ラッセル=ウォルトン
* * * * *
リノを兄、デイヴィットの家へ送り届けた。
デイヴィットの自宅があるビルの地下駐車場から、自分の車で出て、道路を走らせながらラッセルは考える。
兄であるデイヴィットはリノを特別視している。
それは、たった少し一緒にいても分かった。
これまで他人に興味を持たず、寄せ付けようとしなかったデイヴィットが初めて自らの意思で誰かを側に置いた。
その変化に一番驚いたのはラッセルだった。
デイヴィットが新人類になった時、一番最初に『感染』したのは弟のラッセルで、その後『捕獲』されて研究所で共に五年も過ごした。
あの研究所での日々は最悪だった。
当時はまだ七歳だったラッセルも、九歳だったデイヴィットも、研究所では一切人間扱いされなかった。
そしてラッセルもデイヴィットも周囲に人間がいることで長い間、ずっと飢餓衝動に苦しんだ。
そのおかげである程度は飢餓衝動があっても自我を保てるようになったのだが、それが良いことだとはラッセルには思えなかった。
研究所で五年過ごした後、デイヴィットが自分を囮にしてラッセルを逃がしてくれた。
だからラッセルが心から信用出来るのは兄だけ。
その兄も自分も基本的に他者を信じられないのだ。
いつも兄の側にいるベイジルですら、真にデイヴィットの信頼を得ているかと言われれば疑問である。
ベイジルは自分達に良くしてくれるけれど、それは彼が研究所の元職員であり、自分の行いに対する贖罪でそうしているのをラッセルもデイヴィットも理解していた。
憎しみはあるが、今は同族なので昔ほどではない。
だが、そう簡単に割り切れるものでもない。
デイヴィットがベイジルに対してあまり言葉を発さないのは、やはり、心のどこかで壁を作っているのかもしれない。
ラッセルも完全にはベイジルを信用出来ていない。
そういったこともあって、デイヴィットが特定の誰かを自分の意思で側に置いていることにラッセルは衝撃を受けた。
人付き合いが良いと思われているラッセルだが、実はそうでもない。
不特定多数と手を組むことはあっても、その相手が常に同じとは限らない、交友関係も浅く広い。
デイヴィットに至っては交友関係と呼べる相手はほぼいないと言ってもいいだろう。
「……めんどくせー……」
思わずガシガシと頭を掻く。
五年前に研究所から逃げ出せたラッセルはともかく、デイヴィットは二年前まで研究所にいた。
八年も人間達に酷い実験を行われてきた。
そんなデイヴィットは情緒面は全く育っていない。
研究所で教育が受けられるはずもなく、誰かと関われる環境や状態でもなかったため、デイヴィットは外見に反して中身はまだ幼い。
研究所に入れられた時からデイヴィットの時間は止まっていたのだ。
多少成長していたとしても、二年前に助け出されたのだから、内面の年齢は十代前半ほどだろう。
しかも人との繋がりなんてものは全くなかったのだ。
誰かと友人になるとか、恋愛をするとか、そんな感情があるのかすら定かではない。
「リノもリノだぜ」
デイヴィットを好きかどうか、首を傾げていた。
一緒にいる時はずっと手を繋いで、同じ屋根の下で暮らしていて、互いを気にしていて。
これで好意がない方がおかしいだろう。
それなのにリノは「よく分からない」と言う。
もしもベイジルの言うように、リノもどこかの研究所の実験体であったのだとしたら、その辺りの成長はデイヴィットと同じく育っていない可能性が高い。
リノは新人類側につくと言った。
それを完全に信用は出来ないが、デイヴィットを傷付けたくないと思っていることだけは本心らしい。
弟のラッセルとしても同じ気持ちはある。
兄のデイヴィットを、家族を守りたい。
たった二人の兄弟なのだ。
「せめてどっちかが気付けばな……」
はっきり言って、このままだとあの二人は本当にあのまま現状を維持し続けるだろう。
そういう方面がどちらも疎い。
いや、疎いと言うより絶望的だ。
それでデイヴィットが幸せならば、別にラッセルは文句は言わないが。
男と女が一緒にいるのだ。
どちらも疎いからこそ何が起こるか分からない。
リノがデイヴィットに好意を持っていないとしたら、兄が少し憐れに感じてしまう。
デイヴィットは明らかにリノに好意を持っている。
ああして側に置いて、生活の面倒を見てやっている時点でそれなりの好意がなければしないはずだ。
ただ兄も絶望的に疎い。
もしかしたらなんで自分がリノを側に置いているのか、その意味すらよく分からずにやっているかもしれない。
「兄貴の方にも揺さぶり入れとくか……?」
それで別れるならば良し。
……別れなかったら……。
「あー、その時はその時だな」
非常に認めたくないが義理の姉となる可能性もある。
リノは不思議な人間だ。
どう見ても非力で、小柄で、簡単に殺せてしまう。
それなのに不思議な雰囲気を持っている。
人間特有の生臭さも感じないし、そもそも寝不足なのか目元にクマのあるぼんやりしたあの表情にはあまり生気を感じない。
でも確かに人間なのだ。
人間のような、同族のような、どちらでもない存在。
同族の幹部にすら、人間に対峙した時の虐殺ぶりから『狂犬』と揶揄されることのある兄が、唯一懐いてしまった。
ちなみにラッセルは基本的に居住区の守りに徹しているため、兄の『狂犬』に合わせて『番犬』と揶揄される。
もちろん、揶揄された瞬間には相手を殴り飛ばしているが。
デイヴィットはそういう揶揄を全く気にしてないせいで、新人類の中ではデイヴィット=ウォルトンはリーダー的存在でありながら、力の弱い者達からは『狂犬』と呼ばれて恐れられている。
しかしデイヴィットは同族には手を上げない。
何をされても黙っているのだ。
それなのに、守られている立場の者が、守ってくれている者を『狂犬』などと揶揄するなんておかしい。
ラッセルが怒っても、兄は首を振るだけだ。
諦めているのか。本当に頓着してないのか。
ラッセルですら兄の内心は分からない。
「……はあ……」
デイヴィットの元に人間がいるという情報は、そう遠からず新人類達の中で広まるだろう。
絶対に反対する者達も出てくる。
そうなった時、兄がどう反応するか、弟のラッセルでも想像がつかなかった。
これまでのように静観しているか、無視するならば構わない。
しかし、もしもそれでリノがデイヴィットの元を離れると言い出して、デイヴィットがそれに反対した時、兄がどのように動くのかは未知数である。
何せ、これまで何かにこだわることのなかったデイヴィットだ。
ああもリノにくっついている姿を見るに、相当な執着を持っているのではないかと思う。
普段ぼんやりしている兄だからこそ、怒り狂った時にどうなるか……。
飢餓衝動のように暴れるかもしれない。
「……兄貴、ああ見えて怒ると怖いんだよなあ」
一度だけ兄弟喧嘩をしたことがある。
イライラしていたラッセルが同族の強いと噂されている者達を潰して、ストレスを解消していた時期があった。
その時に、その行為をやめろと止められた。
それでラッセルがやめなかったので喧嘩になった。
ラッセルは自分が強いと本能的に理解していたが、本気で怒ったデイヴィットはそれ以上に強かった。
当時のデイヴィットも研究所から出たばかりで、手加減を知らず、やはり殺気立っていた。
だから兄弟喧嘩でまさか周囲に甚大な被害を出すことになるとは思っていなかったのだ。
幸い死者は出なかったものの、建物や道路、車両などに被害が出て、幹部の一人にもかなり叱られた。
デイヴィットは確かに最強だった。
それまでは最も強いと言われていたラッセルですら、途中で死ぬかもと感じたほどだった。
そしてデイヴィットもまた、ラッセルとの喧嘩の中で手加減を知った。
それでもいまだに物を破壊してしまうことがある。
「……リノ、大丈夫か?」
手を繋いでいることが多いのを見るに、かなり手加減というか、力加減を覚えたのだろうが、デイヴィットはうっかりも多い。
うっかりでリノに怪我をさせたらデイヴィットは落ち込むだろう。
「やっぱ兄貴が戻って来たら声かけとくか」
なんで自分が、と思いながらも兄のことを考えると放ってはおけない。
「それにしても本当に変な奴だよな」
デイヴィットが傷付くから、兄がリノに飢餓衝動を覚えたらラッセルが先に殺してくれなどと言うのだ。
約束はしたが、そんな日は来ないだろうと思う。
「最初に会った時点で感じないなら、その後も感じないと思うんだけどな」
それに飢餓衝動を起こした兄を止めるのは弟のラッセルでも無理だ。
本能的に力の差を感じるし、敵わない。
それでも約束してしまったのだから仕方がない。
「いざって時はオレが殺すしかないか」
ただの人間を殺すのとはわけが違う。
敵意や害意を持っている人間ならば、いくら殺しても胸は痛まないが、既にリノとは会話も成立しているし、人間というよりかは同族に近い感覚があった。
それなのにラッセルに死を預けたのだ。
「でもなあ、オレがリノを殺しても兄貴は傷付きそうだけどな」
……そうならないよう祈るしかない。
ラッセルは小さく息を吐いた。
兄もリノも、困ったものだ。
* * * * *
アッシュの部屋までラッセルが送ってくれた。
しかも、わたしが扉を閉めるまでしっかり確認していて、なんというか、良い人だなと思う。
最初からラッセルはわりと良い人だった。
口調も荒いし、言い方も悪いけど、でも初めて会って不審に思いながらもわたしの分までコーヒーを用意してくれたり、こうして送り迎えもしてくれる。
今日の件もそうだろう。
アッシュやベイジルさんがあえて言わないでいることを、ラッセルはわざと言ったのだ。
……人殺しかあ。
言われても正直ピンと来ない。
わたしは多分、情が薄い。
知らない人間がどこかで死んでも気にしない。
目の前で殺されたらさすがに「エグい……」くらいは思うかもしれないが、それだけだ。
……ラッセルって損な性格だよね。
ああやって悪ぶって自分から憎まれ役になるなんて、それこそ良い人の証である。
きっとアッシュが大事なのだろう。
だから側にいるわたしに「新人類か人間か選べ」みたいなことを言ってきたんじゃなかろうか。
わたしを受け入れつつも警戒してるのかもしれない。
それはそうだろう。
こんなどこから来たのかも分かっていない、謎な人間、それも自分達とは本来敵対する人間を受け入れてくれるなんてわたしの方が驚いているくらいだ。
だが、ラッセルに言ったのは本心だ。
わたしは新人類側につく。
元よりこの世界の人間に興味はない。
けれども、わたしに懐いてくれたアッシュのことはそれなりに思うところはある。
……好きって感情はよく分からないけど。
「……とりあえず、お風呂沸かしとこう」
嬉しいことにこの世界にはお風呂がある。
しかもタッチパネルで簡単に沸かせる。
それから汚れているかもしれないからタオルを玄関先に置いて、宅配ボックスから配達された食事を冷蔵庫に移動させておく。
……よし、後は待ってるだけだ。
ソファーに座ると、ふあ、と欠伸が漏れた。
……ちょっとだけ寝ようかな。
きっとアッシュが帰ってきたら起きるだろう。
そうしたら「お帰り」と言うのだ。
わたしは新人類側で生きる。
だから、なんでもない顔でいるべきだ。
「……考えることが多いなあ……」
わたしは眠れれば、それでいいんだけど。
そうも言ってはいられないらしい。
でもアッシュに関することはそう面倒臭くも感じない。……気がする。多分。
この世界に来て、わたしが一番考えていることってアッシュについてかもしれない。
一番長く一緒にいるのもアッシュだ。
一緒にいて、ホッとするのもアッシュだけ。
今日、ラッセルと一緒にいたが、アッシュに感じるような安堵感というか、心地の好さは感じられなかった。
かと言って居心地が悪いわけでもなかったが。
こういう違いが好きってことなのか。
ウトウトとしながら考える。
……アッシュにも訊いてみよう。
そう結論を出して目を閉じた。