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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪夢の法廷、目覚めの生

作者: 久蔵伊織

 首堂糺は、籤引きに当たった。

 宝くじなどではない。ある裁判の傍聴席だ。

 センセーショナルなその事件に、マスコミは詰めかけた。裁判所の周囲にはアナウンサーやカメラマン、その他マスコミ関係者で埋め尽くされている。その隙間を縫うようにして進んでいると、知り合いの雑誌記者が目聡く糺に気付いた。

「糺ちゃん」

「あー…柿崎サン」

 火の付いていない煙草を咥えた五十がらみの男、柿崎は首からカメラを下げ、鋭い眼光で糺を見上げた。その手にはちゃっかりとICレコーダーがある。

「糺ちゃん、この事件の傍聴するの?言っちゃあなんだけど、あんまり深入りしない方が良いんじゃない?若い刑事サンって切り替え出来なくて病んじゃったりするよ?」

 糺は刑事だ。

 そして裁判となったこの事件の、捜査も担当していた。

 普段は───柿崎に言われるまでもなく、自分が捜査に関わった事件の裁判を傍聴しにはいかない。

 捜査が終われば、縁が切れる。

 そうして割り切っていくのだ、と先達の刑事達が教えてくれた。後は検察の仕事だ。俺達はやりきった───と。

 糺は柿崎の持つレコーダーを警戒し、言葉を慎重に選ぶ。

「印象深い事件だったんで、ね」

「まぁねー。児童養護施設が人身売買の巣窟だったなんて、ね。その上、人死にが出てるんだもの」

「柿崎サンは傍聴出来るんですか?」

 意図的に話をずらせば、柿崎は素直に流されてくれる。

「外れちゃったー。糺ちゃん、裁判の様子教えてよ」

「俺、語彙力ないから無理でーす」

「お勉強しなさいよ」

「公務員試験で脳味噌使い切った感ある」

「今時の子ね!」

 柿崎と別れ、裁判所の中に入れば、流石に静まりかえっている。少しでも騒げば警備員が飛んでくる、そういう場所だ。

 開廷までは暫くある。

 警備員に喫煙所を尋ね、暫く時間を潰すことにした。



 ───あの子が、出廷すると聞いた。


 ウサギのぬいぐるみを抱き潰す手は震えていた。まだ少女。子どもだ。なのに、彼女が縋りつけるのは綿が詰まっただけの古いぬいぐるみだけだった。血の気が失せた貌は整っていて美しく、却って痛々しい。

 彼女は凍り付いた目をあらぬ方向に向けたまま、糺に訊いた。問うた。


 ───刑事さん、わたしは、




『───開廷』

 糺は我に返った。

 傍聴席には、糺の他に人はいない。ただ、密やかに囁く声が、法廷スケッチの鉛筆が走る音が、人の体温が、見えないままに在る。

 

 いないのに、いるのか、

 いるのに、いないのか。


 糺は自身がおかれている状況を素直に受け入れていた。奇妙な事件に関われば、奇妙なコトに巻き込まれるのは、ままあることだ。

 どうみても魚にしか見えない面の連中が、異形の神を信奉し、生贄を求めて誘拐を繰り返していたこともある。

 人の屍を喰いながら、穏やかに暮らしていた者もいる。

 神と崇められた何か、と接敵したこともある。


 ───世の中は想定よりも、賑やかだ。


 裁判官は褐色の肌の美しい男だ。纏う黒いローブは確かにその職を示すものだが、印象としては───罠、だ。惹きつけ誘うような笑みを浮かべながら、人が堕ちるのを待っている、そういう、同族の形をした罠だ。

 通常の裁判では裁判官の他に選出された裁判員がいるはずだが、その姿は無い。

 検察官の席には、でっぷりと太った赤いドレスの女が今にも噛みつきそうな顔でふんぞり返っている。

 弁護士の席には、首だけの男がいる。にやにやと鋭い牙を覗かせて、嗤っている。

 そして被告人としているのは───俯いたままのあの子。諫山、優愛。その手にはウサギのぬいぐるみはない。被告人の服装が自由化されて久しいが、青いワンピースに白いエプロンドレスというチョイスは中々見ない。

 あぁ、と糺は気付く。


 ───不思議の国のアリス。


 検察官はハートの女王。

 弁護士はチェシャ猫。

 そして罪人は───アリス。

 裁判官だけが配役が見つからない。自分と同じく、異分子だ。しかし同じ立場というわけでは決してない。

 法廷において、裁判官は最も強いカードだ。 ハートの女王が検察官に身を窶している以上、この裁判は首を刎ねてお終いにはならない。

 

 裁判官はこれ以上ない蠱惑的な笑みで、告げる。

『被告人は諫山優愛。

 これより───優愛による7人殺しの裁判を始める。

 検察による求刑は───死刑』


 糺はアリスを見た。優愛ちゃん。傍聴席からでは彼女の表情は窺えない。

 彼女は、かつて訊いてきた。


 ───刑事さん、わたしは、


 ───どうして死刑にならないの?



 そして糺は理解する。

 ───此処は、彼女の世界だ。



 でっぷりとした腹を抱えて身動きも鈍く、しかし威厳を持ってハートの女王───検察官は厳かに告げる。

『証人、前へ』

 証人として現れたのは…ウサギの頭を被った女だった。ウサギの頭には大量のナイフが突き刺さり、血が滴り落ちている。骨格や体つきから、30代程とみた。顔が見えないというのもあるが、その年頃の女性が、事件関係者として上がって来たことはない。誰だ、と糺は眉を顰める。

『証人、氏名を』

『いいいいいさ、やまぁあああああ、ゆうううううううういいいいいいいいい!』

 悲鳴だった。

 苦悶に呻きながら、諫山優は証言台へとしなだれるようにして倒れた。

 ───諫山。

 なら、優愛ちゃんの───

『被告人との関係は?』

『わ、わたしッ、わたしが産んだ!この悪魔を!死ね、この悪魔!お前の所為で私がどれだけ苦しんだと思っている!』

 浴びせられる実の母からの罵倒に、優愛は微動だにせず、俯いたままだった。


 糺は幻視する。

 幼い、本当に幼い優愛。母を求めて泣く彼女に伸ばされた手は───彼女を打ち据えた。泣く元気が無くなるまで、殴り、蹴り、そして母は彼女を顧みることなく、ドアを開く。そこには若い男が母を───女を待っていた。ドアの外から響く、女としての母の嬌声。

 母にとって、彼女は我が子で、邪魔者で、五月蠅く煩いもの。産まなければ───と何度も思ったもの。あの子の所為で、私の人生は苦しいばかり。



 弁護士───首だけのチェシャ猫がゆうるりと証言台の母の周りに浮かぶ。

『ねぇ、お母さん。貴女は、お母さんじゃないだろう?

 貴女は優愛を売り飛ばした人売りだ。産んで苛んだだけの人売りだ。


 さぁ、検察官、答えてくれ、裁判長も宣告を!」

 チェシャ猫は高らかに声を上げる。


『人を虐待した上で、売り飛ばす。

 そうした非人道的な犯罪に対して、検察官、貴女の判断は?』

『───死刑』

『裁判長』

『此処は裁判所にして処刑台でもある。そうだね、死刑も悪くない。しかし、彼女は悪魔を産んだと悔恨してはいる。情状酌量の余地を認め、彼女を───四肢裂きにしよう』

 誰もいない傍聴席が沸いた。

 刑務官服にはスペードが縫い付けられている。トランプ兵の彼らは迅速に刑を執行する。

 諫山優の四肢には荒縄が括りつけられ、そうしてトランプ兵達が、せぇの、と声を合わせて互いに背を向けて走り出す。

『ぎいぃいいいいいいいいいやああああああ…!!』

 歪な悲鳴が凄まじく長く響く。

 そして彼女の手が、肘が、肩が抜け、

 そして彼女の足が、膝が、股が抜け、

 ぶちゅり、と四肢が飛び散った。


 糺は───優愛のことを思った。捜査の中で、彼女から得られた情報は極めて少ない。押収された資料から察するに、彼女は母親に捨てられ、件の児童養護施設に預けられたようだが───こうした背景があったのだろう。

 母親による虐待。

 それに対する、憎悪。

 その結果が、と糺は証言台に欠片となって残る彼女を眺める。息も絶え絶えに、しかし生きている、母親だ。母親はトランプ兵達に、ゴミくずのように履き捨てられ、退廷した。

 ───あの母親は、ウサギのぬいぐるみを被っていた。それはどうしても、優愛が抱えていて、今は持っていないぬいぐるみと繋がる。ウサギのぬいぐるみは───唯一、母親が優愛にあげたものなのではないか、と。



『次の証人、前へ』

 ずた袋を被った男が、証言台へと着く。

 糺はその男の身形や仕草から、暴力団関係者と察した。

『証人、氏名を』

『六波羅、大志』

 糺は思い切り眉間に皺を寄せた。

 ───六波羅大志。指定暴力団組員。今回の事件では、

 六波羅はぐるりと振り向き、優愛を指差す。

『俺はあの雌餓鬼に刺されて死んだ!』

 ───そう、確かに、この男は優愛に刺され、死んだ。死人は死へ。六波羅の腹はどんどん血に染まっていき、がくがくと痙攣を起こして、倒れ伏し───死んだ。あるべき姿に落ち着いたとも言える。

 しかし…実際の捜査でもこの点は非常に難儀した。 

 ───何故、諫山優愛は、六波羅を殺したのか。動機が分からない。いや、様々な動機は察せられるが、一体どれなのかが分からない。


 糺は思い出す。あの時の光景を。

 何しろ第一発見者は糺だったのだから。


 始まりは異臭だった。

 腐臭ではない。練炭の臭いだ。七輪で魚でも焼けばそうか、と思うがそうでもない。この麗らかな春の日に、練炭は似つかわしくない。 

 糺は警察という身分を開かし、児童養護施設『天の揺りかご』園へと立ち入り、動揺する職員を余所に、糺は異臭の元まで突っ切った。そしてドアの奥から練炭の臭いが濃く漂ってくる。糺は口元を覆いながら、慎重にドアを更に開ける。

 そこには6人の少年少女がぐったりと呼吸を止めていて───1人の少女が震えながら血塗れの手でウサギのぬいぐるみを握りしめていた。そこには明らかに異物があった。倒れ伏す男、六波羅。腹にはナイフが刺さっている。何処かの動脈を切り裂いたらしい。出血は酷く、既に脈は無かった。


『次の証人は…おっと、多いな』

 ぞろぞろと豚や犬、猫、様々な動物の被りものを被った小柄な少年少女達6人が証言台へと並んだ。彼らは先の二人のように、優愛に怒りや憎悪を向けるのではなく、明るい声を上げた。

『ねぇ、優愛、いつ来てくれるの?』

『ちょっと遅いよ』

『待ってるよ、みんな』

 きゃいきゃいと彼らは優愛に手を振る。待っている、と友達の約束を果たしなさい、と柔らかく快活に言う彼らは───つまり、


 ───あの世で優愛を待っている。

 ───早く来い、とは、つまり。


 ───優愛に死ね、と、言っている。



 此処は優愛の世界であり、彼女の認識が何らかの抵抗を経て構築されている。



 つまり彼女は、男を殺した罪で死ぬべきで、

 仲間の下に行くためにも死ぬべきだと、

 

 そう思っている。


 

 しかし何故───彼女は糺をこの世界に巻き込んだのだろう。

 糺は警察官で、刑事だが、この裁判所においての役割はただの傍観者でしかない。

 

 ───違う。彼女は以前、糺に訊いた。

 ───『なぜ、死刑にならないの?』

 ───糺は答えた。『君は悪くないからだ』

 糺は立ち上がる。

 傍聴席から、証言台へ。

 背後の被告人席から、驚いたような、安堵したような息が漏れた。

 糺は笑う。

 ───きちんと答えよう。

 正面の裁判官は新しい玩具を見つけたと言わんばかりの笑顔だった。

「俺が、証言する。

 この事件について、知るところ全て」


 

 ───事件の現場は、児童養護施設『天の揺りかご園』。 

 法廷が揺らめき、あの現場へと姿を変える。 裁判官、検察官、弁護士、そして被告人。

 彼らを引き連れて、糺は第一発見現場へと向かう。…被告人となった彼女の足は重い。糺は後ろを振り返り、手を差し出す。


「答える」


 ただの一言を誓言した。

 彼女は真っ青な顔のまま、頷き、糺の手を取った。震える小さな手を握り、再び向かう。

「───俺が最初に異変に気付いたのは、異臭だ。五感が鋭くてね。ヤベぇ臭いだった直ぐに分かった。だから此処に来て、臭いの元を辿っていけば、血の匂いまでして来やがる」

 中途半端に開いたドア。そこから漏れるのは熱気と異臭。

 糺はそのドアを大きく開ける。

 ガムテープだらけだ。内側から目張りされてた。かなり厳重に、頑丈に、執拗に貼られたテープには死に向かう意志が込められていた。

『職員に警察と消防、救急車を呼ぶように言い付けて、俺は更に中に入った。まず目に付いたのは六波羅大志だった。血塗れで倒れてたからな。そして奥には子どもが折り重なって倒れていた。火の付いたままの練炭を囲んでな。後は───血塗れの手でぐったりとしている優愛ちゃん』


 ───あの時、練炭を外へ放り出し、子ども達の脈や呼吸を確認したものの、糺に出来ることはもうなかった。唯一優愛だけは僅かに意識があり、兎に角、新鮮な空気を、と担いで部屋を出た。糺の背で、だめ、と小さく呟いた彼女を覚えている。だめ、がこれ程に、世界に糺を引きずり込むほどだったとは気付かなかった。気付けなかった。


 六波羅は裁判所での証言した姿とは異なり、短く刈り上げた髪と無骨で野卑な顔が露わになっている。鈍い瞳は死んでいる証拠だ。

 糺は六波羅に刺さったナイフを指し示す。

『六波羅に刺さったナイフは、位置と角度からしてかなり身長が低い者による刺傷だと分かる。そして練炭自殺の相場として目張りして密室となった部屋の中、そこには両手を血に染めた人間がいた。誰が手に掛けたかなんて、直ぐに分かった』

 その後の警察の捜査で分かったのは、『天のゆりかご園』が指定暴力団と海外マフィアとによる人身売買の巣窟であったという事実だ。表向きは外資系医療会社によるよくある慈善事業として、裏では少年少女達の性と血肉を売っていた。息の掛かった病院で『商品』のメンテナンスと搾取を行い、死亡診断書もそこで書かせる。親にも誰からも見放された子どもの行く末は、知られることがないままだった。

『天のゆりかご園の帳簿は隠語だらけだったが、解読出来たよ。俺じゃないぞ。頭の良い鑑識とサイバー情報分析班の活躍だ。

 …相場より良い値段で、子どもの何もかもが売られていた』


 ───愛する者とするはずの性体験。

 ───健康な内臓。

 ───綺麗な肌。         

 ───未来。

 

 糺の手の中の、優愛の手が過度の緊張に冷えていた。握る。温もりを求める手が握り返してくる。細い骨、柔い肉、小さな手。か弱い手。それでも、彼女はこの手で。


『───なぁ、証言してくれ、優愛ちゃん。俺達警察は、状況証拠で事件を読むしかなかった。あの時、君は何も語れる状態じゃなかったから。

 何を感じて、考えていたのかを。教えてくれ』

 

 諫山優愛の全身が震え、そして静かにそれは収まっていく。怒りであり怯えであり恐怖だった。

『ぶしつけ、っていうんじゃない?刑事さん』

『悪いな、駄目な刑事で』

『良いの。はなさなきゃ、はなしたい。みんなのこと』

 優愛のアリスの衣装がかき消え、此処で───『天のゆりかご園』で与えられていた、粗末なワンピースへと切り替わる。

『わたしたちは、わたしたちのものだって、証明しようと思ったの。そのためには死ぬしかなかった。逃げられない。誰も助けてくれない。毎日、つっこまれるか、血を抜かれるか、いつのまにか身体から何かが無くなっちゃう』


 練炭とガムテープ。

 それが決意の証。

 搾取者達に対する、悲愴なテロリズム。

 

『みんなでいこうって約束して、でもわたし、うまく眠れなくて。そしたら外が騒がしくなって、あいつが入ってきた』

 優愛の声が、唇が震え出す。

『あ、あいつ、いったの、『死んでても使える』って。ゆるせな、ゆるせなかった。わたしは、わたしたちはもう、これ以上、だめだった。だからわたし、刺した。殺した。此処に、他に誰かが来るなら、殺してやろう、そう思って───そしたら、貴方が来た』


 外の匂いがする人が、来た。

 悪魔が秤売りするための揺り籠の外から来た。


 うれしかった、と優愛は泣いた。

 でもだめなの、うれしいなんて思っちゃだめなの、だって、みんな、しらない、うれしいなんて、いきててよかったなんて。


「刑事さん」

「なんだ」

「どうして、わたしは、死刑にならないの」


 死刑だ、と検察官が叫ぶ。

 否、と弁護士が制する。

 裁判官は───笑っている。


「法律上では、君が未成年だから」

「法律なんて知らない」

「過酷な環境下で、精神が摩耗して正常な判断力を持った状態ではなかったから」

「考えて、ちゃんと、決めたのに」

 うん、と糺は頷く。

「自分達を守るために殺したんだよな」

「守るためだったら殺して良いの?」


「あぁ、そうだ」


 糺はあっさりと断じた。


「警察官として、言おう。殺すのは最悪の罪だ。


 一人の人間として、言おう。相手が殺しに掛かってくるのなら、返り討ちにしてやるべきだ。


 警察官として、言おう。

 ───君は辛い思いをしてきて、仕方のないことをしてしまった。許されるべきだ。


 一人の人間として、言おう。

 ───君は、よくやった」


 優愛は目を見開き、そして少しだけ困ったように笑った。

「そんなこと言って…わたしが悪い子になると思わないの」

「悪い子になったら必ず捕まえてやるから大丈夫だ」

「酷い人」

「あぁ」

「君は死刑にはならない」

「うん」

「だから───先に逝った子達に会えない」

「…うん」

「君はあの時、死んで何もかも無くなる代わりに、あの子達の死後を守ったんだ。上等だろ」

「そうかな…」

 糺は繋いでいた手を離し、代わりに優愛の頭を撫でた。


「よく、頑張ったな」

「───うん」


 しゅるり、と弁護士が消えた。にやにや嗤いがじわじわと薄れ、消えていく。

 周囲の気配が段々と変容してくる。

 しかしそれは良い兆候ではない。糺は肌で悟っていた。この世界の主である優愛は、本能的に悟っていた。

「ごめんなさい、わたし、まだ自分を許せないみたい」

「そうだろ、一朝一夕に解決出来る問題じゃねぇし」

 

 現れたのはウサギのぬいぐるみを被った女。───優愛の命そのものを罵倒した女。

 そしてずた袋を被った男。───優愛が命を奪った男。

 ずらずらと警備員が周囲を取り囲み、ハートの女王が高らかに執行を宣言する。

『首を刎ねよ!』


 優愛の母親、六波羅大志、ハートの女王と警備員。全て、優愛の罪悪感が産み出したものだ。

 それら全てに向かって糺は拳を握り───

「ま、正当防衛ってやつだ」 

 走った。

 まず狙うのはハートの女王だ。司令塔を潰すのは戦術の基本───といっても、この世界でそれが通用するとは限らない。というか、通用しないだろう。それでも糺は彼女を一番の標的として見定めた。死刑を高らかに叫んでいた彼女。

 ───ぶちのめす。

 でっぷりと太った彼女は俊敏には動けない。武術の心得もない。良い的だ。

 脂肪だらけの腹を拳を叩き込む。思った以上に拳がめり込んだのはちょっとした驚きだ。彼女の身体がくの字に折れ曲がり、思わず下がった頭を掴み、今度は膝蹴りを食らわす。顔面の柔い骨がぺきぺきと折れる感触が伝わる。ハートの女王は地に伏し、そして消えた。

 次、警備員達。

 警棒を振り上げる彼らに囲まれ、背を、肩を打ち据えられる。痛い。普通に痛い。しかしこの程度で倒れる程柔ではない。こちとら、訳の分からない生き物と交戦したこと数知れず。形が人間であるだけ、まだマシだ。正面の警備員の攻撃を受け流し、がら空きになった胴を横薙ぎに蹴り上げる。完全に体勢を崩したところに更に足払いを掛け、背負い、他の警備員達に向かって投げ飛ばした。総崩れとなり、彼らもまた、消えた。

 ぱん、と乾いた音は、耳慣れたもの。銃声だ。六波羅が拳銃を構えている。運良く外れたのは幸運だ。相手が拳銃、となればやることは一つ。助走を二歩、散歩で踏み切り、両足を揃えて六波羅を蹴り飛ばす。所謂、ドロップキックだ。銃口に対して、曝される面積は減らした方が良い、そう思ってのドロップキックだった。最悪、当たっても、足の裏。内臓が詰まった胴や頭蓋に被弾するよりは格別に良い。吹き飛びながら、六波羅は消えた。

 そして───最後は優愛の母親。ウサギのぬいぐるみに刺さった無数のナイフ。その一本を抜き去り、奇声を上げながら駆け寄ってくる。警察官としては───常に想定される事態だ。無我夢中でナイフを振り回す手。しかし無茶苦茶な軌道も、鍛えていない女の手では読みやすい。腕を掴み、捻り上げれば、乾いた音を立てて骨が外れた。更に奇声が大きく悲鳴となり、呆気なく、消えた。


「───優愛ちゃん」

「…うん」

「これからはコイツらと、自分で戦って、折り合いを付けなきゃならねぇ」

「…うん。やるよ、しにたいって思いながら、いきることができなかった子達を思って、生きる」

「そうか」



 場違いな拍手が響いた。

 そういえば此奴がいたな、と糺は振り返る。すっかり忘れていた。

『忘れるのは酷いなァ。裁判官といったらベストポジションでしょ?』

「そうでもねぇだろ。二時間ドラマで主役張るっていったら刑事だ」

『全く、人間は泥臭く足掻くのが好きだよねぇ、演劇でも、現実でもさ』

「その方が面白いだろ」

『まぁ見てる分にはね』

「あぁ、お前、生きたことねぇんだな」

 褐色の肌の美丈夫は、無言で笑んだ。

『さて、法廷ドラマは終わり。…何だか最後は勧善懲悪の時代劇みたいになっちゃったけど。イレギュラーも視聴者に受けるでしょう。多分。それじゃあ次のお話で───またお会いしましょう───ふふふ』

「残念、打ち切りでーす」

『あははは!』




 諫山優愛はうたた寝をしていたようだった。

 かくん、と身体が傾いて漸く、自分が眠っていたことに気付いた。傍らの検察官が気遣わしげに眉を下げる。ハートの女王なんかじゃない。スリムで優しい人だ。

「…大丈夫?やっぱり、疲れているんじゃない?」 

「だいじょうぶ、です」

「裁判って緊張するものよ。具合が悪くなったら直ぐに言ってね」

「だいじょうぶです。予行演習、してきたので」

 検察官はよく分からないといった顔をしていた。とても頭の良い人でも分からない、そんな体験をしたと思う。

「あ、優愛ちゃん、ぬいぐるみ、忘れてる」

 擦り切れ、汚れたウサギのぬいぐるみ。そういえば、これが無いと駄目だったっけ。

「いいんです、もう」

「そうなの?」

「はい」

 ───ばいばい、おかあさん。




 優愛は沢山の人が並ぶ中、証言台に立つ。

 その沢山の人、の中に彼の姿を見つけた。

 ───刑事さん。

 彼は笑い、そして口の動きだけで伝えてくれる。

 ───やっちまえ。

 うん、わたし、やってやるの。

 裁判官を、裁判員を見据える。

 そして口を開く。

 あの場所で何が行われていたのかを、包み隠さず、知っていること全てを吐き出す。途中で、気分を悪くした裁判員がいたことで休廷となった。優愛自身も、苦しくて気持ちが悪くなる。それでも奮い立つ。逝ってしまった彼らのためになると、そう思い込んで。

 優愛が出廷したのは、被害者として証言をするためだ。被告人は、暴力団員と、マフィアの末端。まだ余罪はかなりある、と検察は見ていて、優愛の証言はこれからの足がかりでもある。もっと大物がいることは明らかだった。

 被告人の弁護士を見据える。負けない。どんなことを言われようと、訊かれようと、怯みはしない。胸は痛い、苦しいけれど、絶対に退かない。


 あの夢の裁判所と、彼が私を強くしてくれた。



 ───…先に逝った彼ら。もう少しだけ、此方にいることを許して欲しい。わたしたちを傷つけたもの全てを、許さないために。


 いきていく。

 戦うために生きていく。

 戦うように生きていく。


 そう、やっちまえ!わたし。




 

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