社交辞令と付き合い方
お久しぶりです!m(_ _)m
日本には、社交辞令という言葉があった。
相手を傷付けないように、物事を円滑に進めるために行われる、古きよき習慣。
『一緒にお菓子を作ろう』という発言も、その場を切り抜けるための方便のつもりだった。
けれどそれは、意外なほど早々に実現した。リリスターシェがかなり乗り気だったためだ。
とはいえ、ナナセは製菓に関しては素人。王宮で働いている料理人の方がいいのではとやんわり提案してみたが、ナナセと一緒に作りたいのだと却下されてしまった。
なので貸し切った厨房にはナナセとリリスターシェ、そしてお目付け役のエビータという、最低限の人数しかいない。
王女のために準備されているだけあり、厨房内は一分の隙もなく整頓されていた。
磨き抜かれた調理器具に、調理台に並べられたクッキーの材料。
バターも卵も常温になっているし、小麦粉や砂糖もきっちり分量ごとに用意されている。むしろこれなら失敗のしようがないだろう。
「でははじめましょうか、王女殿下」
「ええ。頑張りましょうね、ナナセ」
凝ったデザインのエプロンを付けているリリスターシェは、今日も安定の可愛らしさだ。
やる気に満ちあふれた姿を、微笑ましく見つめていられたのは一瞬だった。
なぜか彼女は、卵を次々に割り出したのだ。
「ちょっ、少々お待ち下さい、王女殿下。そのように多くの卵を割る必要はございません」
「あら、そうなの? ここにあるものは全部使いきるべきなのかと思っていたわ」
ボウルに山と盛られた卵は、おそらく二十個以上ある。大量に作るのでもない限り不要な量だ。
しかも少女の手元にある卵の殻は、無惨なほど粉々だった。これは、殻を取り除かなければとても食べられないだろう。
クッキー作りの成功は、自分の力量にかかっているかもしれない。ナナセは改めて気を引き締めた。
「手順としては、まずバターをかき混ぜましょう。クリーム状になりましたらそこに砂糖を入れ、さらに混ぜるのです」
「クリーム状ね。分かりました」
「根気のいる作業ですので、交代しながらかき混ぜましょう。無理せずにお願いいたします」
こちらの世界にはハンドミキサーがないので、滑らかになるまでひたすら混ぜ続けるしかない。泡立て器があることがせめてもの救いだ。
ほとんど肉体労働と言える作業は、当然ナナセが主力だった。王女という身分は関係なく、単純に体力の問題で。
何度か交代を繰り返すことでクリーム状になったバターに、他の材料を混ぜていく。
完成した生地を寝かせる間に使用した器具の片付けをしていたナナセは、リリスターシェに問う。
「ちなみに、前回いただいたクッキーの時はどのようになさったのですか?」
「材料を全て入れました。少しずつ材料を足していくだなんて、知らなかったわ」
「ちょっと手間ですけれど、段階を踏むことによってお菓子はよりおいしくなるのですよ」
「そういえば、ボソボソとしていて口溶けが悪かったですものね」
彼女も自作のクッキーを食べたのか。そして、口に合わなかったらしい。
「あの時は、無理に食べさせてごめんなさい。ナナセを困らせてしまいました」
「謝られることはございません。ですが、なぜ殿下がそうまで手作りにこだわるのか、お伺いしてよろしいですか?」
お菓子を作ることに凝っていると話していたが、彼女は王女だ。調理中に怪我を負ったら、料理人の責任となるかもしれない。
本来なら厨房に立ち入ることさえ許されないはずだし、リリスターシェ自身も使用人達の立場を守るため、慎重に行動すべきなのだ。
それでも我が儘を通そうというのが、身分ある者の気まぐれとはどうしても思えない。
彼女は賢明だ。
『リリスターシェ』と呼ぶことを強要しない点から考えても、幼いながら権力に伴う責任を理解している。だからこそ、そこに強い思いがある気がした。
リリスターシェは、視線から逃れるように俯いた。その頬がじわじわと赤くなっていく。
「その……街の娘達は、そうすると聞いたの」
「街の娘達?」
聞き返したところで、ふと思い至った。
最近王都では、意中の相手に手作りお菓子を渡して想いを伝える方法が流行っていると聞く。
男性側からお菓子を渡す場合もあるらしく、王宮内より男女のあり方が自由だと思ったことを覚えている。多様性が尊重されているのだ。
それはともかく、つまり、そういうことなのか。
赤く熟れた頬の王女には、想う相手がいると。
ナナセは奇声を発しそうになった。衝撃的な事実だし、衝撃的に可愛い。
腹筋に力を込めて何とか堪えている間に、ある程度時間が経っていた。そろそろオーブンに火を入れ、焼成の準備をはじめる頃合いだ。
寝かせ終えた生地をある程度薄く伸ばし、丸い型でくりぬいていく。この作業はリリスターシェが率先してやってくれた。
十分熱くなったオーブンに、成形の終えたクッキーを入れる。あとは焼き上がるのを待つだけだ。
一段落ついたので、ナナセは紅茶を淹れた。
本来は移動すべきだろうが、リリスターシェが構わないそうなので、その場で簡易お茶会とする。
簡素な椅子しかないことを申し訳なく思っていたら、エビータがどこからともなく座り心地のよさそうな椅子を持ち込んだ。一脚のみというのが何とも侍女長らしい。
そうして紅茶を味わっていると、厨房の出入り口が遠慮がちに開いた。
「すまない。こちらにリリィと、ナナセ殿がいると聞いたのだが……」
堅い口調の幼い声。
ナナセは一度も会ったことがないけれど、すぐに誰か思い当たった。
「まぁっ! ヴァン、なぜここに?」
リリスターシェが驚きつつ、どこか嬉しそうな弾んだ声を上げる。
ヴァンルートスは、厨房という背景に違和感を覚えるほどきっちりとした礼装に身を包んでいた。
リリスターシェより黄みの強いサラサラの金髪と、深い緑の瞳。端整な顔立ちは穏やかで、確かにディンメルの王族とどこか似通っている。
リリスターシェの兄王子だと紹介されても、普通に納得してしまいそうだ。
「ヴァン、起きても大丈夫なの?」
「心配してくれてありがとう、リリィ。体調ははじめから全く問題ないよ。ようやく外出の許可が下りたから、一刻も早くナナセ殿に謝罪と感謝をお伝えしたくて。お菓子作りを楽しんでいるところに無粋だろうと思ったのだけれどね」
親しく名前を呼び合う子ども達は、どちらも互いを愛おしそうに見つめている。まるで天使が戯れているような、心が洗われる光景だ。
けれどナナセは自分の名前が出たことで、崩壊しかけた表情筋を急いで律さねばならなかった。
「あなたが、ナナセ殿ですね」
視線を向けられ、静かに頭を下げる。
するとヴァンルートスは困ったように微笑んだ。
「どうかおやめください。頭を下げるべきは、むしろ僕の方ですのに」
「とんでもないことです。私はあくまで仕事をしたまでですから」
「リリスターシェに聞いていた通り、とても真面目な方なのですね。では僕も、あなたが謝罪を受け入れてくださるまで頭を下げ続けましょう」
そう言って、ヴァンルートスは本当に深々と頭を下げてしまった。
慌てたのはナナセの方だ。他国の王族に頭を下げてもらうような身分ではない。
「僕が至らなかったために、たいへんな騒ぎを起こしてしまいました。ナナセ殿がいなかったら、どうなっていたことか分かりません」
「謝罪を受け入れます。ですので、どうか…」
恐縮しきっていると、ヴァンルートスは笑顔で顔を上げた。
彼は少し面白がっているようだが、一般市民として育ってきたナナセの価値観からすると全く笑えない。ほとんど脅迫だ。
「では、次に感謝を。あなたが僕を捜し出してくださったと聞きました。春宮の回廊に飾られていたあの絵を、撤去した方がいいと進言してくださったのもあなただと」
「もったいないお言葉です、殿下。むしろ撤去していなかった方が、恐ろしい思いをなさらずに済んだかもしれません」
「それは、かけ布がなかったせいで、あなたの落ち度ではありません。だからこそ感謝をお伝えしたかった。異国から来た者のために、気を配ってくださりありがとう」
ヴァンルートスから溢れる誠意に胸が打たれた。
彼もことの重大さを、よく理解しているのだ。
それほどに真面目で、ひた向き。後輩侍女達から聞いていた通りの人柄だ。
もしかしたら先ほどのからかいも、ナナセの緊張をほぐすためだったのかもしれない。
ずいぶん幼い王子に気を遣わせていると思えば、いつまでも拒絶し続けることは難しかった。
「……交友を深めるのは良いことですが、これからは危ないことはなさらないでくださいね」
僅かに笑顔を見せると、ヴァンルートスもホッとしたように微笑んだ。
ナナセの態度が柔らかくなったことを察したのか、リリスターシェがタイミングよく手を叩いた。
「そうだわ、ヴァン。もうすぐクッキーが焼けるのよ。あなたも食べてみない?」
「誘ってくれて助かったよ、リリィ。実は先ほどから、この素敵な匂いが気になっていたから」
お腹をさするヴァンルートスの言ったとおり、厨房にはバターの芳醇な香りが漂っていた。もうすぐクッキーが焼き上がるのだ。
急いで紅茶の支度をしていると、またもやエビータがどこからともなく椅子を持ってきた。
準備が整ったところでクッキーが焼き上がった。
焼きたては熱いが、ホロホロとした食感が楽しめる。じゅわりとバターが染み出し、冷ましたものとは異なる味わいがあるのだ。
「とてもおいしいね。これなら、いくらでも食べられそうだよ」
「駄目よ。夕食が入らなくて怒られてしまうわ」
目を丸くさせておどけるヴァンルートスを窘めているが、リリスターシェは嬉しそうだ。
仲睦まじい様子を見ていれば、リリスターシェの想い人が誰であるかなど明白だった。
そして幸せそうに笑い返すヴァンルートスが、彼女をどう想っているのかも。
穏やかで真面目なヴァンルートスと、可愛らしくも聡明なリリスターシェ。お似合いの二人だ。
クッキーを分け合う姿は、ずっと眺めていたくなるほど尊い。侵しがたい。もはやこのまま壁となって堪能していたかった。
ふと、エビータと視線が合う。
ナナセ達は力強く頷き合った。
共感し、謎の仲間意識が芽生えた瞬間だった。




