人間(1)
目を覚ますとコンクリートが剥き出しの天井があった。
……どこだ、ここ。
起き上がると頭がくらりとする。
思わず顔に手を当てて、なんでと考えて、唐突にこれまでのことを思い出した。
……あー……。
あのアッシュの熱烈なファンだという女性と、その協力者らしい男性に何やら変なものを嗅がされたら気を失ったのだった。
あたりを見回す。
…………病院、かな?
かなり塗装の剥がれた天井や壁だが、白い部分も残っており、鉄パイプの簡素なベッドと木製の机、椅子、部屋に備え付けの小さな洗面所があった。
ベッドから見て正面と右手にそれぞれ一つずつ扉があり、部屋に窓はなく、扉も頑丈そうだ。
ベッドに手をつくと右腕がチクッと痛んだ。
服の袖を捲るといつの間にか注射の跡がある。
とりあえず袖を戻してベッドから立ち上がった。
……靴がない。
仕方なく靴下のまま立ち上がり、まずはベッドの正面にある扉に向かい、そこを開けた。
トイレだ。ここにも窓はない。狭い。
戻って、今度はベッドから見て右手側の扉へ向かい、ドアノブを掴んで動かす。
……鍵かかってる。
何度試してもガチャガチャと音が鳴るばかりで、ドアノブは途中で動かなくなる。
扉を叩いてみたが、かなり詰まった音がするので結構分厚いかもしれない。
もう一度室内を見回して、ふと部屋の隅に監視カメラらしきものが設置されていることに気が付いた。
……本当にどこだここ。
またくらりと立ち眩みがする。
……気持ち悪い……。
なんとかベッドに戻り、そこへ倒れ込む。
注射の跡があったが、何かを打たれたか、逆に採血されたか。
あの派手な女性の言葉を思い出す。
さようなら、と言っていた。
多分、ここはラッセルのビルではない。
それどころか、運び出されて別の場所にいる可能性の方が高い。
……うう、ダメだ、ふらふらする……。
あんまり寝心地の好くない硬いベッドだ。
シーツも薄く、かかっている毛布もなんだかちょっとゴワゴワしていて嫌だが、他に横になれる場所もない。
仕方なく毛布に包まって身を縮こませる。
体調が良くなるまでは動けそうにない。
* * * * *
「グレッグ、どういうことだ! 何故勝手に特殊部隊を動かした?! それに隔離部屋に何故人間の少女を捕らえているっ?」
グループのリーダー、イライアス=コーニッシュは思わず机を叩いた。
それに室内にいた者達が、一人を除いてバツの悪そうな顔で視線を逸らし、押し黙った。
その唯一、全く悪びれた様子のない白衣の男を、イライアスは真正面から見据えた。
イライアスは総勢百数名ほどの人間グループのリーダーである。
基本的には皆の意見を纏めたり、戦闘では先陣を切って戦ったり、このグループの責任者でもあった。
そのイライアスに何の断りもなく、戦闘員を十名も勝手に使い、目の前の白衣の男がどこからか人間の少女とゾンビ──本人達は新人類と言い張っているようだが、人間からすれば見境なく襲って来る様はホラー映画さながらのゾンビでしかない──を一人連れて戻って来た。
「そう怒らないでくれよ。あの少女はそうするだけの価値があるってことさ。ゾンビの方は、まあ、オマケだよ。少女の方はどうしても手に入れたかったんだ」
白衣の男、グレッグ=ビードンは代用コーヒーを飲み、あまり美味しくなくて僅かに眉を寄せると、マグカップをテーブルに置いた。
イライアスも眉を顰めたまま問う。
「どういうことだ?」
人間側の生活は年々厳しくなっている。
地下のシェルターや街を拠点に暮らしている者達はまだいい。
ああいう場所は食料や生活に必要な物資をある程度自らで用意出来るし、武器もあり、人出も多いので、防衛面でも暮らしの面でも多少の余裕がある。
だがイライアス達のような小さなグループはそうもいかない。
食料や武器を自分達で得るために、ゾンビの蔓延る外で頻繁に出なければならず、行ったからと言って必ずしも目的の物が手に入るとは限らない。
むしろ手に入らないことの方が多い。
近場の店や施設などにあった物資や食料は底をつき、段々と遠出をしなければならなくなっている。
食事も、場合によっては日に一度の時もある。
時にはゾンビ達の補給路を襲って奪うこともある。
しかしそれには多大な労力と犠牲を払うことになり、得られる物の価値と比べるとそう簡単に繰り返せることではない。
それに街の中心部にいるゾンビ達と、バリケードの外にいるゾンビ達は明確な違いがある。
バリケードの外のゾンビ達は意思がないけれど、バリケード内部のゾンビ達は意思がある。
彼らは自分達を新人類と呼び、世界各地で同族で纏まって暮らしている。
今では人間の方が数が少ないだろう。
これ以上人間の数を減らすわけにはいかない。
そして何より、グループに属する人々の身の安全を守るためにも、武器や弾薬は極力無駄にしたくない。
いくら研究者と言えど、グレッグもそれを理解しているはずだった。
問われたグレッグが身を乗り出した。
「捕獲したゾンビによると、あの少女は『ゾンビに襲われない』そうだ」
イライアスは耳を疑った。
「……なんだって?」
ゾンビは人間を襲う。
街の中心部にいるゾンビ達は個体差はあるものの、やはり人間に敵意を持っているようで、会えば襲われる。
意思のないゾンビも当然襲って来る。
だから人間とゾンビは敵対する。
ゾンビに襲われれば、彼らと同じゾンビとなるか、最悪殺されてしまう。
生きるためには戦うしかない。
それがこの世界の、人間達の常識だった。
「それは事実か?」
「まあ、ゾンビの言葉を信じるならそうらしい。なんでもあのデイヴィット=ウォルトンと一緒に暮らしていたとか」
「信じられない……」
デイヴィット=ウォルトンはゾンビ達の頂点に君臨する存在であり、世界で一番最初にゾンビとなった男の名前だ。
たった二年前に研究所から解放されたあの男に皆殺しにされた人間のグループはいくつもある。
目の前のグレッグはゾンビ研究の第一人者で、当時、研究所にてデイヴィット=ウォルトンを実験体として研究をしていた研究者だ。
二年前、研究所が襲われた時になんとか逃げ出したらしく、その後、イライアスのグループに流れてきた。
グレッグはゾンビ達からかなり嫌われているようで、グレッグがゾンビと会うと、大抵強い凶暴性を発揮する。
グレッグでなくとも、ゾンビは人間に対して凶暴だが。
「それについてはあの少女が目を覚ましてから実験してみるつもりさ。でも、もし本当にゾンビに襲われないのであれば研究する価値はある。その理由が解明出来れば、役に立つだろう?」
「それは、そうだが……」
ゾンビに襲われない人間。
何故襲われないのか。
それが解明出来れば、やがては人間とゾンビの対立に終止符を打つことが出来るかもしれない。
その理由が分かれば、ゾンビに襲われずに暮らしていく方法が見つかるかもしれない。
この、日々生きるだけで精一杯の、いつゾンビに襲撃されるかと怯える暮らしから解放される可能性もある。
「だが、そうだとしても隔離する必要はないだろう。あの部屋は本来、実験体を閉じ込めておくための場所だったはずだ」
少女を見た者が一目で人間と判断がついたのならば、恐らく少女は人間なのだろう。
ゾンビは死人のように血色が悪く、近くに人間がいると白目の部分が赤く染まるので、人間に紛れることは不可能だ。
「きちんと説明して協力を仰ぐべきだ」
イライアスの言葉にグレッグが首を振る。
「それは無理だね。あの少女はデイヴィット=ウォルトンと暮らしてたって言っただろう? どうやってそんな少女を連れ出したと思う?」
イライアスが眉を寄せ、そしてハッとする。
ゾンビに襲われない少女がゾンビ達の中で暮らしていたとして、そこから自らの意思で出て来るだろうか。
あまり言いたくないが、現状、ゾンビ達の方が良い暮らしをしている。
水道も、電力も、ゾンビ達が街の中心部で暮らしているからイライアス達にもおこぼれがある状態だ。
ゾンビのせいでこのような生活を送ることになっているというのに、そのゾンビ達のおかげで何とか生活出来ているというのはあまりにも皮肉な話だ。
「捕まえてきたゾンビと交渉したんだよ。金を払う代わりに攫ってきてくれってね」
それは全く対等な取引ではない。
人間側にとって、金などゴミ同然である。
食料や武器弾薬の方が金よりも価値があり、金なんてあっても邪魔になるだけの無価値なものとなってしまっている。
「お前、それはまずくないか?」
ゾンビ達にも意思のある者達がいる。
デイヴィット=ウォルトンもその一人だ。
その男の下から少女を誘拐したということだ。
「もし被験体番号001があの少女を大事にしていたら、きっと大騒ぎになっているだろうねえ」
「今からでも返すわけには……」
「むしろその方が危険だと思うよ。解放すればあの少女は間違いなく被験体番号001の下へ戻り、我々についても話す。この拠点の場所もバレてしまう」
イライアス達が現在暮らしているのは、大きな廃病院の地下である。
実はゾンビ達の住む街の中心部からそこまで離れておらず、息を潜め、ひっそりと暮らしている。
以前はもっと離れた場所にいたが、食料や武器などの物資が足りなくなったため、仕方なく移動したのだ。
廃病院内部には、グレッグが考案した特殊な薬品を散布し、人間の臭いを誤魔化してあった。
その薬品のおかげでゾンビ達に気付かれずに行動出来ているが、薬品も沢山あるわけではないため、何れはここも離れることになるだろう。
「危険だが、それを犯すだけの価値はあると僕は思っているよ」
イライアスはすぐに反論が出来なかった。
少女について研究すれば「もしかしたらこの地獄を終わらせられるかもしれない……」と思ってしまった。
グループの者達も皆、口には出さないが限界が近い。
満足に食事も出来ず、ゾンビ達の襲撃に怯えながら、息を潜めて日々暮らしていく。
子供だけでなく、大人であってもつらい。
「大丈夫、さすがに殺しはしないよ」
グレッグの言葉はあまり信用ならない。
何故なら今までも「大丈夫」と言って何人も実験体のゾンビを死なせている。
本人が言うには被験体番号001、デイヴィット=ウォルトンなら耐えられるものばかりらしいが、あの男はゾンビの中でも特に強い個体だ。
その基準で実験を行えば、あの男よりも弱いゾンビはすぐに弱って死んでしまうだろう。
何度言ってもグレッグは実験の手を緩めないので、これまでに相当な数のゾンビを殺していると思われる。
「定期的に少女に会わせてくれ。それに、どのような人物なのか気になる。もしかしたらゾンビの情報について有益なものが得られるかもしれない」
「ああ、それは構わないよ」
定期的に顔を合わせることで、グレッグの実験や調査が行き過ぎたものとなっていないかの確認も行える。
それにイライアス自身も少女に興味があった。
ゾンビに襲われず、ゾンビと共に暮らしていた。
ならばゾンビに関する情報を、自分達以上に持っている可能性が高い。
グレッグもゾンビについて研究しており、恐らく人間の中では最もゾンビについて造詣が深いだろうが、実際のゾンビと接した者からの話も聞いてみたい。
部屋の扉が叩かれた。
研究員の一人が入ってきてグレッグに耳打ちする。
「どうやら件の少女が起きたらしい」
「一緒に会いに行こう」とグレッグに言われて、イライアスは頷き、立ち上がった。
……今回の件は不問に処すしかない。
幸い、使用した弾薬や薬品の量は少なかった。
余裕はないが、圧迫するほどでもない。
とりあえず少女に会い、意思を聞いて、出来るなら少女自身の意思で協力してくれるよう頼むしかない。
……そう簡単にはいかないだろうが。
何せ、少女からすればイライアス達は誘拐を依頼した犯人である。警戒されるのは当たり前だ。
それに少女の分の食料や衣類などの物資も分配しなければ。
たった一人増えるだけでもかなり厳しい。
それをやり繰りするのもイライアスの役目だった。
* * * * *