召喚魔法の生贄になった少女
薄暗い地下室の床に描かれた魔法陣の中に、手足を縛られた私は置かれていた。魔法陣はうっすらと光を放ったままだが、動けない私にはどうにも出来ない。
私をここに寝かせた男は死んだ。見るからに魔術師だとわかる黒いローブで全身を覆った男は、明らかに可笑しげに瞳をギラつかながら召喚魔法を試みたが、どうやら失敗したらしい。路地裏育ちでロクな学の無い私が何故これが召喚魔法だとわかるかは簡単で、男が死ぬ前に嬉々と何度も語っていたからだ。
曰く、高名な魔術師さまであるらしい男は、私を生贄に魔法陣を使って高位の魔物を召喚したかったようだ。なぜ生贄が私なのかといえば、路地裏の孤児で死んでも誰も気にしないことと、魔力が多いので丁度良かったのだとか。
生まれつき魔力を多く持つ者は優遇されるらしい。私はこの男以外に魔力が多いと言われたことがなかった。お貴族さまは子供が産まれたら魔力の有無と内包する魔力量とやらを測定するらしいが、親も知らない私はそんなことされたことがない。教会にお世話になればまた話が違ったのだろうが、私は教会の施しを受けた事がなかったので、今まで自分が魔力を持っているなんて知らずに生きていた。
魔力を持っていても魔法が使えないのならば意味がない。私の魔力を男は有効に使ってやるからありがたく思えと尊大に言い放った。結果、男は失敗し死んでしまったが。私はといえば、魔法陣が光り始めると、体の中から何かが抜けていくのを感じ、ああこれが魔力なのかと思った程度だった。つまり、生き残ったのは魔力の多いらしい私だけだった。
私をここに連れてきて拘束した男は死んだ。どうやら単独犯だったようで閉じ込められていた地下室に男以外の気配がしたことはなかったし、今も何も感じられない。路地裏での生活で私を気にかけてくれた奴など皆無なので、せっかく生きていても助けを期待することなどは無駄である。手足を縛られ自由に動けない私に助かる道はない。
男が死んでも魔法陣は薄く光ったままだった。魔法陣の上で横になっている私には眩しいくらいだが、真っ暗闇に怯えるよりはいいだろう。男は何か呪文を唱えていたが、私にはさっぱりだったのでこの魔法陣を使ってどうにかすることもできない。
死ぬことは別に怖くなかった。今までだって生きているのか分からないような毎日を過ごしていたから。私は誰の目にも映らなかったし、私も誰の目も見なかった。助けを呼んでも答える人などいないのだから期待をするだけ無駄だと自分に言い聞かせて一人で生きてきた。
路地裏の孤児たちで徒党を組んで食にありつこうとしている奴らもいたが、私は混じらなかった。だから常にお腹を空かせていたし、体力を少しでも使わないようにただじっと日々を過ごしていた。なぜ自分がそこまで生きようとしているのか分からない。毎朝目が覚めて生きていることに絶望しながらも何処かいつも安堵する。
ただずっと路地裏から世界を見ていた。他人が楽しそうに生きるのを、苦しそうに生きるのを、私は黙って眺める。憧れなんて持ちたくなかった。羨望なんてしたくなかった。ただずっと世界が私を無視するのを眺め、世界を私は無視した。
今近くで死んでいるこの男が私を見つけた時、お前を生贄として使ってやると言われた。初めて自分が誰かの目に入り、求められていると感じた。だから大人しくついていき、手足を縛られて冷たい床に寝かされても特に抵抗はしなかった。大人しくしたがっていたからなのか私は口を塞がれることはなく、時々食べ物をもらっては寝ながらそれを食べた。
高名な魔術師さまだと話す割には、男の食事はとても質素だった。勿論、私にとってはそれでもご馳走であったが、路地裏で徒党を組んでいる奴らのトップの方が絶対にもっと良いものを食べているはずだ。
男が私に向かって果物を転がすとき、黒いローブから見えた腕は私に負けずに細くて驚いた。それなのに魔法について嬉々として喋る表情は生き生きとして目がギラついており、死んだように生きる私とは違い確かに生きている人間だと思った。
男をそこまで執着させる魔法というものが私には分からないが、それによって死んだ今、男は満足していることだろう。もしくは高位の魔物とやらを召喚する前に死んでしまった自分に怒っているかもしれない。3日も満たない付き合いだったが、私の人生で一番付き合いのある人物になった高名な魔術師さまだ。
薄く光り続ける魔法陣をなんとなく見つめる。この魔法陣が召喚魔法のものなのならば。男が死んだことで発動しかけたまま、今も光り続けているのならば。話通り私の魔力が贄になり完成するのならば。男のように呪文は知らないけれど、この魔法陣は何かきっかけを今も待ってるだけなのならば。
「誰か此処に来て」
助けを呼んだつもりはなかった。死ぬことは怖くなかったから。強いて言うならば、死んだ男の悲願だったからだろうか。死んだように生きている私と同じような細い腕をしているのに、瞳をギラつかせて生きていた高名な魔術師さまが夢中になっていた召喚魔法の完成とやらを見たかったのかもしれない。
魔法陣は今も薄く光ったままだ。やはり正しい手順が必要なのだろう。そう諦めかけた時、再び私の中の魔力が抜けてく感覚がしたかと思えば、思わず目を瞑ってしまうくらいに魔法陣が光り始める。
「俺を此処に呼んだのはお前か?」
響かないはずの音が聞こえ、私が目を開けると魔法陣は光るのをやめていた。それなのに地下室が真っ暗にならなかったのは、新しい発光物が現れたからだった。床で寝ている私の目の前には2本の脚だけが見える。光に包まれているそれを追うように顔を上げると、そこには腰まである長い黒髪を靡かせた美しい男がいた。顎に手をやり何か考える素振りをしている姿も様になっている。
「ふむ。察するにお前は生贄で、そこで死んでいるのが本来の召喚者なのだろうな。魔法陣の発動間近に事切れたようだ。執念が魔法陣を維持していたのだろう、そこにお前が魔力を流し込んだから不自然に発動し、俺が呼ばれたのか。しかし、俺を召喚するなど実に惜しい男だったな」
美しい男が死んだ男を見つめる瞳が、何処か労うように優しくて私は目が離せなかった。髪色と同じ黒曜石のような瞳がとろりとして綺麗だ。私の視線に気づいたのか、こちらに目を向けた美しい男は、手を向けると人差し指をクイと動かした。すると、私の手足を縛っていたロープが一瞬にして消えてしまった。
「まあ、死んだ者のことをいつまでも考えるのは無駄だし、最終的に俺を此処に呼んだのはお前だからな。異常事態も面白いではないか。よし、お前と契約することを認めよう」
美しい男がそう言うと、彼を包む光が一段強く輝き私を巻き込んだ。二人で光の中にいると不思議なことに彼の情報が私の頭の中に流れ込んできたのを理解した。
美しい男の名前は、ニア・ジーベル・ディレボア。魔物の貴族、それも魔王に仕える大幹部の侯爵の地位につく人物だった。名前が3つあるのは高位の証らしい。治安の維持を任されているようで死んだ男の執念で残っていた魔法陣を消そうと近づいたところ、私の魔力が注がれたらしく面白そうだからと召喚に応じることにしたのが私の脳内に見えた。
魔物との召喚魔法は、召喚者の魔力に惹かれた魔物が召喚に応じることで成立する。魔物に興味を持たれるような魔力であり、召喚に応じた魔物の強さに耐えうる魔法陣でないと召喚魔法は成功しないのだとか。成功しても魔物が契約を認めなければそれは失敗となる。
それだけ聞くと魔術師に不利な魔法だと思うが、その分契約が成立すると召喚した魔物を使役できるほか、先程のように召喚した魔物の情報を知ることができる。高位の魔物になれば情報に制限をかけることも可能らしいので私は彼の全てを知っているわけではないが、召喚魔法についてのあれこれは彼の知識から得たものだ。
「俺のことはニアと呼んでくれて構わない。知ったとおり俺は魔王さまに仕える侯爵でな。仕事が色々とあるのでこちらでの生活は難しい。出来れば君を今すぐにでも連れ帰りたいのだが、何か支障はあるだろうか」
私は彼、ニアの情報を得たが、ニアは私のことを知らない。とはいえ、私の格好などを見て大体の予測をつけているはずだ。この感覚はとても不思議だ。出会って少ししか経っていないはずのニアの側に今までずっといたようで、彼のことがわかる。情報であり経験ではないはずなのに、何も無かった私の中にひたひたと知識が満たされていく。
私はニアから得た知識で魔法を発動するため、手のひらに意識を集中した。光が生まれたことを確認してニアに差し出す。ニアはそれが何なのかを理解した上で受け入れてくれた。きっと取るに足らない私のツマラナイ人生が入った情報の光を、ニアの手がふんわりと撫でる。ニアに一度も触れられたことがないのに、その感触が伝わるようで何だか恥ずかしい。
普通、魔術師は魔物に自分の情報を見せない。契約とはいえ、完全に使役することは難しいから少しでも弱みを握らせてはいけないのだ。ニアが見せてくれたような有益なものなど何もないけれど、知って欲しかったから私はそれを差し出してしまった。今までまともな会話をしたことがなかった私はニアの知識があっても自分の全てを話すことが難しいと感じ、いっそ曝け出した方が早いと考えたからだ。
「私は何処にも行く場所がない。だからニアが連れて行ってくれるのなら嬉しいよ」
初めて誰かの目を見て話す。ニアの磨かれた黒曜石のような煌めきを宿す瞳は、逸らされることなく私だけにじっと注がれている。やがてニアは小さく息をついて近づいてくると私を抱え上げた。
慌てて落ちないようにとニアの肩に手をつく私の周りに風が纏わりついたかと思うと、私の体と服装は綺麗に整えられていた。薄汚かった肌は初めて見たが恐らく本来の肌の色をしており、ボサボサを通り越してガチガチに固まっていた髪もサラサラになっていた。さらにボロボロだった服はシンプルなワンピースと黒いローブに何故か変わっている。黒いローブ姿なのはきっと私が死んだ男の黒いローブ姿を、密かに格好いいと思って見ていたことをニアが知ったからだろう。
「じゃあ、行こうかエルサ」
ニアは私をそう呼んだ。その名を呼んだ人は私が物心ついてからは初めてだ。私自身も自分の名前を知らなかったから呟くこともなかった。それなのにエルサという名前が自分のものだと、ニアの知識で満たされた私には理解できる。
ずっと肌身離さず首にかけていたタグをぎゅっと握る。文字が読めるようになった今ならわかる。これは私の両親が私に贈ってくれたものだったのだ。
『エルサ。私たちの愛する娘』
私が差し出した情報でニアは気づいたのだろう。私も覚えていない頃の記憶にもニアは寄り添ってくれた。落ちないようにではなく、離れないようにニアの肩に掴まっている手に力を込める。ニアはそんな私に答えるように背中をポンと叩くと転移魔法を発動させる。
視界が白に染まる前、私は今はもう光を失った魔法陣の側に倒れている死んだ男を見る。名前も知らない自称高名な魔術師さま。死んだ後も執念で光らせていたという魔法陣から高位の魔物が出てきたのに満足しただろうか。何故自分が契約者ではないのかと怒っているかもしれない。
私は気づけばお揃いのようになっている黒のローブの裾を握っていた。死んだ男ほどの狂気のような情熱で魔法とは関われないが、幸い私には魔力もあるしニアの知識もある。黒のローブ姿は高名な魔術師さまのようでお誂え向きではないか。
こうして自分の名前を取り戻し、高位の魔物と契約を結んだ私は、自身を魔術師と名乗るようになった。その後、魔物たちの暮らす世界で、気づけばディレボアの魔術師さまと呼ばれるようになり、魔王の側近である侯爵の伴侶であり右腕と言われるようになったのは、未来のまた別の物語である。