怒り
あれからどれくらい時間が経ったのか。
この部屋には時計も窓もない。
それから食べないからか食事も出なくなった。
ただ飲み物だけは時折置いていかれる。
飲み物も水だったりジュースだったりするが、わたしはそれをチビチビと飲み、空腹をやり過ごしていた。
……人間、水があれば一ヶ月は生きていられる。
たまにジュースもあるから、水だけよりも期間は延びるかもしれない。
空腹でお腹が鳴るけれど我慢する。
まだ我慢出来ないほどではない。
いざとなったら毛布を齧ってでも耐えるつもりだ。
……きっとアッシュが助けに来てくれる。
毛布に包まり、空腹を我慢して目を閉じる。
お腹が空いていると眠り難い。
眠たいのに、眠れない。
……アッシュ。
綺麗な明るいアッシュグレーの髪を思い出す。
全然喋らないけれど、一緒にいても、あの沈黙は居心地が好くて嫌じゃなかった。
同じ静けさでも、アッシュと一緒にいる時間は穏やかで、よく眠れた。
いつもアッシュと繋いでいた右手が寂しい。
アッシュのひんやりした体温が懐かしい。
あの長い腕で抱き締められるとホッとする。
アイスブルーの瞳が恋しい。
…………恋しい?
ハッと目を開ける。
……ああ、そうなんだ。
思わず顔を両手で覆う。
もう分からないふりなんて出来ない。
気付かずになんていられない。
わたしはやっぱりアッシュが好きなんだ。
* * * * *
新人類の幹部達とデイヴィットが話し合っている時。
デイヴィットの携帯端末が着信を告げた。
それに気付いたデイヴィットが幹部達を手で制し、端末を取り出し、その相手がラッセルだと分かるとすぐに出た。
画面にラッセルの姿が映し出される。
その表情は酷く焦っていた。
「兄貴、リノが攫われた!」
ごめん、という言葉を最後に手元でバキリと音がする。
デイヴィットの持っていた携帯端末は、その手の中でひしゃげてしまっていた。
……リノが、攫われた……?
遅れて思考がついてくる。
……攫われた? リノが?
……誰に?
あの小さくて、細くて、か弱いリノが。
「デイヴィット、落ち着いてください!」
慌てた様子のベイジルに肩を掴まれる。
「まずはラッセルから事情を聞きましょう。それにここで暴れても問題は解決しません」
言われて、拳を握り締める。
ベイジルの言う通りだ。
デイヴィットの端末が壊れてしまったので、ベイジルが代わりに連絡を取った。
ラッセルはどうやらこちらに向かっているそうだ。
それを待っている間、デイヴィットは落ち着いていることが出来ず、椅子にも座らずに部屋の中をうろついていた。
誰も「それくらいで?」という言葉が出せなかった。
幹部達の半数以上がリーダーのデイヴィットの側に人間のリノがいることを反対していたが、今のデイヴィットから発される怒りはこれまでのものとは限度が違う。
本能的にデイヴィットの怒りを感じ取っていた。
ここでリノを悪く言えばどうなるか、その場にいた誰もが考えるまでもなく理解した。
デイヴィットはラッセルが来るまで、気が気ではなかった。
……なんでリノが攫われた?
誰が攫ったのか、どこに連れて行かれたのか、どうして攫われたのか、リノは無事なのか。
考えるのはそれらばかりだ。
最初の通話から十分ほどでラッセルは到着した。
普段はあまり幹部会議に出て来ないラッセルだが、この時ばかりは自ら進んでやって来た。
「兄貴、ごめん!」
駆け込んできたラッセルにデイヴィットは振り向き、すぐに詰め寄る。
「何があった……?!」
それには幹部達も驚いた。
デイヴィットがここまで感情を見せたのは、今まで、一度だけラッセルと喧嘩をした時だけだ。
それでもこうも感情を剥き出しにはしなかった。
しかもこうして喋っていること自体が珍しい。
幹部の中にはデイヴィットが喋っているところを見たことがない、という者もいたくらいだ。
詰め寄られたラッセルも思わず両手を上げて、半歩身を引いた。
「ま、待てって、兄貴、まずこれを見てくれ」
ラッセルが自身の携帯端末からコードを伸ばし、それをテーブルの機器に取り付けた。
大きな円形のテーブルの中央に映像が流れる。
「これが一時間前の映像だ。リノが部屋を出た時、オレの部下が案内をしたらしい」
そこにはスキンヘッドに刺青をした大柄な男と、それについて行くリノの姿が映し出されている。
「トイレに行くって席を立ったリノをこいつが案内したはずだった」
監視カメラの映像では、男とリノがいくつも廊下や部屋を通り抜けていることが分かった。
「けど、こいつが案内したのは別の部屋だった」
どこかの部屋の扉を男が開け、リノが入ると、男も中へ入り扉が閉められた。
「ここは来客用の部屋の一つで、オレの部屋から一番離れた場所だ」
映像が早送りにされる。
そして、扉が開いたところで映像が止まる。
「ここで、人が出てくる。だがリノはおらず、別の女が出てくる。この女はリノじゃない」
大きなキャリーバッグを引きずりながら男が出てきて、それに派手めな女がついて出てくる。
「この女性は……」
ハッとベイジルが映像を見て目を丸くした。
部屋から出てきた派手めの女性はデイヴィットに執着しているらしい、あの人物だった。
ラッセルがはあ、と溜め息を漏らす。
「ああ、この間兄貴のところに来た奴だ。調べたら、この女、オレの部下の、こいつの妹だった」
こいつ、とラッセルが大柄の男を指で示す。
「そして多分、リノはこの中だ」
男の引いているキャリーバッグが示される。
確かにリノくらいなら十分入れそうだ。
「ええ、そうでしょうね……。でも何故リノさんを攫ったのでしょう。彼らが彼女を攫っても利はないように思えますが」
ベイジルが眉を寄せる。
「こいつ、ジルド=ジョンソンはオレの部下で、前にもリノと顔を合わせてる。そんでもってこいつの妹は兄貴の熱心なファンなんだろ? 兄貴から引き離すために攫ったんじゃねーの?」
ラッセルの言葉にデイヴィットが唸った。
幹部達から、リノを側に置くのはやめるべきだと言われたことはあった。
人間と新人類は相容れない。
それに新人類のリーダーとしても相応しくない。
もしどうしても人間を保護するなら、せめて研究所に入れるべきだと何度か説得された。
しかしデイヴィットは首を縦には振らなかった。
リノを手放すなんて出来ない。
あの小さな存在を放っておけない。
それも研究所に入れるなんて。
いくら説得しようとしてもデイヴィットが頷かないので、幹部達もどうするべきか考えあぐねていた。
新人類が人間を嫌っているのは分かっている。
けれども、デイヴィットはリノを側に置きたかった。
「そうだとして、リノさんは一体どこへ?」
「さあな。ただ、監視カメラで追った感じ、居住区の外に運び出されたみたいだ」
ラッセルが手元の端末を操作する。
するとテーブル上に浮かんでいた映像が切り替わり、見慣れない車が居住区の外へ向かって走って行き、バリケードの前に停車して降りてくる。
男が車の後部で何かした後、小柄なリノが後部座席から引きずり出されるのが映っていた。
ギリリとデイヴィットが拳を握る。
その目は、飢餓衝動でもないのに薄っすらと赤く染まっていた。
男は気絶しているのかぐったりと動かないリノを抱え、女と共に居住区と外との境目のバリケードを越えて歩いて行く。
そこからは先は途切れ途切れにいくつかのカメラの映像が流れる。
「ここから先は外のカメラだから、完全に追うのは難しい」
そして最後の映像で止まる。
「これが五分前の映像だな。東205–7番地」
リノを抱えた男と横に女が映っている。
「……捕まえろ」
唸るようにデイヴィットが言う。
それに幹部達が騒ついた。
「それはどうかと……」
「あの娘は人間だったんだ、居住区の外が人間の生きる場所だろう」
「むしろあれらは正しいことをしたのでは?」
「人間など近くに置くべきじゃあない」
殆どの幹部達が動くことに消極的だった。
それを耳にした瞬間、ドゴンッと鈍く大きな音がして、丸テーブルがひしゃげた。
デイヴィットが怒りのままにテーブルを殴りつけたのだ。
そのデイヴィットの拳はひしゃげたテーブルに埋まり、引き抜く際にメキメキと音がする。
「聞け」
デイヴィットの低い声が言う。
「あいつらを捕まえて、リノを探せ」
それはデイヴィットがリーダーになって以来、初めて自らの意思で下した命令だった。
幹部達はデイヴィットから感じる怒りに本能的に口を噤んだ。
冗談抜きに、拒否すれば殺されるのではと思うほど、デイヴィットは怒り狂っていた。
ラッセルとベイジルも互いにアイコンタクトすると、デイヴィットに頷いた。
「分かりました、すぐに手配します」
「オレも出来る限り監視カメラ探して、こいつらの動きを探ってみる」
ベイジルとラッセルの言葉にデイヴィットが頷いた。
そして苛立ったように椅子へ腰掛ける。
幹部達も互いに顔を見合わせた後、居心地悪そうにしていたが、この空気で「自分には無関係だから」と席を立つことは出来なかった。
仕方なく、幹部達もリノを探すために部下達へ連絡を入れる。
その様子を眺めながらデイヴィットは苛立っていた。
こんなに苛立つこと自体も久しぶりだった。
胸の内をグルグルと掻き乱す怒りと焦り、そして不安で落ち着かない。
つい、指先でテーブルを叩いてしまう。
ベイジルとラッセルが動くならば、きっとすぐにリノを攫った者達は捕まえられるはずだ。
デイヴィットは唸りのような息をこぼす。
…………リノ。
彼女の身の安全だけが心配だった。
* * * * *
それから三時間後。
ベイジルの元に連絡が届いた。
「映像に映っていた女性、シンディー=ジョンソンを捕縛して、こちらへ連行するそうですよ」
ベイジルの言葉にデイヴィットが顔を上げた。
椅子に座っているものの、その目の白い部分は薄っすら赤いままだ。
それだけでもデイヴィットの怒りが見て取れる。
先ほどから明らかに苛立った様子でテーブルを指で叩いたり、足を揺すったり、落ち着きがない。
室内の空気は冷え切っている。
リーダーであり、新人類の中でも最強とされるデイヴィットから発せられる怒りに誰もが萎縮していた。
ベイジルとラッセルはなんとか平静を保っているものの、デイヴィットがここまで立腹するとは思わなかった。
……それほどリノさんが大事なのですね。
最初はデイヴィットの心の慰めになるのなら、それでいいとベイジルは考えていた。
いつも、何に対しても無関心なデイヴィットが少しでも執着出来るものがあれば、死に急ぐように戦う彼を引き止められるのではないか。
そうしてデイヴィットはリノを大事にするようになった。
ベイジルにとってはそれは良いことであった。
過去、自分達研究員が彼らの両親を奪い、生活を、人生の大事な時を滅茶苦茶にしたことを思えば、デイヴィットに人らしい部分があるのは素直に喜ばしいことだった。
部屋の外が騒がしくなる。
扉の向こうで人の騒ぐ声や足音がして、そして扉が叩かれる。
ややあって扉が開かれた。
「ご命令の通りシンディー=ジョンソンを連行いたしました」
第一級の中でもかなり腕の立つ者達に囲まれて、その女性、シンディー=ジョンソンは連れて来られた。
派手な外見だが、暴れていたのか髪は乱れ、よく見ると肩に傷を負っていた。
「何なの?! 離してよ!!」
掴まれた腕を動かして振り払おうとするが、力の差があるからか外れない。
怒った様子のシンディー=ジョンソンは、しかし、デイヴィットを見つけるとパッと表情を明るくした。
「デイヴィット!」
まるで旧知の仲のようにデイヴィットの名前を呼び、言葉を続ける。
「ねえ、助けて! いきなりコイツらがあたしのこと捕まえて、ここに連れて来たの!」
デイヴィットに近寄ろうとするも、捕まえられていて動くことが出来ず、それでも諦めずにシンディー=ジョンソンは暴れていた。
デイヴィットが立ち上がり、近付いた。
シンディー=ジョンソンが嬉しそうな顔をする。
だが、デイヴィットは一メートルほど置いて立ち止まった。
「……リノはどこだ」
シンディー=ジョンソンが首を傾げる。
「リノ? 誰それ?」
「あなたとあなたの兄が連れ去った人間の少女のことです」
ベイジルが補足を入れれば、シンディー=ジョンソンは「ああ」と思い出した様子で顔を顰めた。
「あんなのどうだっていいじゃない! そんなことより兄さんを助けて! 人間に騙されたの!」
デイヴィットが「話せ」と言う。
シンディー=ジョンソンは簡単に口を割った。
新人類に襲われない人間がいて、その人間の少女がデイヴィットの側にいることをシンディーは兄から聞いたこと。
シンディーはリノが目障りだったが、自分の手を汚したくなかったこと。
だから人間側にそれとなく情報を流し、接触してきたあるグループと取引を行ったこと。
シンディーと兄はリノを攫ったこと。
そして居住区の外で人間にリノを引き渡したこと。
「でも人間に撃たれたの! あたしはなんとか逃げられたけど、兄さんは戻って来ないし、お金も手に入らないし、酷いでしょ?!」
泣きそうな声で訴えられるが、ベイジルからすれば酷いのはシンディー=ジョンソンの頭の中である。
デイヴィットの側にいるということは、リノの存在をデイヴィットが受け入れて、あえてそこに置いているのだ。
それを無理やり攫っていけばどうなるか……。
静止するよりも先にデイヴィットの腕が伸びた。
「ぁぐっ?!」
デイヴィットの手がシンディー=ジョンソンの首を掴み、持ち上げた。
ぎち、とその手が掴んだ首を握り締めている。
「デイヴィット!」
「兄貴!」
慌てて引き離そうとするが、どれほど力いっぱい掴んでも、引っ張っても、デイヴィットの手はシンディー=ジョンソンの首から離れない。
首を絞められてシンディー=ジョンソンが暴れるが、デイヴィットは手放す気配がなかった。
「デイヴィット、同族殺しはいけません!!」
ベイジルとラッセルだけでなく、シンディー=ジョンソンを捕縛した者達まで慌ててデイヴィットを引き離そうとする。
「兄貴、このままじゃ本当に殺しちまう!!」
ラッセルの言葉にデイヴィットが小さく唸る。
パッとシンディー=ジョンソンからデイヴィットの手が離れ、シンディー=ジョンソンが床へ落ちる。
デイヴィットは怒りをぶつけるように側にあった彫刻を何度も何度も殴りつけた。
そうして彫刻が影も形もなくなると、やっと止まった。
言葉にならないほどなのか、デイヴィットはまだ唸っている。
新人類にとって同族殺しは重罪だ。
同族意識が強いからこそ、同族を殺した者は嫌悪される。
怒りを振り払うようにデイヴィットが首を振った。
「……全部吐かせたら、研究所に連れていけ」
新人類の中で研究所とは、言わば刑務所のようなものである。
重罪を犯した者ほど苦しい実験が行われる。
むせていたシンディー=ジョンソンが倒れたまま、デイヴィットに腕を伸ばしたが、その手が届く前にベイジルの部下達によって引きずり出されていく。
「デ、ヴィットッ、デイヴィット……!」
縋るようなシンディー=ジョンソンの言葉にデイヴィットが振り返る。
白目の部分が赤くなり、怒りのこもった睨みと殺気を向けられて、シンディー=ジョンソンが「ひっ」と怯えたが、そのまま扉の向こうへ引きずられて消えていった。
デイヴィットが舌打ちをする。
彼でも舌打ちなどするのかとベイジルは驚いた。
「デイヴィット、今も皆がリノさんを探しています」
「ああ、そうだぜ、オレの方でも行方を追ってるから、もう少しだけ我慢してくれ」
デイヴィットは黙って頷いた。
それでも、目の赤さは戻ることはなかった。
* * * * *




