意識する
* * * * *
いつもの報告会から二日後。
ラッセルに遊びに来ないかと誘われた。
そういえば最近はラッセルが来ることは多かったが、自分が行くことは減っていたなとデイヴィットは思い出した。
別段、会いたい相手がいるわけでもない。
でも弟に誘われたのだから行くのも悪くはない。
デイヴィットはベッドから立ち上がった。
リノがずっと寝ているので、デイヴィットも朝食を食べてから、ずっと寝室のベッドにいた。
これまで時間を潰したい時はテレビを眺めて過ごしていたのだが、ここ数日、リノの寝顔を眺めて過ごすのも案外良い暇潰しになると気付いた。
それに一緒にいると苦しくない。
だから一緒にいたい。
リノと繋いでいた手を離すのは少し嫌だが。
……嫌?
思わず足を止める。
小首を傾げた。
感じた気持ちに首を傾げながらもデイヴィットは寝室を出て、ラッセルのところへ出掛けてくるという旨を書いたメモをダイニングテーブルに置く。
…………。
少し考えて、昼食はちゃんと食べてくれ、と書き足した。
あのリノの様子では昼過ぎまで寝ているかもしれないが、起きてこれを見たら食べてくれればいい。
デイヴィットはカードキーを持つとリビングを出た。
玄関を抜けて、エレベーターに乗って階下へ向かう。
一度一階で降りて受付にカードキーを預け、再度エレベーターに乗り、地下駐車場へ行く。
そして乗り慣れたバイクに跨った。
ハンドルを掴めば自然とエンジンがかかる。
後ろ足で蹴ってスタンドを上げ、アクセルをふかして走り出す。
デイヴィットが道路をバイクで走っていると多くの視線を感じたが、いつものことである。
交通ルールに従って道路を走り、目的地には三十分ほどかけて到着した。
地下駐車場に入って適当なところにバイクを停める。
バイクから離れてエレベーターに向かう。
下りてきたエレベーターに乗り、最上階を押す。
僅かな揺れを感じながらエレベーターが上がっていく。
最後にチンと音がして扉が開いた。
いつものことだが、数名の男達に出迎えられる。
「お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
頭を下げられ、それに頷いてその前を通り過ぎる。
ラッセルのところにいる人間はよく頭を下げる。
最後の二人が両開きの扉を開けた。
その奥にある豪華な部屋に弟はいた。
「兄貴! よく来てくれたな!」
立ち上がったラッセルが両腕を広げつつ近付いて来るので、それを受け入れ、軽く挨拶をする。
「こっちに座れよ」
促されて、三人掛けのソファーに座る。
ラッセルは冷蔵庫から飲み物を取って来ると、その一つをデイヴィットに渡した。
デイヴィットがよく飲む炭酸水だった。
「今日はリノは一緒じゃねーのか?」
「ああ……。……寝てる」
ラッセルの問いに答えれば、弟が笑った。
「そういや、いつも寝てるよな」
デイヴィットはラッセルと頻繁に連絡を取り合っている。
そして二人が連絡を取る時はテレビ通話なので、たまに、近くで寝ているリノが映ることもある。
ラッセルが連絡を入れると大体リノは寝ている。
デイヴィットが頷いた。
「アイツと出掛けたりしねー……か。人間がいるってだけで大騒ぎになっちまうもんなあ」
デイヴィットはもう一度頷いた。
だが積極的に出掛けたい理由もないので、デイヴィットは今の生活に不満はない。
今までと同じ生活の中にリノがいる。
リノは動物と違って自分のことは自分で出来るし、基本的には寝ているし、思っていたよりも金はかからない。
本当に寝てばかりいるが。
「なあ、兄貴、リノのこと好きなんだろ?」
隣に座ったラッセルに訊かれる。
それに頷き返す。
多分、自分はリノが好きだ。と思う。
「……前、きかれた」
デイヴィットの言葉にラッセルが目を瞬かせた。
「前? 誰にだ?」
「……リノ」
「え、リノが兄貴に訊いたのか? 自分が好きかって?」
それにデイヴィットは少し考えて首を振った。
「ラッセルが、リノに、俺のことが好きかきいたって。……リノは、好きが分からない、言ってた。俺に、好きが分かるかって……」
普段喋らないせいか言葉に詰まりながらも話した。
ラッセルはデイヴィットが言葉に詰まっても、上手く言えなくても、話を聞いてくれる。
……リノもそうだ。
デイヴィットが喋れなくても「いいよ」と言って、デイヴィットの言いたいことを読み取ってくれる。
それがとても嬉しい。
ほとんどの者はデイヴィットに一方的に話しかけてきて、デイヴィットが返事をする前に好き放題話したら勝手に満足して消えてしまうから。
ラッセルが目を丸くした。
「アイツすげーな……」
「本人に言うか、普通……」と驚いている。
それからガシガシとラッセルが頭を掻いた。
「あー、それ聞いて、兄貴はどう思ったんだ?」
デイヴィットは思い出した。
「……リノも、俺を好きになったら、いい」
確かにあの時、デイヴィットはそう思った。
自分がリノを好意的に思っているように、リノにも好意的に感じて欲しい。
「リノは、俺を、嫌いじゃない、言った」
ラッセルが「はー……」と息を吐く。
どこか呆れたような、疲れたような、そんな溜め息だった。
「つまり、今のところは兄貴の片想い中ってことか」
「かたおもい……?」
昔、どこかで聞いたことがあるような言葉だ。
どこで聞いたのか思い出す前に、ラッセルに話しかけられた。
「だってそうだろ? 兄貴はリノが好きで、リノは兄貴のことが嫌いじゃないけど、まだ好きか分かってない。ほら、片想いじゃん」
……そうなのか。
自分は今、リノに片想い中らしい。
何故か胸がチクリと痛んだ。
それは前にも感じたもので、デイヴィットは思わず自分の胸に手を当てた。
だが、すぐに横から伸びてきたラッセルの腕が首に回されて、グイと引き寄せられる。
「兄貴、リノとキスしてみろよ」
デイヴィットは目を丸くした。
「……キス?」
キスとは、口同士をくっつけるあれだ。
「好きな奴同士なら別に不思議じゃねーだろ」
そういえば昔、父と母もしていたような気がする。
もうあまりにも遠い日々の記憶で曖昧だ。
「……リノは、俺、好きじゃない」
そう、好きな者同士でするものなら違う。
ラッセルが眉を寄せた。
「じゃあ兄貴はリノとキスしたいとか思ったことねーの? それ以上も〜とかさ」
「それ以上……」
「まさか兄貴、知らないのか?」
やや驚いたような声だ。
……キス以上ってなんだ?
思い返せば父と母はよくキスをしたり、互いの頬に口をくっつけていた気がする。
ラッセルが手元の携帯端末を操作する。
デイヴィットの視線は自然とそこに寄った。
「ほら、兄貴、これ見てみろよ」
差し出された携帯端末を見る。
ラッセルが操作して動画が流れ出した。
「?!」
それにギョッとして身を引こうとするが、がっちりとラッセルの腕が首に回っているため、それは出来なかった。
……なんだこれ。
男と女が裸で抱き合っている。
聞いたこともないような女の声がする。
動画の中で、男が女に触れていて、物凄く恥ずかしいことをしているのは分かった。
ラッセルがニヤニヤと笑っている。
「兄貴、リノとこういうことしたくねーの?」
……リノと?
そういえば抱き締めたリノは小さくて柔らかかった。
思わず想像してしまい、言葉が出ない。
「……〜っ!」
いや、口に出せるようなことじゃなかった。
ぐわっと心臓が早く動くのが分かった。
パクパクと口を開いては閉じるデイヴィットに、ラッセルが「ははは!」と笑った。
「なんだ、兄貴も男じゃん!」
バンバンと背中を強く叩かれる。
「っ、ラッセル……!」
ついデイヴィットの口から恨めしい声が出た。
それにラッセルが両手を上げる。
「怒るなって。もう一度訊くけどよ、リノに対する兄貴の好きって、こういうことも出来る意味での好きか?」
いまだ動画の流れる携帯端末を目の前に突きつけられる。
…………。
デイヴィットはややあって頷いた。
リノに触れたいとはいつも思っている。
でも、手以外に触れていいかは分からない。
それに触れ方も分からない。
リノは小さくて、細くて、壊してしまいそうだからデイヴィットはいつも躊躇ってしまう。
躊躇っているデイヴィットに気付かないで、リノは手を差し出してくる。
……そうか、俺は触りたいんだ。
最近、リノと手を繋いでいても足りないと感じる時がある。
だけど何が足りないのか分からなくて。
「……リノに、触りたい」
言葉にするとストンと理解出来た。
「やっぱ、そういう好きなのか。あー、あとはリノの方がどうだかな。アイツ、そういうの疎そうだし」
ラッセルがソファーの背もたれに体を預けながら零す。
……そうだった。
触りたいから触ればいいとはいかない。
リノが嫌がることはしたくない。
リノが「触るな」と言ったら触れない。
「……そうだ!」
ラッセルが体を起こす。
「いっそ、兄貴がリノを調教すればいいんだよ!」
その言葉にデイヴィットは顔を顰めた。
調教。その言葉は嫌いだ。
研究所にいた頃に「調教だ」と言って人間の研究員達が動けないデイヴィットを沢山殴ったり蹴ったりした。
「あ、兄貴が思ってるようなことじゃねーから! 要はさ、少しずつ触れる範囲を広げていけばいいんじゃね?」
ラッセルの言葉に首を傾げる。
「今はよく手繋いでるだろ? 少しずつ、抱き締めたり、触ったり、そういうのに慣れさせていくんだよ。リノ、常識とか知らねーし」
「……それは、騙す?」
「騙してねーって。ただ、リノが兄貴に慣れるようにするだけ。それに、それでリノが嫌がったら、リノは兄貴のことが好きじゃないってハッキリ分かるだろ?」
……もし嫌がられたら悲しい。
肩を落としたデイヴィットの背中がまた叩かれる。
「な、兄貴、試してみろよ」
弟の言葉はまるで悪魔の囁きだと思った。
デイヴィットは考えた。
考えて、考えて──……小さく頷いた。
もっとリノに近付きたいとデイヴィットは思っていた。
* * * * *
夕方、アッシュが帰って来た。
起きた時には既にいなくて、ダイニングテーブルに書き置きが残してあった。
どうやらラッセルのところに出掛けたらしい。
書き置きにあった通り、遅めの昼食を食べてリビングでうとうとしていたらリビングの扉の開く音がした。
「アッシュ、お帰り」
ソファーから起き上がって声をかけた。
アッシュが頷いて近付いて来ると、私の横に座った。
ふわ、と風が動いた気配がしたなと思った時にはアッシュに抱き締められていた。
「……アッシュ?」
抱き締めるというにはあまりにも緩く、わたしが振り払えば、きっと簡単に引き離せるだろう。
名前を呼ぶとビクリとアッシュが小さく震えた。
「どうかした? ラッセルに虐められたの?」
わたしを抱き締めたままアッシュが首を振る。
……どうしたんだろう。
どこか緊張しているのが伝わってくる。
とりあえず腕を回してアッシュの背中をぽんぽんと軽く撫でるように叩いた。
「うーん、じゃあ、寂しいの?」
ややあってアッシュが頷いた。
もしかしてずっとそうだったのかもしれない。
最初に手を繋いでから、アッシュはわたしと一緒にいたがるし、手を繋ぎたがるし、見た目に反して寂しがり屋だったりして。
……ほんと、大きな子供みたいだなあ。
ギュッと回した腕に力を入れて抱き締め返せば、緊張していたアッシュの体から余計な力が抜ける。
よしよしと背中を撫でてやる。
アッシュの顔が下りてきて、ちゅ、と頬にキスをされた。
「アッシュ?」
すり、と頬擦りされる。
……子供かと思ったけど、これは犬だな。
すり、すり、と頬に頬が寄せられる。
アッシュの肌はわたしよりもやや硬めだった。
……ヒゲはないな。
剃っているのかどうか謎だがツルツルだ。
ちょっと驚いたが、アッシュも寂しくて人肌恋しい時があるのだろう。
ひしっと抱き着かれてなんだか笑ってしまう。
ひんやりした体温が心地好い。
「アッシュは冷たいね」
アッシュが少し体を離した。
その表情はちょっと悲しそうだ。
「あ、ごめん、それが悪いってことじゃないよ。むしろ、わたしは冷たい方が好きかな」
わたしの言葉にアッシュがホッとした顔をする。
「……もう少しだけこうしていよっか」
アッシュが頷き、また抱き着いてくる。
こうしているとアッシュの方がわたしよりもずっと大きくて、がっしりしていて、男性なのだなあと思う。
包まれて、守られているみたいで。
……安心する。
アッシュはきっと裏表のない性格だ。
だから安心して側にいられる。
この人はきっとわたしを裏切らない。
そんな、予感があるから。