ゾンビ青年と
ゾンビだろう彼の手を引いて歩く。
全く人気のないビル群は何だか違和感がある。
どこからか何かの燃えたような臭いがする。
わたし達が歩いている大通りにはそこら中に車やバイク、バスなどが停まっているけれど、どれも互いにぶつかっていたり、どこかにぶつけていたり、無事なものの方が少ない。
彼の手を引きながら既に一時間は歩いている。
空を見上げれば、大分日が傾いた。
「そろそろどこか泊まる場所でも見つけないとね」
ふあ、と欠伸が漏れる。
今日はよく歩いたので疲れた。
彼は否定も肯定もせず、黙ってついてくる。
ここまで歩いて来るうちに気付いたが、この世界の文字が読めるようになっていた。
言葉についても、彼が私の言葉を理解しているようなので、恐らく通じている。
見つけたコンビニに入ってみたが、やはり人の気配はない。
多少、血の跡が床にあるのは目を瞑り、カゴにポイポイと飲み物や食べ物を突っ込んでいく。
食べ物はいくつか残っていたが、いつからこの状態なのか分からないため、冷蔵物には手をつけず、密封された袋や缶のものを選んだ。
「何か食べたいものある?」
彼に問うたが返事はない。
しかし自ら動き出してカゴに食べ物や飲み物を入れて、重くなったので床に置きっ放しにしていたカゴを持ってくれた。
カゴいっぱいに食べ物と飲み物を詰め込んで外に出る。
……お店の人、生きていたらごめんなさい。
それから通り沿いあったビジネスホテルの一つに入ってみる。
自動ドアを抜けて、ホールへ入った途端ギョッとした。
そこまで広くはないホールに何故かゾンビが沢山収まっていたのだ。
だが、ゾンビはわたしに反応しなかった。
…………あれ?
ゾンビは「あー……」とか「うー……」とか意味のない声をこぼすだけで、わたしに襲いかかる気配はない。
……この世界のゾンビって人間を襲わないの?
けれど、ここに来るまでに明らかに血溜まりだろうものとか、何かを引きずった血の跡らしきものとはを見かけている。
それに拍子抜けしつつ、襲われないならとゾンビ達の間を抜けようとすれば、不思議なことに自然と道が拓けていく。
まるでモーセの某海のシーンのようにゾンビ達が左右にいる中を進み、エレベーターへ辿り着く。
△ボタンを押せばエレベーターが下がって来る。
ポーン、と気の抜ける音と共にエレベーターの扉が開いた。
彼を連れて中へ入る。
開閉ボタンを押し、適当に三階のボタンを押した。
扉が閉まって微かな浮遊感を感じた。
ポーン。扉が開いた。
エレベーターホールに出る。
「鍵が開いてる部屋がないか調べて来るから、ちょっとここで待ってて」
そう声をかけたが、歩き出すと彼はついて来た。
……離れたくないのかな?
何だかよく分からないが懐かれたようだ。
三階の部屋を一つずつ確かめる。
殆どは鍵がかかっているようだったが、七つ目の部屋は鍵がかかっていなかったので、中へ入ってみた。
部屋は一人用で、やや大きなベッドが一つ、机とテーブル、小さな冷蔵庫、クローゼットがある。
トイレのついたシャワールームもある。
幸いなことに血などもない。
「今日はここに泊まろう」
そう声をかければ、彼は机の上にカゴを置いた。
……うん、やっぱり言葉は通じてる。
シャワールームでお湯が出るか確認すると、問題なくシャワーノズルの先から温かなお湯がザアッと出た。
シャワールームから頭を出す。
「ねえ、シャワー浴びる?」
彼は窓辺に立って外を見ている。
反応がないことには慣れてしまった。
頭を引っ込める。
扉を閉めて、靴を脱ぎ、服や下着も脱ぐ。
ビニールカーテンを広げてその中へ入り、シャワーからお湯を出す。
それを頭から浴びた。
……気持ちいい。
幸い、シャンプーなどの最低限のアメニティ用品も置かれており、ありがたくそれを使って髪や体を洗う。
置いてあるバスタオルで水滴を拭い、仕方ないので今日着ていた下着と服を着直して、ドライヤーで髪を乾かし、靴をつっかけながら出る。
「出たよ」
彼は相変わらず窓の外を見ている。
それを見つつ、机の上のカゴに近付く。
「お腹空いたし食事にしない?」
そこでやっと彼が窓から視線を外す。
わたしが水のペットボトルと栄養補助食らしきものを手にベッドに腰掛ければ、彼は机から椅子を引っ張って、もう片手にカゴを持ってわたしの前に来た。
足元にカゴを置くと中から食べ物を取り出して、今度は自分で食べ始めた。
わたしもそれを見つつ、栄養補助食を開けて食べる。
ほんのりチョコレートの味がした。
とにかく疲れていたし、眠かったので、それだけ食べると靴を脱いでベッドに寝転がる。
「わたし、眠いから先に寝るね」
彼はモグモグと食事を続けている。
一応「おやすみ」と声をかけて、ベッドの端に寄って横になる。
ふかふかのベッドに枕が心地好い。
目を閉じればわたしはすぐに眠りに落ちた。
* * * * *
翌朝、というより昼近い時間に目が覚める。
重い体と眠気にしばらくボーッとする。
正直言うと起きたくない。
けれども、いつまでもこのビジネスホテルに居座っているわけにもいかないだろう。
人間を見つけなければ。
……でもこの人もいるしなあ。
ゴロリと寝返った先、窓の外を眺める彼がいる。
ぼんやりとその姿をしばらく見る。
それから、ゆっくりと重い体を動かして起き上がった。
「おはよう」
彼は窓の外に顔を向けたままだ。
とりあえずベッドから出て、手櫛で髪を整えつつ、彼へ近付いた。
足元にあったカゴを見ると殆ど食べ尽くされており、彼が昨夜のうちにかなり食べたのが分かった。
……凄い食べるんだなあ。
ついでに飲みかけのペットボトルを掴む。
「何見てるの?」
ペットボトルに口をつける。
この世界のペットボトルの水は美味しい。
彼の横に立って見下ろした。
何か特別なものがあるようには見えない。
わたしも少しだけ景色を眺めた。
ビル群の隙間なのでさほど見るものもないが。
もう一口水を飲み、窓から離れ、靴を履く。
シャワールームの洗面所で顔を洗い、タオルで顔を拭う。化粧水などがないのは我慢しよう。
部屋に戻って机の前の椅子に腰掛ける。
アメニティの使い捨ての櫛で髪を梳かし、服の皺を手で伸ばす。
カゴから新品のトートバッグを取り出して封を開け、バッグに飲み物と少なくなった食べ物を詰め込んだ。
「そろそろ出てもいい? どこかで朝食を見つけて、食べながら行こう」
彼がやっと反応して窓から離れた。
わたしの側に来るので、特に意味はないけど手を繋いで部屋を出る。
エレベーターホールまで行って、▽ボタンを押してエレベーターを呼び、二人で乗って下へ降りる。
ポーンと音がして扉が開いた。
……まだいる。
昨日と変わらず、そこにはゾンビがいた。
そうしてまた左右に分かれたゾンビ達の真ん中を通って出入り口へ向かい、自動ドアを潜って外へ出る。
「どこに行けばいいのかなあ……」
思わず呟く。
「ねえ……」
隣を見上げて、ちょっと考える。
「あなた、名前は? わたしは古坂理乃。理乃が名前で、古坂が姓? 家名? っていうのかな?」
アイスブルーの瞳が見返してくるが、返事はない。
ずっとこの先も「あなた」とか「ねえ」とかだと、話しづらいので、名前があるなら知りたいのだが。
反応が薄いと言うか、何というか……。
「名乗らないなら適当に呼んじゃうよ?」
否定も肯定もない。
「じゃあ、そのアッシュグレーの髪が綺麗だから、アッシュって呼ぶね?」
反応はないが、嫌がっている雰囲気もない。
嫌がっていないのなら良いのだろう。
「ねえ、アッシュ、この世界? 街? に、安全な場所ってある? わたし、行くところがないの」
そこでやっと彼、アッシュが反応を示した。
腕を上げて、昨日わたし達がやって来た方向を指差した。
その腕と方向を交互に見てしまう。
「あっちに安全な場所があるの?」
初めて、彼がこっくりと頷いた。
たった一日しか経っていないが、わたしの言葉に対してここまで明確な意思疎通が出来たことに一種の感動を覚えた。
しかし同時にがっくりと肩を落とす。
元来た道を指差したということは、昨日、ここまで歩いて来た数時間は無駄となった。
「何で教えてくれなかったの?」
今度はもう反応がない。
はあ、と溜め息が漏れたが諦めた。
そもそも彼はわたしの後をついて来ただけで、わたしも、彼にどこが安全な場所なのか訊かなかった。
それで彼を責めるのはお門違いというやつだ。
「ごめん、わたしが訊かなかったのが悪かったよね。アッシュはただついて来ただけだった」
繋いだ手を握り返す。
だらりと力のこもっていない手だ。
「あのね、安全に生活出来る場所に行きたいんだ。だから、そういう場所を知ってるなら、そこまで案内してくれる?」
また、こっくりとアッシュが頷いた。
そしてゆっくりと歩き出した。
どうやらわたしに歩調を合わせてくれるようだ。
歩き出したアッシュはわたし達が昨日歩いて来た道を、辿るように戻り始めたのだった。
途中、昨日寄ったコンビニにもう一度寄り、食べ物を補充した。
ついでにそこで遅めの朝食兼昼食も食べた。
アッシュは本当によく食べる人で、黙々と食べ物を機械的な動きで口に運ぶ姿をわたしはぼんやり眺めて食べ終わるのを待った。
コンビニで一時間ほど過ごして、わたし達は昨日来た道を戻っていった。
二時間ほど戻ったところでゾンビが道路にいるのを見つけた。
一人や二人ではなく、数十人とか、もしかしたら百人くらいはいるかもしれない。
……こんなにいたんだ……。
ふらふら、ズルズル、ゾンビが徘徊している。
アッシュがピタリと止まった。
「アッシュ?」
見上げると、見下ろされた。
そうして突然抱き上げられた。
持っていた荷物を落としてしまったが、アッシュはわたしの「え、何っ?」という言葉を無視して、わたしを抱き上げたまま、大股で道路を少し戻った。
そして停まっていた小型バスの陰にわたしを、ドサッと雑な動きで下ろす。
お尻を地面に強かに打ちつけた。
「痛っ……!」
床に座り込んだわたしを他所にアッシュが立ち上がって歩き出す。
かなり大股で歩いて行ってしまい、追いつくのは難しそうだ。
何事かと打ちつけたお尻をさすりつつ、バスの陰から首を伸ばして見れば、アッシュはゾンビの大群まで行き、そこでグッと少し腰を落とした。
そうして跳躍した。
ジャンプなんて可愛いものではなく、人間とは思えない勢いで飛び上がり、ゾンビの大群の頭上を飛び越していく。
どうやら所々にある車を足場に跳躍しているらしい。
……どこに行くんだろう……。
急に心細い気持ちになる。
元の世界ではこんな気持ちになったことはない。
……置いていかれたらどうしよう。
今更だが追いかけようとバスの陰から出ようとした時、パァンッと乾いた破裂音が響き渡った。
映画なんかで聞いたことがある。
……これは銃声だろうか?
映画で聴くよりももっと鋭くて、乾いた音だ。
それが何度も響いてくるし、何なら人の悲鳴や怒号もしっかり耳に届く。
「何がどうなってるの……?」
その声や音に反応してか、ゾンビ達がその方向へ向かっていく。
大勢のゾンビの向こうから聞こえる悲鳴や音に呆然とその場に座り込んだまま、混乱した。
……この世界のゾンビも人を襲うの?
しかし昨日と言い、今日と言い、わたしはゾンビに襲われなかった。
だからこの世界のゾンビは凶暴じゃない。
そう、思ったのは間違いだったらしい。
呆然としている間にいつの間にか音は止んでいた。
また、ゾンビ達の上を跳躍して戻ってくる影があった。
その影はゾンビを越えて戻って来ると、わたしの下まで大股で歩いて来た。
黒い服なので分かり難いが、足元を見れば、赤黒い小さな水滴の落ちたものが点々と残っている。
……わたしも殺されるのだろうか。
見上げた先、アイスブルーの瞳が静かにわたしを見下ろしてくる。
アッシュから生臭い、濃い鉄の臭いがする。
今、彼は人間を殺してきたのだ。
それなのに、どうしてだろうか。
同じ人間であるはずのわたしを前にしても、アッシュから、わたしを害そうとする気配は微塵も感じられない。
昨日出会った時と変わらない静かな佇まいだ。
「アッシュはわたしを殺さないんだね」
いや、アッシュだけではない。
多分この世界のゾンビはわたしに反応しない。
理由は知らないが、それはこの世界で生きる上でかなりのアドバンテージではないだろうか。
立ち上がって汚れを払う。
歩き出せば、アッシュはまるでカルガモの親子のようにわたしの後ろをついて来る。
落とした荷物を拾っている間は待っている。
「安全な場所は向こうで合ってる?」
この道路の続く方向を指差すと、アッシュはこっくりと頷いた。
手を繋ごうと近付くと何故か一歩下がられた。
もう一歩近付けば手を後ろへ隠すような仕草をする。
隠した腕の辺りからポタポタと赤黒い雫が落ちる。
……手は繋がない方が良さそうだ。
でもそのままというのも困る。
「袖捲って手を出して」
ペットボトルの水を取り出す。
「これで手を洗おう」
アッシュは素直に手を出して、わたしがペットボトルを傾けると、その水で手を洗う。
その水に流れる赤を見ながら思う。
この世界のゾンビは人間を襲う。
でもわたしのことは襲わない。
それなら、それでいい。
積極的に死にたいわけでもないし、とにかく今はわたし自身が生きることを考えよう。
綺麗になったアッシュの手を見る。
「さあ、行こう」
わたしを襲わないならゾンビは怖くない。
アッシュは素直にこっくりと頷いた。