人間(2)
「おい、まだ子供じゃないか」
「そうだね、思っていたよりは幼かったよ」
「こんな子を誘拐させたのか?」
誰かの話し声がする。
聞いたことのない声が二つ。
……うるさい。
もぞ、と動くと声が止まった。
相変わらず頭が少しくらくらするが、目を開けた先に、見覚えのない男性が二人立っていて、わたしは毛布に包まったベッドから見上げた。
「……だれ」
まだ気分が良くない。
それでも目を開けるくらいは出来る。
一人はアッシュと同じくらいの身長だろうか、柔らかな淡いブラウンの髪の男性。
もう一人は緑がかった髪に眼鏡をかけた、一人目よりもやや背の低い白衣姿の男性。
白衣の男性が手を伸ばしてきて、わたしの顔に触り、目元の皮膚をチョイと下げて覗き込んでくる。
「おや、もしかして貧血かな? 持った感じから採血の量は調整したはずなんだけど。採り過ぎたかねえ」
どうやらこの気持ち悪さは血を抜かれたかららしい。
……いやいや、待ってよ。
「勝手に、他人の血を抜くのが、あなた達の常識ですか? ……う、」
くら、と目眩がする。
「大丈夫かっ?」
伸ばされた手を今度はなんとか払った。
「触らないで……」
気持ち悪さで気分は最悪だ。
少し寝たくらいではちっとも良くならない。
わたしが手を払ったからか、ブラウンの髪の男性が戸惑ったように手を彷徨わせ、そしてもう一人の男性を見た。
「グレッグ、まさか本人の意思を無視してもう何かしたのか?!」
「ああ、採血をちょっとね。ほら、一応ゾンビじゃないか確認しておかないと他の人々が不安がるだろう?」
「なら本人の意思を訊いてからするべきだろう!」
男性の怒ったような声と、全く悪びれた様子のない声が頭上から聞こえてくる。
……ああ、もう!
「具合が悪いの見て分からないの?! 用がないなら出てって!!」
思わず起き上がって叫べば気持ち悪さが増した。
それでも叫ばずにはいられなかった。
知らない場所で、知らない人がいて、おまけに勝手に採血されたらしくて具合が悪いのに、頭上でギャーギャー騒がれたらさすがのわたしだって苛立つ。
ふっと視界が暗くなり、体の力が抜ける。
ぐらりと体が傾いてベッドに倒れ込んだ。
上手く体に力が入らない。
ベッドの上で丸くなって気持ち悪さをやり過ごす。
「す、すまない……」
「あー……、出直した方が良さそうだね」
ややあって、足音がベッドから離れて扉の開く音がする。……鍵のかける音がした。
はあ、と息が漏れる。
体が僅かに震えている。
…………怖い。
採血をしたと言っていたけれど、本当にそれだけなのだろうか。
そうだとしたら、きっとかなりの量を抜いたのだろう。
体が冷えて、寒くて、体を縮こませても、手足を摩っても、一向に体が温かくなる気配がない。
……誰だったのだろう。
少なくとも、先ほどの二人は人間だった。
……居住区の外ってことかな……。
とにかく具合が良くない。
今はとにかく眠って体調を整えなくては。
* * * * *
それから何度か寝たり起きたりを繰り返した。
そうしているうちに少し体調が良くなって、でも、白衣を着た人が持ってきた食事に手をつけようとは思わなかった。
正直、ペットボトルや缶の飲み物ならともかく、こんな知らない場所で出された食べ物を何の躊躇いもなく口に出来るほど呑気ではないつもりだ。
しばらくベッドの上で毛布に包まって座り込んでいると、部屋の扉が叩かれた。
返事はしない。
しなくても勝手に開けられることは分かっている。
毛布の中から扉を睨んでいれば、開いた扉から男性が入ってきた。
男性は起き上がっているわたしを見て、どこかホッとしたような顔をする。
「体調はもう大丈夫か?」
男性が扉を閉じる。
すぐにガチャリと鍵の閉まる音がした。
「……良く見えますか?」
「いや、まだ顔色が悪いな。それにクマもある」
「それは元からです」
毛布を被れば男性が苦笑する。
「そうか、それは失礼した」
男性が椅子を見る。
「座っても?」
「……どうぞ」
どうせダメだと言っても座るのだろう。
男性は椅子をベッドに引き寄せると、ベッドの脇に置いてそこへ腰掛けた。
この男性は見覚えがある。
柔らかなブラウンの髪はここに来て最初に目を覚ました時に見た色だ。
「私はイライアス=コーニッシュという。ここの、まあ、言うなればリーダーみたいなものだ。だが君を連れて来たのは私の友人で……。言い訳に聞こえるだろうが、私はそれを知らなかった」
男性が「すまない」と言う。
「ここはどこですか?」
わたしの問いに男性が顔を上げる。
「廃病院の地下だ。街の東、K320–12番地だ」
住所を言われても、そこが新人類の居住区から離れているのか近いのか、わたしには判断がつかなかった。
ただ居住区ではないことだけは確かである。
……寒い。
毛布を握る手に力がこもる。
「わたしに何の用ですか?」
自然と冷たい声が出た。
男性が眉を下げて、困ったような顔をした。
「謝りに来たんだが……。その様子では許してはくれないのだろうな」
「本当に悪いと思っているなら今すぐ解放してください」
「それは出来ない」
……ほら、やっぱり。
「ゾンビにこの場所を知られるわけにはいかない」
久しぶりに怒りを感じた。
こんなに腹が立って、相手をぶん殴ってやりたいと思ったのは、きっと中学のあの時以来だろう。
……勝手に攫っておいて。
本当に申し訳ないと思っているのであれば、わたしのことを解放しているはずなのだ。
そうしないということは、結局は自分達の身勝手でわたしをここに監禁しているのである。
握った拳が怒りで震える。
目の前の男を殴ったら多少はマシになるのだろうか。
「……どうして、わたしを攫ったんですか?」
怒りをやり過ごすために深呼吸して問う。
男性は困った顔のまま言う。
「君はゾンビに襲われないそうだね」
「……何のことですか」
「君を攫ったゾンビから私の友人が聞いたそうだ。なんでもデイヴィット=ウォルトンのところにいる人間が、ゾンビに襲われずに生活しているとか。それが君だろう?」
……もうバレてるのか。
どっちがバラしたにしても、知られている以上はもうどうしようもない。
「そうだとしたら? ……まさか、そのためだけにわたしを誘拐したんですか?」
「ああ……。友人はそれが事実かどうか、そして事実であれば人間側に大きな利益があると考えた」
「ア、デイヴィットの下から誘拐すれば、それこそ人間と新人類の対立が酷くなるでしょう?」
男性が首を振る。
「もう、人間とゾンビの対立はどうにもならないところまで来ている。後数年、もしくは十数年もしたら人間はこの地上から消えてしまうかもしれない」
男性が自身の手を握り、それを見下ろす。
そこには怒りと憎しみがあるように見えた。
「もしも君のその、ゾンビに襲われない理由が分かれば、人間がゾンビに襲われずに生き残れる可能性が出てくる」
がばりと男性が頭を下げた。
「頼む、私達に、いや、人間のために協力してくれ! 私達には君のような存在が必要なんだ!」
柔らかなブラウンの頭が目の前にある。
だが、わたしの答えは決まっている。
「絶対に嫌です」
男性が驚いた様子で顔を上げる。
「何驚いているんですか? そもそも、わたしは誘拐されてここにいるんですよ? 自分を攫った相手に『はい、そうですか』と協力するとでも? 正直、あなた方が死んだところでわたしには関係のないことです」
むしろ誘拐犯が死んでくれるなら、わたしはここを出て、アッシュの下へ戻ることが出来る。
目の前の人間に協力してもわたしに利益はない。
情に訴えかけられたところで、その情がそもそもないのである。
男性が信じられないという顔でわたしを見た。
「君は、人間がどうなってもいいと?」
「ええ、どうでもいいです」
自分勝手に攫っておいて、逃げられない状況で協力を迫るなんて最低だ。
選択肢なんてあってないようなものだ。
それに協力しても、しなくても、わたしはきっとここから出してはもらえないのだろう。
それならば自分の気持ちに正直でいよう。
「わたしが協力して、それで? 実験するんですか? デイヴィット=ウォルトンが最初の新人類になった時のように、捕まえて、好き勝手に実験して、もしそれでも理由が分からなかったら?」
「それは……」
「理由が分かるまでわたしをこの部屋に閉じ込め続けるんでしょう? そうなるくらいなら死んだ方がマシですね」
愕然とした様子で見つめられる。
「そんなに、人間が嫌いなのか……?」
……そう、そうかもしれない。
自嘲の笑みが漏れる。
「人間なんて大っ嫌い」
でもそう思っても当然じゃないだろうか。
「あなた達は自分のしたことを思い返してみればいい。安全で温かな場所から勝手に誘拐して閉じ込めておいて『協力』なんて自分達の罪悪感を減らしたいだけの言葉で、逃げられないような状況で迫って。これで好意を持てと言う方が無理な話では?」
わたしの言葉に男性が顔を顰めた。
その表情は悲しげで、苦しげで、でも何も言い返せなかったようで押し黙っている。
「出ていってください」
扉を指で示す。
そうすれば男性は緩慢な動作で立ち上がり、扉を何度か叩いた。
外から鍵を開ける音がして、扉が開き、すぐにまた扉が閉められると鍵のかかる音がする。
わたしは深呼吸する。
吸って、吐いて、吸って、吐いて……。
「ふざけんなぁああっ!!」
平たい枕を掴んで扉に叩きつけた。
* * * * *
背後で扉が閉まり、イライアスは頭を抱えた。
少女の言っていることは正論だった。
誘拐してきたのはグレッグであり、そしてグレッグはこのグループの一員で、その責任はリーダーであるイライアスのものでもある。
たとえイライアスが知らなかったと言っても、それでなかったことになるわけではない。
しかも少女を解放することも出来ない。
この場所をゾンビ達に教えられても困る。
そして、ゾンビに襲われない人間である少女の価値を考えると、手放したくないと思ってしまった。
協力して欲しいなどと、言えた口ではないのだ。
そんなもの、少女が言う通り、ただイライアスが罪悪感を軽くしたいだけの言い訳に過ぎない。
全くもってその通りである。
だから反論するための言葉が見つからなかった。
「やあ、イライアス、どうだった?」
グレッグに声をかけられて首を振る。
「無理だ。……正論を返されて何も言えなかったよ」
「なんて言われたんだい?」
「『誘拐犯に協力すると思うか?』」
「それは正論だねえ」
あーあ、とグレッグが頭を掻く。
少女からしたら当たり前のことだ。
言われるまで、イライアスは頭を下げれば少女は協力してくれるのではと思っていた。
それこそが傲慢なのだと突きつけられた。
人間のためという言葉で少女から選択肢を奪おうとした。
いや、今も奪っているのだ。
誘拐して、監禁して、その上、研究させろと言われて頷く人間がいるはずもない。
「とりあえず、今は彼女の怒りが落ち着くのを待つしかなさそうだね」
グレッグの言葉にイライアスは思う。
そんな時が本当に来るのだろうか。
こうして監禁している以上、そんな日は来ないのではないだろうか。
少なくとも、彼女の様子からして、我々のことを許してくれそうにはとても感じられない。
「それは難しいんじゃないか?」
イライアスの言葉にグレッグが首を傾げた。
「そう? でも、まあ、今は刺激しない方がいいってのは確実でしょ?」
確かに、今はどうしてもあの少女を説得するのは無理だ。
時間を置いて、様子を見て、もう一度話すしかない。
……それでも。
少女の言う通り解放は出来ない。
グレッグもそうだが、この件に関わっている他の者達も、少女の存在に期待してしまっている。
ゾンビに襲われないという希望。
それを知ってしまったのだ。
ここで彼女を手放せば、他の者達の離心を招きかねない。
ただでさえギリギリの人数で暮らしているのに、これ以上人数が減るのは避けたい。
身内で諍いをする余裕もない。
……ああ、本当にそうだな……。
自分達は身勝手だ。
こちらの都合しか考えていない。
少女が大嫌いだと言うのも頷ける。
「……一日、二日、食事の配給をやめて、空腹になったところで食事で釣ってみよう」
それでもイライアスはこのグループのリーダーだ。
たった一人の命よりも、大勢の命を優先しなければならない。
グレッグが目を丸くする。
「いいのかい?」
叫ぶ良心を抑え込む。
「ああ、人間のためだ」
それが間違っていると分かっていても、イライアスはそれを選択するしかない。
グループのため、人間のため。
そして自分自身のために。
少女には無理にでも協力してもらうしかない。
イライアスは眉を顰めたまま、グレッグを残し、その場を後にした。
* * * * *