わたしは……
* * * * *
わたしの家は両親とわたしの三人家族だ。
共働きの両親はいつも忙しくて、中学生に上がり、一人で留守番が出来るようになってからは母も以前のように長く働いた。
それでも別に家庭が崩壊しているわけではない。
ただ、両親も大変だったのだ。
若いうちに結婚して、子供が出来て、家も買って、働かなければやっていけない。
だからわたしは赤ん坊の頃から保育園に入れられて、小学校もずっと放課後の学童保育にいて。
あまり両親と遊びに出掛けた記憶もない。
実際は結構あったのかもしれないが覚えていない。
両親に抱っこされた記憶すら曖昧で、そのせいなのか、人との触れ合いが少し苦手だった。
でも『苦手かもしれない』という程度で。
それが完全に生理的に受けつけなくなってしまったのは、中学三年生の時の話だ。
わたしは良くも悪くも目立たない、ごく普通の生徒だったと思う。
大きな学校で、一学年だけでもクラスが最低で五つはあって、同級生が沢山いる。
そんなところでわたしは中学生活を送っていた。
男女混合の学校だった。
二年生の半ば、夏休みの後くらいの頃だ。
「あの、好きです! 俺と付き合ってください!」
わたしは別のクラスの男子に告白された。
その男子は以前、委員会が一緒だったのでそれなりに知っていたし、わりと親しい関係だった。
人生初の告白に浮かれていた。
「……わたしで良ければ」
「本当?!」
「うん」
わたしは告白を受け入れて、付き合うことになった。
お互い委員会や部活に入っており、相手は塾にも通っていたため、会える時間は限られていた。
それでも一、二週間に一度はデートした。
同じ学校の生徒に見られると噂されて嫌だからと、デートする時はいつも三つか四つ離れた駅で待ち合わせをして遊んだ。
大事な睡眠時間を削って会った。
……好き、だったのだろうか。
彼は明るくて、活動的で、見た目も普通に格好良かった。性格も優しかった。
きっとその時のわたしは柄にもなく舞い上がっていたのだ。
そんな彼がわたしを好きだと言ってくれたから。
だから気付かなかった。
彼の本当の性格に、気付けなかった。
三年生に上がった春。
休みの日に、家に来ないかと誘われた。
馬鹿なわたしは喜んで行った。
「なあ、好きならいいだろ?」
彼に押し倒されて、キス以上のことを求められた。
でも、まだ中学生なのにそんなこと出来ないとわたしは断った。
断ったというか、抵抗した。
「やめて! わたし達まだ中学生なのに、そんな無責任なことしたくない!」
暴れるわたしに彼は不機嫌になった。
解放されて、わたしはすぐに彼の家を飛び出した。
彼のことが嫌いというわけではない。
だけど、だからってまだ十四歳のわたし達がそんなことをする勇気はなかったのだ。
週末を挟んだ月曜日。
学校に行くと全てが一変していた。
わたしは彼を誘惑した痴女扱いされていた。
そう、彼には実は別に彼女がいて、その彼女とは実は二年も付き合っていて、わたしは彼にとってはちょっとした遊びだったのだ。
しかも彼の彼女はわたしの友達だった。
別のクラスの、同じ部活に所属する子だ。
いつもぼんやりしているわたしによく話しかけてくれる、優しい女の子で、その日の部活中、わたしはその子に平手で叩かれた。
「なんで? なんであんな酷いことするの?!」
酷いこと、の内容は後から知った。
わたしが友達の彼氏を寝取ろうと、わざわざ彼の家まで行って、裸になって彼に迫ったというのだ。
そんなこと、わたしはしていない。
そう言っても彼女も、誰も信じてくれなかった。
「え〜、マジ〜?」
「あんな暗そうなのにねー」
「やっば、ビッチじゃん」
女子達には非常に嫌われた。
そして男子達からは下卑た目で見られた。
「なあ、彼氏になってやるからヤらせてよ〜?」
そう、いつもからかわれた。
暴力や目に見える虐めはなかったけれど、無視されたりハブられたり、陰口を言われたり。
わたしの周りには誰もいなくなった。
彼は他の女子の誘惑を振り払った良い男になって、彼女は友達に彼氏を寝取られそうになった可哀想な子になって、わたしは友達を裏切ってその彼氏を奪おうとした悪女にされた。
……気持ち悪い……。
世界が嫌になった。
彼女がいるのに告白してきた彼にも。
結局、友達の話は欠片も聞かない彼女も。
騙された馬鹿なわたし自身も。
彼の言葉を全て鵜呑みにする周囲も。
彼と繋いだ手を、キスしたことを、押し倒された時に触れられた感触を思い出して、何度も吐き戻した。
その話はやがて教師達の耳にも届いた。
そして両親が呼び出された。
……なんで……。
両親はわたしを信じてくれて、そんなことは絶対にしていないとわたしを庇ってくれた。
だけど担任も、学校の教師達も、彼の両親も、わたしの言葉を聞こうともしなかった。
成績が良くて、運動神経も良くて、みんなの信頼厚い彼と、目立たないわたし。
どちらが信用に足るか分かるか、と言われた。
両親はその言葉に憤慨した。
そして両親は彼に、娘の体を見たなら特徴を言ってみろと返した。
当然、彼は答えられなかった。
わたしの体なんて見ていないから当たり前だ。
でも、彼の両親も教師達も最後まで彼の味方だった。
この件でわたしは教師達からの信頼も失った。
両親はわたしのことを知っていた。
だって彼のことについて、わたしはずっと両親に話していたから。
悔しい、と両親は泣いていた。
わたしは何も悪いことをしてないのに、と。
しかしその頃にはもうどうでも良くなっていた。
彼のことも、彼女のことも、自分自身も。
……他人なんて大嫌いだ。
それから勉強を頑張って、わたしは県外の、同じ学校の子達が少なさそうな高校を受験して、そこに受かった。
両親は何も言わなかった。
遠いので通うのは大変だし、通学代だけでも馬鹿にならないのに、好きな学校に行きなさいと後押ししてくれた。
……気持ち悪い……。
あれからわたしは今までよりも眠る時間が増えた。
そして自分以外の人間の体温がダメになった。
両親ですら、必要以上触れられない。
わたしは他者の体温を受けつけなくなった。
* * * * *
…………。
ふと目が覚めた。
懐かしい夢を見た。
まだ深夜なのか室内は真っ暗だ。
寝返りを打とうとして、出来ないことに気付く。
後ろからアッシュに抱き締められている。
一瞬ハッとしたが、触れている部分から感じるのはわたしの体温だけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そのことに酷く安堵した。
昼間からアッシュは甘えん坊だ。
夜、眠る時にも抱き締められた。
……どうしてかな。
初めて会った時からアッシュは気持ち悪くない。
他の人にある違和感というか、拒否感がない。
触れても吐き気や不快感がない。
だから、安心するのだ。
アッシュの縋るような目のせいだろうか。
なんとか体を捻ってアッシュを見る。
……アッシュは彼とは違う。
そっと眠っているアッシュの頬に触れた。
彼よりも背が高いし、がっしりしているし、肌は青白くて、体も冷たくて、人間じゃない。
それにわたしにとても懐いてくれている。
「……アッシュ……」
久しぶりに家族以外とこんなに長く一緒にいる。
いや、一緒にいられる。
多分、初めて会ったのがアッシュでなければ無理だっただろう。
「……ん……」
アッシュの眉が寄る。
ぼんやりとアイスブルーの瞳が開かれた。
「あ、アッシュ、ごめん──……」
ふに、とした感触が唇に触れた。
驚く間もなくそれは離れていった。
見れば、アッシュの瞳は既に閉じられていた。
…………え?
はく、と口から息が漏れる。
……いま、キス、した?
「〜っ?!」
言葉にならない声が漏れる。
なんで、とか、どうして、とか。
色々と思うけれど、一番は驚きだった。
……なんで嫌じゃないの……?
嫌悪感が微塵も湧かなかった。
驚いたが全く嫌ではなかった。
顔に熱が集まるのが分かる。
でも、どうして顔が熱くなるのか分からない。
ぐるぐると疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
「……なんで……」
なんで、アッシュはわたしにキスをしたの?
* * * * *
翌朝、目を覚ますとアッシュは側にいた。
ベッドに腰掛けて、片手をわたしの手と繋いだまま、もう片手で器用に携帯みたいなものを操作している。
……あ……。
アッシュの姿を見たら昨晩のことを思い出した。
アッシュがわたしに気付いて見下ろしてくる。
アイスブルーの瞳が柔らかく細められた。
ドキリと胸が高鳴った。
顔が赤くなる自覚があった。
思わず空いた片手で毛布を引き上げて顔を隠す。
「…………リノ……?」
アッシュの声がした。
低くて、ハスキーで、戸惑った声だ。
毛布の中で呼吸を整える。
「……おはよう、アッシュ」
そうっと毛布から顔を出せば、アッシュが小首を傾げてわたしを見ている。
……あれ?
「えっと、昨日の夜のこと、覚えてる?」
アッシュの首が更に傾いた。
……覚えてない?
はあ、と溜め息が口から出た。
「ううん、なんでもない。気にしないで」
アッシュはきっと寝ぼけていたのだろう。
わたしは毛布から這い出した。
「ちょっと早いけどお昼食べる」
アッシュが頷いて、わたしの手を離して立ち上がった。
携帯らしきものをズボンのポケットに仕舞いながら、寝室を出て行く長身を見送った。
…………覚えてないんだ。
つい、昨夜のことを思い出して自分の唇に触れる。
突然のことで驚いたけれど嫌じゃなくて、少しカサついたアッシュの薄い唇はひんやりしていてむしろ心地好い──……
……って何考えてるの、わたし!
ブンブンと首を振る。
「お昼ご飯食べよ……」
アッシュは寝ぼけていたのだ。
だからきっと、あれはノーカンだ。
……そう、数えちゃいけない。
わたしとアッシュはそういう関係ではないのだ。
リビングに向かうと良い匂いが漂ってくる。
「あ、用意してくれたの?」
アッシュがことりとグラスをダイニングテーブルに置く。
四つある席の、なんとなく決まった場所にいつもわたしは座っている。
元の世界でも家では四人掛けのダイニングテーブルの、やっぱり同じ場所に座っていた。
そこに座ってしまうのはクセみたいなものだ。
「ありがとう」
席に座る。
今日はピザとサラダだ。
飲み物はわたしがよく飲んでいるスムージの黄色。
いつも飲み物を用意してくれるのはアッシュなので、わたしの好みも分かってきたみたいだ。
アッシュはまだ昼食の時間ではないようで、わたしの向かい側の席に座った。
わたしが食事をしている時、アッシュはこうして、食べなくても同じように席に着いていてくれる。
だからか、寂しいと感じたことがない。
むしろ元の世界にいたよりも寂しくない。
共働きの両親とは夕食の時間がズレることもあって、一人で食事をするのは慣れていた。
それでもこうして側にいてくれるのが少し嬉しい。
「いただきます」
手を合わせてからピザを食べる。
トマトソースにチーズとバジル、鶏肉が入っていて、凄く美味しい。香辛料も効いている。
ピザは二ピースあって、チーズたっぷりのトマトソースと、エビとバジルソースの二種類あった。どっちも美味しかった。
……サラダも美味しいんだよね。
サラダはシーザードレッシングに似た味で、クルトンがたっぷりかかっていた。クルトン増し増しのこの感じが堪らない。カリカリ感がいい。
あっという間に食べ終えてしまう。
「ご馳走様でした」
手を合わせるとアッシュが頷いた。
ゴミをキッチンへ持って行って片付ける。
グラスの中にはまだスムージーが残っており、席に戻ると、それをチビチビ飲む。
アッシュの手元の携帯みたいなのが鳴った。
するとアッシュが立ち上がってソファーに移動する。
どうやらテレビ通話をするようだ。
いつものことなので、通話中は黙っている。
ベイジルさんの声が聞こえてきて、日課のような、報告が始まる。
アッシュはそれを黙って聞いている。
たまに首を傾げたり、頷いたりして、それにベイジルさんが説明をしている風だった。
ぼんやりそれを眺めながら思う。
……好き、かあ。
ラッセルは、わたしがアッシュのことを好きだと言った。
……そうなのかな……。
もしもそうだとしてもアッシュはどうだろうか。
アッシュはわたしを好きだと頷いてくれたが、それが人間としての好きなのか、異性としての好きなのかは不明だ。
昨夜のキスもよく分からない。
アッシュが寝ぼけてしたのなら、あってないようなものだ。
……苦しい。食べ過ぎたかな。
使い終わったグラスをキッチンで洗い、寝室へ戻る。
そのままベッドにばふりと転がった。
……わたしはただ寝ていたいだけなのに。
この世界に来てから考えることが増えた。
毛布に包まって目を閉じる。
この胸の苦しさは食べ過ぎただけだと思いたかった。