイジルさんの下で働き始めた。
力が強く、幹部になる道もあったが、男性自身が誰かの部下として働く方がいいと希望したため、研究所の管理も行なっているベイジルさんの部下となった。
「そうだ、リノさん、こちらをどうぞ」
差し出されたそれは手紙だった。
アッシュがそれを見て小さく唸った。
「……またか」
自我を取り戻した第三級達から、こうして手紙が時折、ベイジルさん経由で渡されるようになった。
なんでも長く正気を保てず苦しんでいた衝動から解放してくれたから、らしい。
最初のあの第三級の男性も、わたしのことを「女神」と呼んでいる。
正直物凄く恥ずかしいのでやめて欲しい。
「仕方ありません。彼らは苦痛から救う術を与えてくれたリノさんに恩義を感じているのですから、その感謝の気持ちを伝えるくらい良いではないですか」
「……」
アッシュがムッとしたまま押し黙った。
わたしは手紙を開いて、サッと目を通し、それからアッシュに差し出した。
受け取ったアッシュがそれを読む。
くしゃ、と手元の便箋に皺が寄る。
「いつも思うんですけど、女神だの天使だの、こういう表現ってよくするものなんですか?」
手紙ではわたしは「女神様、ありがとう」とか「天使が祝福してくれた」とかハッキリ言って誰だそれという感じで呼ばれている。
ベイジルさんが小さく吹き出した。
「いえ、そういう表現はまず使いません」
「じゃあ何ですか、これ?」
「それだけ感謝しているということですよ」
なんだろう、あんまり嬉しくない。
普通にありがとうと言ってもらえる分には構わないが、女神だの天使だの、そういうのはからかいや冗談に聞こえて好きじゃない。
「手紙はいいんですが、女神とか天使とか呼ぶのはやめるように言ってもらえませんか?」
「一応伝えておきます。でも訂正は難しいと思いますよ。何せ一番最初に言い出した彼はあなたに傾倒していますから」
「ええ……」
一番最初に自我を取り戻した第三級の男性がどうやらわたしを女神だと言っているようだ。
そういえば、あの日もそんなことを言っていた気がする。
横に座ったアッシュに抱き締められた。
「大丈夫だよ、アッシュ。わたしが好きなのはアッシュだけだからね」
そう言って、手を伸ばしてアッシュの頭を撫でる。
アッシュが無邪気に笑って頷いた。
……イケメンの笑顔の破壊力がヤバい。
あの日の後、目を覚ましてから、アッシュはずっとわたしにべったりくっついている。
利き手の右腕を怪我しているので不便なのだが、側にいるアッシュがあれこれと手を貸してくれるのであまり困っていない。
……さすがにお風呂までついて来ようとした時は追い出したけどね。
まだそういうのは気恥ずかしい。
アッシュにそういう意図がないと分かっていても、さすがにお風呂まで手伝ってもらうのは無理だ。
道具を片付けたバゼットさんに今度は右腕を差し出し、包帯を外してもらう。
それから当ててあるガーゼを剥がした。
右腕の傷跡は結構大きい。
「大分良くなりましたね」
バゼットさんの言葉に頷いた。
今はもう血も止まっているし、腕を動かしたり手を握ったりすると痛いものの、傷口は治り始めている。
丁寧に脱脂綿で傷口を拭う。
アルコールが結構沁みる。
それから薬の塗られたガーゼをペタペタと貼られ、新しい包帯が巻かれる。
「あれからご気分が優れないことはありますか?」
「いいえ、ありません」
「食欲が増したり、痒みを感じたりは?」
「全くないですね」
バゼットさんが頷いた。
ベイジルさんもホッとした顔をする。
「一週間経っても何も起こらないということは、コサカ様は新人類に変化しない人間なのは間違いないようですね。良かった。まだリノさんの血は必要ですので」
「あー、新人類になったらもしかしたらこの血の効果も消えてしまうかもしれませんしね」
わたしは別に人間でも新人類になっても構わないが、この血の効果が分かった以上は出来る限り現状を維持したいのだろう。
「そういえば、誘拐犯の二人とあの白衣の人達はどうなりました?」
ギュッとアッシュの腕に力がこもる。
「ああ、彼らは研究所の隔離施設に入れてあります。リノさんの誘拐を実行した二人は治験用に、研究員達も人間のまま、研究のために貢献していただいております。あの騒がしい白衣の男性は我々新人類の研究の第一人者なので殺すには惜しいですし」
ベイジルさんがニコッと笑う。
「研究所できちんと罪を償っていますよ」
「そうなんですね」
その内容についてはそれ以上訊かない方がいい気がする。
なんとなくベイジルさんの笑みに黒いものを感じ、深く追及するのはやめておいた。
少なくとも『研究所で幸せに暮らしました』とはいかないだろう。
でも、罪を償っているというのであればわたしがどうこう言うつもりはない。
「それから、あのグループのリーダーの人間は有用と判断したので新人類にしておきましたよ」
ベイジルさんの言葉にアッシュが頷き返す。
それに関してもわたしには関係のないことだ。
わたしの傷の手当てが終わると、ベイジルさんとバゼットさんは帰って行った。
この間、アッシュはずっと私の横に座っていた。
告白したあの日から、アッシュはわたしにべったりで、一応きちんと仕事はしているけれど、わたしが見えないと不安がる。
うっかり誘拐されてしまった手前、アッシュの不安や心配の理由も分かる。
……まあ、嫌じゃないからいっか。
ベイジルさん達を見送ったアッシュが戻ってきて当たり前のようにわたしの両脇に手を差し込んだ。
ヒョイと抱え上げられ、座ったアッシュの足の上に横向きに降ろされる。
そうしてギュッと抱き締められた。
すり、と頬に頬を寄せられる。
その仕草が人懐っこい大型犬みたいで笑ってしまう。
アッシュの顔が近付いて、額や頬にキスされる。
元より手を繋いだりといった感じはあったし、最近では抱き着いてくることも多かったので、これもスキンシップの一環だろう。
アッシュのキスの仕方は本当にただ唇を軽く押し当てるだけで、いやらしさは全くない。
だから受け入れやすいのかもしれない。
頬を寄せたり顔中にキスの雨を降らせてきたアッシュは満足するまでそうした後、わたしの向きを正面へ変えて、椅子に座るようになったわたしの右肩に頭を乗せている。
わたしの方が小さいので、そうするとアッシュはかなり背中を丸める形になる。
後ろから抱き締められつつ、右手を持ち上げてゆっくりとアッシュの頭を撫でた。
少し右腕は痛いけれど動かせないほどではない。
ふ、とアッシュの息が肌に触れる。
「ふふ、くすぐったい」
わたしが笑うとギュッと抱き締められた。
「リノ」
あれからよくわたしの名前を呼ぶようになった。
たまに喋ることもあって、ラッセルによると以前よりもアッシュは自分の意思を表に出すことが増えたようだ。
わたしが攫われたことで怒りが頂点に達して、人見知りなんてしてる余裕もなかったらしい。
嬉しいような、申し訳ないような。
「……寝る?」
問われて頷き返す。
「そうだね、寝ようかなあ……」
ふあ、と欠伸が漏れた。
そう答えればアッシュに抱き上げられる。
この一週間、わりとこうして抱き上げられて運ばれているのでもう慣れてしまった。
アッシュの腕がわたしを落とさないことも覚えてしまったので、わたしはアッシュに身を任せている。
アッシュの方も慣れたもので、わたしを抱えたまま扉を足で開けて、器用に後ろで閉めていた。
寝室に移動すると、そっとベッドに降ろされる。
「アッシュはまだ仕事?」
首を振られた。
「じゃあ一緒に昼寝しよう?」
横をぽんぽんと叩いて見せればアッシュの表情が明るくなる。
尻尾があったらブンブン振っていそうだ。
横になれば、隣にアッシュがごろりと寝転んだ。
そしてやっぱり抱き寄せられる。
このヒンヤリした体温も慣れた。
うとうとしているとアッシュがわたしを見ていることに気が付いた。
「……どうかした?」
アッシュは黙って小さく首を振った。
シーツに散ったわたしの髪をアッシュの指クルクルと弄っている。
……まあ、いいかな。
心地好い眠気の中で微睡む。
この世界に来た時はどうなることかと思ったが、わたしはやっと、安眠出来る場所を手に入れたのだ。
ゾンビだらけの世界だけれど。
好きな人の側で眠る幸せを知った。
なんでも新人類の中では狂犬とも呼ばれているらしいアッシュだが、わたしには優しくてとても懐いてくれている。
完全に眠りに落ちる寸前、ふわ、と何かが唇に触れた。
多分、アッシュがキスしたのだろう。
返してあげたいけれど、でも今は、この穏やかな眠気に身を任せたい。
きっと、今度こそ、幸せな夢が見られるだろう。
そんな予感を感じながら眠りについた。
狂犬ゾンビに懐かれたが、それよりわたしは眠りたい(完)




