8話
注意
・虫
遠くから誰かの声が聞こえる気がする。だけどその声はリンナちゃんやイアンくんの声じゃない。
その声は、リンナちゃんのような明るく綺麗な声でもないし、イアンくんのような落ち着いた優しい声でもない、少し低い甘く色気のある良い声。
でもどこかで聞いた事のあるようなその声は、少しずつ私の方へと近付いて来た。
後ろの方から少しずつ近付いて来るせいで、耳と腰辺りが電流が流れたみたいにくすぐったくなり、思わずしゃがんで耳を塞ぐ。
確かに近付いて来る声は良い声だ。
その甘く色気のある良い声で囁かれると言う通りにしてしまいたくなるぐらい良い声なのだが、それと同じぐらいその声は危険なのだ。
今この場にいるのが私でなかったら、ここにいた人は甘く色気のある、この危険な声を待っただろう。
でも私は、転生したおかげか、この体のおかげか分からないけど、他の人より少しだけ感覚が鋭くなった。直感や感と言ってもいいそれ等が、「危険」「危ない」「聞くな」と告げてきたのだ。
この世界に生まれ落ちてから、1度や2度しか軽く忠告しかしてこなかったそれ等が、私に全力で危険信号を送って来て警告してきたのだから、それの重大さが分からない程、私は馬鹿ではなかった。
だが、危険な声はいつの間にか隣にいて、まるで揶揄うかのように耳を塞ぐ手の上から喋ってきた。
しかも、体温や感覚を感じるのに姿が見えないせいで、余計に私の中の警鐘が大きく甲高い音で鳴ったけど、まだ耐えられた。
だけどずっと我慢出来るわけなく、徐々に理性が無くなっていくのが自分でも分かった。
いっその事、理性を投げ捨ててこの危険な声の持ち主に媚びて、その危険な声を聞くために乞うてしまいたくなる程の魔性の声に、私の我慢は当に限界を迎えていた。
今は気合いだけで理性を保っている状態で、我慢は出来ているのが不思議なくらいだ。
そんな私を危険な声の持ち主は嘲笑うかのように、太ももに手を這わせて来たりと私を煽って来る危険な声の持ち主。
極め付けはお腹に回った手と、右耳を抑える手を外され、耳元で囁かれた時だった。
ビリビリと体全体に電流が走った感覚を覚え、体に力が入らなくなり、私はその場でへたり込んだ。
視界が真っ白になったり真っ暗になったりと交互に色が変わっていき、よく分からない感覚が私を襲う。
それでもこの声の持ち主は、手加減してくれないみたいで、まだ何かをしようとする気配を感じた。
だが流石に、これ以上は持たない。
「ま、待って、お願い待って…っ!」
慌てて止めようとする私の声なんて聞こえないと言わんばかりに、声の持ち主は私の耳に口を近づけて、そして━━━━━。
「ぴゃあぁぁーーーーーー!!!!」
「「うわぁぁぁっっ!!!!」」
私のおかしな叫び声につられるように、リンナちゃんとイアンくんが同時に叫んだ。その声に驚いて一瞬にして意識がハッキリとして、あれが夢だったのだと理解したが、良かったと安堵したのと同時に、あんな夢を見るなんて、と恥ずかしくなった。
周りを見るとベットの両横で2人がイスに座っていて、驚いた顔でこちらを見ている。リンナちゃんに至ってはイスから転げ落ちている。
とりあえず急に叫んでごめんなさい。
「ご、ごめんなさい…」
落ち込みながら2人に謝ると、2人は慌てた様子で許してくれた。相変わらず2人は心配になるくらい優しい。
何となく心配そうに私を見てくる2人の顔を、じー、と見つめていれば、2人はハッ、とした様子で「大丈夫!?」と声を揃えて聞いてきた。
「何が?」とも思ったけど、そこでようやく思い出した。生理的に受け付けない見た目をしているあの⦅フィアムカデ⦆を。嫌なくらい鮮明に頭に焼き付くそれに、思わず血の気が引く。
流石にあれは無理。生理的に受け付けない。
いや、あの生き物も好きであの見た目に生まれた訳じゃないって分かっているけど、ごめんなさい、無理。
だって、無駄にうじゃうじゃと蠢く沢山の脚。飛び出た目玉。少し記憶力がいいのが仇となった。鮮明に思い出せる⦅フィアムカデ⦆の姿。思い出したくなくても頭に出てくる。……ちょっと今日は食べ物を食べれないかもしれない。
「メ、メルル…?」
「ね、ねぇ、大丈夫…?」
2人は顔を真っ青にして私を見る。私も自分の顔色は悪いだろうな、とは思っているけど、2人が顔を真っ青にする程私の顔色は悪いのだろうか。
逆に2人の方が心配になるくらい顔が真っ青だった。
「うん、大丈夫…!」
私が2人に笑いかけると、やっと2人は、ほっ、と息を吐き、顔色が戻っていく。相当気を張っていたであろう2人は、ぐでん、と私の横になっているベットに倒れ込んだ。
そんな2人を見て思う。2人は⦅フィアムカデ⦆の気持ち悪さを思い出して取り乱してないな、と。我慢しているのか、気にしていないのか…。
多分だけど2人は後者だと思う。本当に気にしていないんだろう。というか、慣れたから、特に思うところはないのかもしれない。
モンスターを狩っていると、ああいうのにも慣れるのかな? それとも2人がすごいだけ?
うーん、と考えていれば、2人はよろよろと立ち上がった。
私の勘違いかもしれないけど、一瞬2人の目の下に濃い隈が見えた気がした。
「メルが起きたから、僕達帰るね。体調が悪い時にいたら治るものも治らないし。」
「うん。じゃあね、メル。」
いつもより元気のない2人にお礼を言い、見送った。
多分2人は寝ずに傍にいてくれたんだろう。それで濃くなった隈をイアンくんの魔法で隠してたんだと思う。だけどイアンくんは疲れていたから、魔法を保つ事が難しくて一瞬魔法が解けかかったんだと思う。
今度2人にお礼を言わないと…。
2人の優しさに癒されていると、私の服の中にいたアンジュが、ヒラヒラと出てきて抱きついて来た。
『ご主人様ぁ〜!』
私の胸の辺りに縋り付くようにしがみ付いた。
その体は微かに震えている。
『ごめんなさいですわ。わたし…、ご主人様のお役に立てませんでした。』
その大きな目に今にも溢れ落ちそうなぐらいに涙を溜め、悔いるように私に謝るアンジュ。
アンジュは何も悪い事していないのに。
きっとアンジュは怯えているんだ。
アンジュは前世を思い出す前の私に似ている。だから、誰かに失望されて欲しくないって怯えているのが、よく分かる。アンジュで言えば、私にかな。
その考えを否定するかのようにアンジュの頭を優しく撫で、触れる程度の力加減で抱きしめる。
「アンジュ、私はアンジュが好きだよ。」
慰めるような、窘めるような声色でそう言うと、アンジュは泣き出した。契約する時に私がああいう風に言っても、直ぐに信じられる訳ないよね。
今まで誰かに何かをされ続けて来たのなら尚更、直ぐには信じられない。
アンジュはとりあえずは落ち着いたのか、気が付いたらすぅすぅ、と寝息を立てていて、その姿を見て安心したのか力が抜けた。
とりあえずアンジュを踏んだら危ないので、ベットの右隣にある小さなテーブルにハンカチを数枚置き、そこに寝かせてもう1枚布団代わりのハンカチをかけた。
とりあえずこれで気が抜ける…。
ふー、と息を吐きベットに倒れて、気になったあの夢を思い出す。
声は知らないはずなのに、何故か聞いた事があるような気がした。何故、知ってる気がしたのかは分からない。本当にただ何となく「あ、知ってるような気がする…」って思ったのだ。
そう思った以上、1回はこの声を聞いてるはずなんだけど…。あんな良い声1回聞けば、直ぐに分かるはずなんだけどなぁ…。
すやすや眠るアンジュを見て穏やかな気持ちになって、何かが引っかかった。何だろう…。何か…、大事な…。
そこまで考えて、やっと思い出した。
“アビス・ユートピア”。
奈落と理想郷の名を持つ人。
《勇乙》の私の好きな人。
腰まである紫の髪を後ろで1つに結び、ツリ目がちの赤い目と垂れ下がった眉。
性格は、飄々としていて誰かを揶揄うのが好き。だけど世話を焼いてくれるし、困っていたら助けてくれる兄貴分みたいな人。全ては言いきれてないけど、全部言ってたら時間無くなる。
まぁ、とりあえずそんな感じの男の人。ちなみにリンナちゃんの2つ上の18歳。だけど声からわかる通り色気が凄い。
私が聞いた事があると思ったのは、乙女ゲームになった時にキャラの声だけが解禁されていたやつを聞いていたからだ。
……あれ…? 待って……?
私これからリンナちゃんの旅について行けるよう頑張っているんだよね…? それでアビスさんはリンナちゃんの旅に途中で参加するんだよね…?
私がこれから頑張って強くなれたら、リンナちゃん達の旅についていけるでしょ…?
そしたらアビスさんと会うことになる……。
無理…っ!! 無理です……っ!!!
あんなお色気製造機マシーンとあったら、正気でいられない…っ!! 絶対恥晒す……っ!!!
……アビスさんと会えるのは嬉しいけど……、強くなるのを諦めそうになりそうなくらいに、心が折れそう…。