さようなら
がばりと後ろからいきなり抱き着かれる。
太い腕が易々とわたしを捕まえた。
叫ぶ間もなく、綺麗に爪が整えられた細い指に顔を掴まれ、そして口にガスマスクのようなものが押し当てられる。
首を振りたくてもがっちりと顔は固定されてしまい、顔を背けることも出来ない。
暴れてみても太い腕はビクともしない。
微かにゴムのような、少し酸味のあるような、なんとも言えない臭いがする。
叫んでもマスクのせいでくぐもった声は響かない。
次第に眠気を感じて意識が遠のいていく。
「あんたは要らないの」
どこか楽しげな声がする。
……最悪、だ……。
* * * * *
今日もアッシュは出掛けるようだ。
なんでも、最近新人類の居住区近辺で頻繁に人間が目撃されているらしい。
この世界の人間の暮らしはそう簡単なものではないと聞いた。
新人類、人間がゾンビと呼ぶアッシュ達が猛威を振るい、人間の住める場所はかなり狭まっている。
そして人間達は食料調達に苦労している。
新人類の居住区は、人間側からしたら立ち入ることの出来ない危険度の高い場所だ。
しかし、逆を言えば他の人間がまだ立ち入っていない場所ということでもある。
上手くいけば食料や武器が手に入るかもしれない。
だから人間達は新人類の居住区に近付いて来る。
だが新人類側も奪われるわけにはいかない。
人間と同様に彼らもまた、生活している。
人間と新人類は相入れる存在ではない。
どうしても衝突は必須であった。
「多分、人間側の食料の備蓄が足りなくなってきてるんだろ」
迎えに来てくれたラッセルがそう言っていた。
新人類が発生してから十年。
新人類が明確に猛威を振るい始めてから七年。
人間達は地下シェルターに引きこもったり、防衛手段を講じた街で暮らしたり、小さなグループに分かれて散り散りに流れて暮らす者もいる。
特に新人類を駆逐しようと考えている者達はグループで行動しているそうだ。
あえて新人類と敵対せず、ひっそりと生きることを優先している人々もいるらしい。
そしてアッシュ達新人類上層部も二つの意見で割れていて、旧人類の人間は滅ぶべきという『過激派』と手を出して来なければ興味がない『穏健派』がある。
ちなみにアッシュもラッセルも、ベイジルさんも穏健派に属する。
だが上層部の割合で言えば過激派の方が多い。
だから新人類の現在の方向性はやや過激派寄りになっているそうだ。
その中には新人類リーダーのアッシュの側に人間のわたしがいることを良く思わない者も少なからずいて、研究が済んだら殺すべきという意見もある。
……本当に人間が嫌いなんだろうなあ。
会ったこともないのに凄い嫌われっぷりだ。
そこまでいくともはや感心してしまう。
本能的に人間に敵意を感じるというのは事実なのだろう。
ラッセルの車に乗って出掛ける。
また、アッシュは人間のグループを潰しに行く。
そういう時のアッシュはどこか元気がない。
……本当はやりたくないんだろうな……。
それなのに新人類のリーダーになってしまった以上、新人類を守るためにも、そうするしかない。
「……わたし、あと何年生きられるのかなあ」
運転席にいたラッセルがギョッとした顔をした。
「なんだよ、急に」
運転中なのですぐに前を向いたものの、ラッセルがチラとこちらを見る。
「いや、わたし人間だから新人類からは嫌われる対象でしょ? 人間大嫌いって人と会ったら最悪、殺されるかもなあって思って」
ラッセルが言うには、わたしは人間特有の気配や臭いがせず、どちらかと言えば新人類に近い気配があるらしい。
だけど、そうは言ってもわたしは人間だ。
一目でそれが分かる。
新人類の青白い、血色の悪い肌とは違うから。
最初にラッセルが言った通り、わたしは新人類から見ても人間から見ても『気持ち悪い』存在なのだろう。
「お前のこと、気に入らないと思ってる奴は多いけどよ、実際に手を出す奴はいないんじゃねーの? 兄貴と正面切って戦いたがる新人類はいねーよ」
「そうなの?」
「ああ。新人類は本能的に相手の強さが分かるから、普通の新人類じゃあ兄貴の前に立っただけで震えが止まらないらしい。……オレでもたまにヤベェって思う時があるしな」
……普通の新人類って言葉がよく分かんないけど。
「新人類って実力主義だよね」
「そうだな」
つまりはアッシュがめちゃくちゃ強いので、アッシュに歯向かって戦いたがるのはあまりいないってことなのだろう。
車は前回と同じビルに到着して、地下駐車場に停まる。
頭に気を付けながら車を降りて、ラッセルと共にエレベーターに乗って最上階に向かう。
そしてやっぱり前回と同じ部屋に通された。
ソファーに座ると当たり前のように飲み物が用意される。
「ありがとうございます」
飲み物を用意してくれた人に声をかけると無言で会釈をする。
ラッセルが雑に手を振り、その人は部屋を出て行く。
一人掛けのソファーにどっかり座ったラッセルが、先ほど出て行った人が持ってきた飲み物のビンを掴み、親指でポンッとフタを外した。
それを一口飲んで、ラッセルがわたしを見た。
「んで? リノ、お前、兄貴にこの間のこと話したって本当か?」
「……この間のこと?」
一口飲んだ飲み物は炭酸の入ったりんごジュースだった。
……うん、アルコールはないと思う。
ラッセルがゴツンとテーブルにビンを置く。
「お前が兄貴を好きかって話だよ」
……ああ、そのことか。
「うん、したね」
「ほんっと色んな意味ですげーわ」
感心したような、呆れたような顔でラッセルが溜め息をこぼした。
「えっと、ありがとう?」
小首を傾げながら言えば「褒めてねーよ」と返ってくる。
ラッセルがもう一度溜め息を吐いた。
「それで、答えは出たのか?」
問われて首を振る。
「残念ながら」
ラッセルがむすっとした顔でソファーの肘掛けに肘を置き、その上に顔を乗せてじっとり睨んでくる。
「見た目もいい、性格もいい、力も権力も金もある。オレ達新人類の中では最高最強なのに、兄貴のどこが気に入らねーんだよ」
「いや、うん、むしろこれまで会ってきた人達の中では一番、そう、これ以上ないくらい気に入ってると思う。……多分?」
「多分って曖昧だな……」
ジーッと見つめられて考える。
確かにアッシュはかなりの優良物件なのだろう。
見た目もかなり整っていて、性格も物静かで穏やかで、新人類の中では力も権力も、そしてリーダーという立場上、経済的な余裕もありそうだ。
それにわたしにとても懐いている。
これまで会ってきた、他の誰よりも、もしかしたら両親よりも一緒にいて過ごしやすいかもしれない。
……言われてみれば不思議だ。
悪いと思える点が一つもない。
でも、好きという言葉が出て来ない。
「……上手く、言えないけど」
嫌いになる要素なんて何もない。
でも、心を傾けるのを恐れてしまう。
「わたしは臆病だから『好き』になるのが怖い、のかもしれない……」
好きになったら裏切られるかもしれない。
その恐怖に怯えることになる。
そんな日々を過ごすくらいなら『大切な人』なんていない方がいい。
「ごめん、好きになる勇気がないの」
ラッセルがジッとわたしを見る。
「それはお前の問題か?」
その言葉に頷き返す。
……うん、わたしの問題だ。
「勇気が出たら、兄貴のこと、好きになれるのか?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳を見返す。
アッシュのアイスブルーに似た、けれどちょっと色味の違う水色の瞳だ。兄弟だからよく似ている。
ラッセルにアッシュの姿が重なった。
チク、と胸が痛む。
「…………分からない」
「そうか」
「……ごめん」
こればっかりは自分の気持ちでも分からない。
ラッセルがまた息を吐いた。
少し、居心地が悪い。
「ちょっとトイレ行ってくる」
ラッセルの返事を待たずに席を立つ。
両開きの扉の片方を開けて、廊下へ出れば、複数の視線が突き刺さってくる。
一瞬、扉を閉めたくなった。
先ほど部屋を出て行った人が近付いて来る。
「何かご入り用ですか?」
問われて、首を振る。
「あ、いえ、トイレに行きたくて……」
「ご案内します」
歩き出したその人について行く。
廊下を抜けて、別の扉を潜り、更に別の廊下へ出た。
後をついて行きながら考える。
…………好きって気持ちかあ。
わたしの知っている『好き』はあの時、彼に感じた、あの浮かれた気持ちだった。
だけどアッシュに感じるものとは違う。
ドキドキする時もあるけれど、どちらかと言うと安心するし、一緒にいてもいいかなと思うし、アッシュの大型犬みたいなわたしへの懐き具合がかわいいと感じることもある。
……アッシュのことは嫌いではない。
嫌いなところなんて思いつかない。
そして興味がないわけでもない。
アッシュのことは知りたいと思っている。
……そういう気持ちも『好き』なのかな……。
「こちらです」
扉を示されて我に返る。
「ありがとうございます」
本当にトイレに行きたいわけではないのが申し訳ないが、会釈をして扉を開ける。
……あれ?
中はトイレではなく、普通の部屋だった。
そして、そこには先客がいた。
「あ、来た来た〜!」
明るい声でそう言った女性が振り返る。
その顔には見覚えがあった。
以前、アッシュの部屋にチャイム攻撃をしてきた派手めな美人だった。
思わず一歩下がったが、背後でパタリと扉の閉まる音がした。逃げ場はない。
「えっと、どちら様ですか?」
後ろを振り返りたいのだけれど、ジッと見つめてくる派手めな美人の彼女から不穏さを感じて目が離せない。
この人はアッシュの熱心なファンだ。
それも、問題ばかりある人。
彼女がキャハハと笑う。
「え〜、別に誰も良くない? 人間のあんたにわざわざ話す必要もないし〜」
近付いてまじまじと見られる。
「へえ〜、ほんとに生きてる人間だ〜! なんで飢餓衝動がないんだろ〜、変なの〜! 気持ちわる〜!」
自分から近付いておいて身を引かれた。
彼女が口元に当てた手は爪が長く整えられて、綺麗にマニキュアもされていて、派手めの外見によく似合っていた。
しっかり化粧もしてあって、髪も緩く、けれどきちんと巻かれていて、派手めな顔立ちに合ったカラフルで若い女の子らしい格好をしている。
ちょっとギャルっぽい。
メイクもしないわたしとは正反対のタイプである。
何がおかしいのかずっと笑っている。
妙に甲高く、甘えるような声だ。
「ねえ」
急に話しかけられる。
「……はい」
「あんた、デイヴィット=ウォルトンって知ってる〜? あたし達新人類のリーダー」
「……知ってます」
返事は出来るだけ短く、明瞭に。
この人のことなんて知らないけれど、この手のタイプは厄介だというのは知っている。
そこで彼女の地雷を踏むか分からない。
「デイヴィットってイイよね〜! カッコイイし〜、強いし〜、クールなリーダーって感じで〜、お金持ちだし〜! 本能的に惹かれるっていうか〜!」
好き勝手に喋り出す彼女の話を黙って聞く。
「弟のラッセルみたいに遊び人じゃないのもいいよね〜! あの一匹狼な感じがクールで〜、無口なのもちょっと近寄りがたくて逆に良くて〜!」
……ああ、なるほど。
この人、本当のアッシュを知らないのだ。
もしも知っていればアッシュをクールなんて表現しないし、滅多に喋らないことをただの無口な人と思っているのだろう。
アッシュは無口だけどクールではない。
物静かだけど、それはちょっと人見知りだからで、無表情だけど実は分かりやすくて。
近寄りがたい人ではない。
それは全部、アッシュを知らない人が勝手にそういう風なのだろうと決めつけているだけだ。
「アッシュ……、デイヴィットは格好良くないよ」
外見は格好良いが中身は違う。
体は大きいのにわたしの後を追いかけて来て、いつも手を繋ぎたがって、最近は朝起きるといつも抱き締められていて、仕草が幼くて。
わたしに懐いてくる姿は大型犬みたいで。
上手く喋れなくて会話が苦手な人で。
格好良いとは言えないけれど、かわいいと思う。
「は?」
急に彼女の声が低くなる。
「なんなの? 一緒に暮らしてるって自慢? 力もない人間のクセに、何様って感じなんですけど」
それまでの間延びした口調ではない。
笑顔の消えた顔がずいっと近付いた。
「っていうかなんであんたみたいな可愛くも美人でもないブスでガリッガリのチビがデイヴィットのそばにいるわけ? ほんと意味不明。デイヴィットに相応しくない」
「ムカつく」と言われてイラッとした。
なんで初対面なのにこんなにボロクソに言われなくちゃいけないのだろうか。
思わず言い返してしまう。
「勝手な想像押しつけてデイヴィットにストーカーしてる誰かさんよりマシだと思うけどね」
瞬間、パァンと頬に衝撃が走る。
グキッと首が痛み、気付くと顔が横に向いていた。
「人間のクセにチョーシ乗んなよ」
口の中に血の味が広がった。
平手打ちされたのだと遅れて理解する。
「シンディー」
後ろから諌めるような男性の声がした。
「分かってるわよ!」
背後で気配が揺れた。
そして冒頭に至る。
一呼吸ごとに体から力が抜けていく。
慌てて呼吸を止めようとすれば、わたしを拘束する太い腕にギリギリと締め上げられて強制的に呼吸させられる。
目の前で彼女が嬉しそうに笑った。
「人間は人間といればいいでしょ? あたしは優しいから殺したりしない。人間に売り払うだけ」
……なんだって?
「ゾンビに襲われない人間って言ってね。もしかしたら解剖されちゃうかもね? でもそれはあたしのせいじゃないから」
薄れゆく意識の中で楽しげな声がする。
ガクリと完全に体の力が抜けた。
「さようなら」
……ごめん、アッシュ。
意識を失う直前、思い浮かんだのはアッシュの姿だった。